ワイン風呂
リリィの言葉通り先に風呂に入ることにした。
浴場との仕切りを開けると腐った卵の匂いが鼻を突く。独特な匂いがするとは言われてはいたが、嫌いではない匂いだ。
宿舎のようにシャワーはないので、桶で湯をすくい身体を流す。湯が少し熱い。水と湯を引く量を自分で調節するらしい。壁際には注意書きと水の流れている二本の筒があった。
湯が冷めるのを待っていると、脱衣場との仕切りがまた開けられる。リリィが戻ってきたようだ。湯気の中で目を凝らすと、腕に何かを抱えている様子だけが見えた。
「リリィさん、それは?」
「ワインよ。あら、これは白だから飲みましょう」
そう言うと乱暴にワインの栓を抜き、湯船の上で真っ逆さまにボトルをひっくり返した。
赤い液体がトポポポと音を立ててボトルから飛び出し、湯と混ざり合っていく。一角が赤に染まりきると、他の隅に向かって赤色が進軍していく。
その間もリリィは援軍を投入し続け、辺り一面が真っ赤に染まったところで、ようやくバスローブを脱ぎ捨て風呂に入っていった。
「何を見ているの? 入りましょうよ」
「え……ワインのお風呂ですか?」
「そうよ。これなら身体も見えづらいでしょ?」
「そうですけど……」
血の池のように真っ赤に染まっている湯の威圧感はすごい。温度は適温まで下がっていそうだし、思い切って入ってみることにした。
硫黄の匂いとワインの匂いが混ざり合っているが、全く相乗効果を発揮していない。ただただ腐った卵とワインの匂いがするだけだ。
湯をかき分けてリリィの方に寄っていく。リリィの白い肌が赤に染まっている。想像以上に濁りは無いので私の身体も見えているのだろう。腕で隠しながらリリィの真横に座る。
「これは……二十年物ね。こっちは……あらま、四十年よ。親が小さい頃に作られて、飲まれる日を今か今かと地下室で待ち侘びていた。その結末がこれとはね」
どうも貴重なワインを文字通り湯水の如く使ったようだ。リリィは空になったボトルのラベルを眺めながら、自分がやった事なのにどこか他人事のように話している。
「飲まないなんて勿体ないですね……」
「大したことないわ。あ、これは飲む用よ。白だったの」
リリィが時たま見せるお嬢様然とした一面。ひけらかす事は嫌いなはずなので、私に対して優位を保ちたいのだろうか、とか理由を考えてしまう。
白ワインが入っているらしいボトルの栓を抜くと、お嬢様らしからぬ大胆な飲みっぷりを見せた。グラスを持って来ていなかったようで、ボトルに口をつけてぐびぐびと飲んでいる。
口を拭いながら私にボトルを差し出す姿は、さながら戦場で死ぬ前の一杯を分け合う戦友のようだ。真似をして口に含むと、こんな飲み方をした事をワインに謝罪すべきだと思う程にフルーティで美味しかった。
リリィは白ワインに興味が無くなったようで、赤い水面をボーっと眺めている。湯を身体にかける度、リリィの銀髪が紫色に染まり、湯が落ちるに従ってゆっくりと色が抜けていく。何度見ても綺麗な色の変化で見ていて飽きない。
「リフィ、こちらへいらっしゃい」
真横にいるのでもう大丈夫だとおもっていたら、リリィは自分の前に私を座らせた。背後からリリィが抱きついてくる形になる。
「確かにこれも飲まないと勿体なかったわ」
リリィは私の首筋に湯をかけてはチロチロと舐めるように湯を飲んでいるらしい。湯のかかる感覚と舌の這う感覚が交互にやってくる。
「貴女はもう私の物よ。水を弾く肌も、たおやかな身体も、頑固な心も」
リリィなりの愛情表現なのだろう。無言で頷くと首筋に強く吸い付いてくる。吸いながらも舌が触れていて気持ち良い。数十秒も吸い続けるとリリィの口が離れていく。
「貴女からは見えないところだけど、証をつけたわ。まるで奴隷ね」
「まぁ……似たようなものですね」
「失礼ね。もう少し大事にしているつもりよ」
それは本当なのか、と詰め寄りたくなる衝動をグッと抑え込む。私が欲しいものは遠回しな褒め言葉でも奴隷の証でもない。ただ「好き」という言葉だけ。それだけなのに、リリィは知ってか知らずか私にその言葉を一度もかけてくれない。
それどころか二人の関係の事を交渉の材料にしている。
私はリリィにとっての何なのだろう。都合の良い存在なのだろうか。一次審査で落ちていたら捨てられていた存在。では二次審査で落ちたらどうなるのか。
リリィの態度を見ていれば邪険にされていない事は分かる。私といる瞬間を楽しんでいる事も。それでも言葉がなければ不安になってしまうのだ。
そこから得られる結論は一つ。リリィはまだ本気になっていない。塔から身を投げる程の熱い気持ちはまだ芽生えていないのだろう。
揮発したアルコールなのか、皮膚から吸収したのか分からないが、ちょっと飲んだだけではあり得ない程に酔っ払った感覚に陥りながらそんなことを考える。
本当に酔いが回ってしまったようで、次のアクションを考える前に手が出てしまった。リリィは相変わらず私の背中を舐めながら身体を撫で回している。その手を掴み、私の興奮を呼び起こす行為を止めさせる。
「リリィさん。私の事、どう思ってます?」
聞こえるのは湯の流れ込む音と天井から滴る水滴の音。一番耳に近いのはリリィが生唾を飲む音。リリィは緊張しているのか口を開く時に粘度の高い音を鳴らした。
「その質問に期待する回答は一つよね。下らないわ」
私に絡みつく腕はそのままで、冷たい言葉をかけられる。バッサリと心を斬りつけられた気分だ。
「下らないって……」
「その質問に『貴女に好意を寄せている』以外の答えがあるの? ないでしょう?」
「それでもいいじゃないですか! 期待する言葉が欲しいだけの時だってあるんですから!」
リリィの回答はない。腕もそのまま。何だか無性に腹が立ってきた。リリィがどうしたいのかまるで分からない。
腕を振りほどいて湯船から飛び出る。前も下も顕になっているが、今のリリィに見られたところで一切気にならない。
私はリリィのためにネリネに話を聞いたり、一次審査を生き残るために必死に王都を駆けずり回った。
それなのに私に掛けてくれる優しい言葉はほとんどなく、奴隷の証をくれてやる、という支配者のような態度だけ。
「それがリリィさんのパートナーに対する態度なんですね。良く分かりました。同じ女なのに全く分かってくれないんですね」
リリィの眉がピクリと動く。だが冷たい目は変わらない。私の言葉は悪い刺さり方をしたようだ。
「では貴女は世のすべての女性と通じていて、彼女達の考えている事が分かるのね」
「そんな事は言ってないです」
「そういう事でしょう? 何も言わずに、あれを察しろ、これをくれ。いつもそうじゃない。自分は受け身で待っているだけ。毎回私がどれだけ勇気を出して誘っているのかも察そうとしない。たまには自分から境界を踏み越えてみたら?」
図星を突かれて腹の辺りに衝撃が来る。確かに私は待ちの姿勢だった。それだって自分を正当化する言い訳を並べ立てることはできる。それでも、リリィの指摘は私の心に深く突き刺さる。
本来なら言い合いはここでお終い。言いたいことを吐き出したら今度はそれらを噛み砕きながら歩み寄る時間だ。
そのはずなのに、私は素直になれない。酔っているからと言い訳したいし、実際頭はクラクラしている。
「リリィさんのバカ!」
引き戸を乱暴に開け、開く時よりも乱暴に閉める。ガタンと大きな音が鳴って引き戸の立て付けがおかしくなったし、リリィが何か言っていた気もするけれど無視する事にした。
意地を張っても仕方がないのは分かっているけれど、リリィが悪いのだ、とありとあらゆる屁理屈で自分を正当化し怒りを継続させてしまう。
髪を整えるのも面倒で、身体も適当に拭いて頭にタオルを巻いて風呂場を出た。
部屋に戻っても一人で悶々とするだけだろうし、外の空気を吸いたくなり着替を持ったまま外に出た。正面玄関の辺りを掃除していた新人メイドとすれ違ったが、伏し目がちに私を見送ってくれた。
頭を冷やすというものの、外に出たところで怒りは収まらなかった。
勇み足で庭の端まで歩き「フン!」と鼻から息を吐いてもスッキリしない。
だが、自分でも何でここまで怒っているのか分からなくなってきた。
リリィは勇気を出して誘っていると言っていた。彼女だって経験が豊富な訳ではない。手探りの中で私と仲を深めるために色々としてくれていたはずだ。
何度も私を助けてくれた。リリィがいなければ私は一次審査で敗退していただろう。リリィだって全財産を投げ売ってピアスを買い、母親の話までしてくれたのだ。上辺だけの言葉ではなく、信頼を感じる事ができる瞬間はあった。あったはずなのにそれを見過ごしていたのは私だ。
そんな事を思い返していると今度は自分に腹が立ってきた。どこまで自分勝手なのだろう、と。
一刻も風呂場に戻ってリリィに謝りたい。だが啖呵を切って出ていった手前戻りづらい。八方塞がりになってため息をつく。
虫のさざめきを遮るように背後から足音がする。
「そこにいるのはリリー・ルフナ?」
聞き覚えのない男の声だ。
「そうで……っ……」
怒りに任せて振り向くと、背後にいた人を視認する前に頭に鈍い痛みが走る。あまりの衝撃に立っていられなくなる。
意識を失う直前の回想。自分の行いを反省する。
そもそもリリィと喧嘩すべきでなかった。そうすれば庭に一人で出ずに済んだからだ。
もう一つ、呼びかけに反応すべきでは無かった。
私の名前はリリー・ルフナ。だがそんな認識の人はほとんどいない。地元ならまだしも、知人のいない場所では、殆どの人が私を『リフィ』と呼ぶのだから。
だから、私を襲ってきた人はリリィの事を狙っていたのだろう。そして、この屋敷にいるまともな人はリリィ・ルフナと呼び捨てにしない。
つまり、侵入者。悪意のある人。そんな人から話しかけられたのだから、一目散に逃げるのが正解だったのだ。
結論に達したところで、私の意識は途切れた。




