膝蹴り
考え事をしすぎて深く眠れなかった。体も昨日の早起きを覚えていたようでぱっちりと目が覚める。寝返りを打って横向きになっていたらしい。
目をこすると、目やにで霞んでいた姿が露わになる。すぐ目の前でリリィが向き合うように寝転んで私を見ていた。
驚いて後ずさる。意外とベッドの端に寝ていたようで落ちそうになるが、リリィが腕を伸ばして抱きとめてくれた。そのまま引き戻されてさっきよりもリリィとの距離が近くなる。
「あ……お……おはようございます」
「おはよう。リフィ。今日も綺麗な寝顔だったわ。朝が来なければずっと見ていられるのにね」
「そ、そうですか……」
私を突き放したいのか傍に置きたいのか分からない人だと思う。だがそんな事よりも大事なことに気づいて、目を口に当て、顔を下に向ける。寝起きの口臭なんてリリィに嗅がれたくない。
「寝起きなので……」
「あら、私は気にしないわよ」
リリィは口を覆う手を取り除き、顎を指で押して前を向かせる。口を全力で閉じ、鼻からの息の出入りも封じた。
「息を止めたの? 何秒続くのかしら」
リリィはフッと笑ってそのまま私を見つめ続ける。瞬きをする度、長いまつ毛が大きく動く。リリィは臆面もなく私を褒めてくれるけれど、よく照れずに言葉を言えるものだと感心する。
息を止めるのも数十秒しか持たず、全力で臭い息を吐き出して新鮮な空気を取り込む。閉め切られた空間のはずなのに香草のような良い香りがした。
「あれ? 良い匂いですね」
「これよ。寝起きに噛むと頭が冴えるの」
リリィはイタズラのバレた少女のように舌を出す。先端には緑色の塊が乗っていた。
不思議にそうに見ている私にリリィは更に舌を突き出してくる。
「なんですか?」
リリィは一度舌をしまう。
「察しが悪いのね。私の舌から取りなさいよ。その臭い息も察しの悪い寝ぼけ頭もスッキリするから」
意図を説明させられたのが恥ずかしかったのか、早口でリリィはまくし立てる。もう一度、今度は目を瞑って舌を突き出してきた。
リリィの舌先を見ながら、どうやって受け取るべきなのかと思い悩む。私も舌を伸ばして貰いに行くと、受け渡しに失敗して落ちるかもしれない。だけど唇でリリィの舌先を覆うのも勇気がいる。
色んな角度からリリィの舌先を観察していると痺れを切らしたように後頭部を押さえ、舌先をねじ込んできた。すぐには引かずに唇まで貪ってくる。
リリィが噛み砕いて唾液で固めた香草が私の口の中で開く。爽やかな香りが鼻から抜けていく。確かに寝起きの頭が冴えていく。
冴えていくと、リリィの行動の支離滅裂さに私の心がかき乱される。私達の関係は「塵」なのだ。それなのに、その塵を愛おしむようにリリィは過ごしている。
ひとしきり私の唇を貪ったリリィは満足感と後悔が混ざったような顔をして離れていく。その顔を見てリリィも私と同じくらい悩んでいるのだろうと気づいた。
昨日はポカでオリーブに見られてしまっただけではあったが、それでも、いつまでもこの関係を隠し切れないという現実に直面している。
この関係を継続していくのか、いつまで継続するのか、これが許されるのか。私は浅くも考えてもいなかった、私達が世間にどう思われるのか、ということを二人分悩んでいる。そんな風に思えてしまった。
「リリィさん。私も一緒ですよ」
「何の話? 貴女は昨日の宿題を考えていれば良いの。さ、そろそろトレーニングに行くわよ」
冷たくあしらわれてしまった。何だかんだで前向きに考えてくれていることが伝わってきて嬉しい反面、一人で乗り切ろうとしている部分がどうにも危うげに見えてしまうのだった。
私なんて流されてばかりで考える力もないので、頼りにならないという事なのだろう。実際その通りなのだけど口惜しさは拭えなかった。
朝の日課を終えると、いつものホールに行きメリア、ダリアと今日の『依頼』を吟味した。今日の行き先も貧民街だ。
昨日、アンディが棚を壊した老婆の家を過ぎて少し行くと今日の一軒目の仕事場があった。街中を歩いているとたまに声を掛けられる。最下位とはいえそれなりの知名度はあるみたいで嬉しい。最下位だから、なのかもしれないけど。
「中々手強そうよねぇ……ポイントに目が眩んじゃったけれど、どうしたものかしら」
「そうですよね。でも、こういう結婚関係の話はダリアさんが先輩ですから!」
「私は結婚はしていないのよ……」
メリアは今日もダリアに押し付ける気満々らしい。それもそのはずで、今日の最初の『依頼』は家事をしない夫の更生だ。人生経験という意味では一番豊富そうなダリアが適任かもしれない。
『依頼』が記された紙には詳細を書く欄が設けられている。依頼主はその枠内に小さな字でいかに今の生活が辛いかが書き連ねられていた。
どう考えても勇者候補生の私達が首を突っ込むような話題ではない。故の高ポイントだったようで、この判断が吉と出るか凶と出るか何とも分からないところだ。
依頼主の家に入ろうとすると、勝手にドアが開いた。ドアの向こうにいた人を見てダリアがため息をつく。
「はぁ……付きまとうのは止めてよ。アンディ」
昨日の今日で会うとは思わなかった。生活圏がこの辺りなのだろう。
「俺も仕事だったんだよ。おい! 次までに金は用意しておけよ! ドンも次はないって言ってたからな!」
借金の取り立てでもしていたのだろうか。いかにも小物という感じの風情で家の中に向かって叫んでいる。
このままアンディを行かせてもいいのだけど、今日の夜にはリリィの宿題に回答しなければならない。私だったらオリーブの復讐をどのような結末に導くか。その問いに対する自分なりの答えを用意していかなければならない。
オリーブに同情しているのもあるけれど、実際アンディがどんな気持ちで生活を送っているのかは興味があった。
「アンディさん、少しお話があるんですけど良いですか?」
メリアとダリアも驚いた顔で私を見てくるが特に止めはしない。
「リフィ、さすがにそいつに手を出すのは止めておいた方がいいわよ」
ダリアは何か勘違いをしているみたいで苦笑いしながら諫めてくる。
「ち、違います! ただ……そのぉ……」
特に理由も考えていなかったのだが、アンディはニッコリと笑う。
「モテる男はつらいねぇ。行こうか。えぇと……踊り子さん?」
アンディが私の背中の辺りをさすりながら誘導してくる。虫唾が走るので手を後ろに回して払うと口笛を吹いて適当にいなされた。苦手なタイプだ。別に必要性は無かったのに呼び出したことを早くも後悔し始めた。
適当な路地で曲がると、アンディが立ち止まる。
「それで、話っていうのは何だ?」
冗談めかしていたが色っぽい話でない事はアンディも察していたようだ。切りつけるような鋭い目つきで私を見てくる。
「エルムっていう人をご存知ですか? 昔、川で事故死した少年です」
アンディの顔が険しくなった。覚えてはいるのだろう。
「おいおい。何だって今更……あぁ、そういえばあの姉貴もオーディションに出てたな。話を聞いたのか? 何が狙いだ? 金か? 俺は金なんか持ってないよ。脅したって無駄だ」
彼があれこれ考えた結果、私はオリーブから話を聞いて、アンディを脅迫して金をむしり取ろうとしている、という結論に至ったらしい。的外れもいいところだし、どうすればそんな発想に至るのか理解できない。
私が知りたいのは、アンディは反省しているのか否か。この様子だと隠したい過去ではあれど、反省は微塵もしてなさそうだけど。
「お金じゃありません」
「じゃ、なんだ?」
「そのぉ……あの時の事、覚えていますか? 今も思い出したりしますか?」
「ハッ! 忘れる訳ねえだろ。あの坊ちゃん、生まれた瞬間から幸せが約束されてたのにな。ざまぁねえよな。今でも笑えてくるよ」
「笑える……ですか?」
「いつも姉貴にベッタリで守ってもらっててよ。最後も『お姉様!』って叫んでたからな。しかも、平民が貴族様を殺してもお咎めなしだったんだよ。傑作だよなぁ」
アンディはエルムの最後を見ていた。助けもせずに。言葉の弾みかもしれないが、殺したとも言った。その事を反省している雰囲気はまるでない。
オリーブに肩入れしている自覚はあるけれど、それを差し引いても腕の震えが収まらない。大したダメージにはならないけれど思いっきり振りかぶって拳をアンディの顔をぶつけたくなる。
だけどその役目はオリーブが担うべきだ。全力で笑顔を作る。
「私には分かりませんが……とにかく貴重なお話ありがとうございました!」
踵を返してメリア達のところへ戻ろうとするとアンディが両手を体に絡めてくる。不快感が鳥肌となって表れた。
「おいおい、踊り子さん、待てよ。折角だし、ちょっと楽しませてくれないか?」
危険を察知したので、振り向きざまにアンディの股間に目掛けて膝を振り上げる。声にならない呻きを洩らすとアンディはその場に崩れた。
「か、勝手に触らないでくださいね!」
威勢の良い態度をとってしまったが後が怖い。体が勝手に動いてしまっただけだと自分に言い聞かせつつ、アンディが復活しないうちに足早にその場を去るのであった。




