盃
リリィからの突然の接吻。唇は思ったよりも冷たい。それは、物理的な冷たさというよりも心が無いからだと思った。
勿体ないと思いながらも断腸の思いでリリィの肩を押して体を離す。
「あの……どうしたんですか?」
「私が差し出せるものはこれくらいしかないから……」
しょぼくれたリリィからはいつもの余裕も覇気もオーラも感じられない。そんなにオリーブにこってりと絞られたのだろうか。
「リリィさん、元気だしてくださいって。ほ、ほら! 私って虐められるの好きじゃないですか! だから……だから……楽しかったですよ。あの人達に殴られてるの。何度もイッちゃって大変でした」
「嘘は止めて。気を使ってくれるのは嬉しいけれど、痛い事は嫌いなんでしょ? どうして貴女はそうやってすぐに自分を曲げて……」
リリィは私への罵倒とも指摘とも分からない言葉を言い切る前に手で顔を覆い泣き始めた。その姿を見ていると私も涙が溢れてくる。
私の気遣いを見破られた事、痛いのは嫌いとボヤいた事を覚えてくれていた事、もっと遡って今更ダリア達にされた事への怒りや悔しさが込み上げてきたのかもしれない。自分でも説明が出来ない状態のまま泣きじゃくる。
先に泣き止んだのはリリィだった。また私を優しく抱きしめて頭を撫でてくれる。
「もう安全よ。座りましょうか」
リリィに導かれるまま椅子に腰掛ける。リリィはまだ立ったまま部屋をウロウロしている。何をしているのかと思ったらグラスと酒の入ったボトルを持ってきた。
「氷がないわね……取りに行きましょう」
「あ……私が行きます」
椅子から立ち上がるとリリィが微笑んで私を見てくる。
「二人で行くのよ。貴女を一人にしておけないから」
さすがにさっきの今でまた襲われるなんてないと思うけれど、私が一人で廊下をウロウロしているところをオリーブに見られたらまたグチグチと文句を言われそうだ。
「でも、私と一緒にいるところを見られたら色々と面倒じゃないですか? 平民で……踊り子で……そのぉ……嫌われてるので」
「何が面倒なの? 言いたい人には言わせておけば良いの。どうせ一次審査で落ちる人達なんだから」
何気ないリリィの言葉がグサリと刺さる。一次審査で落ちる人達。確かにダリアや他の下位の人はそうだ。そして、私も最下位なのでこのままでは一次審査で落ちる人だ。
「あ……リフィの事を揶揄した訳じゃないのよ。貴女は……その……ほら! とりあえず氷を取りに行きましょ!」
リリィは自分の失言を揉み消すように私の手を取り部屋から連れ出す。大量の氷の入った桶は二人で一緒に持った。イタズラで桶を持つ腕の力を抜いても何も言われなかった。
氷を持って帰ってくると酒盛りが始まった。リリィは手慣れた手付きでグラスに三個氷を落とし、琥珀色の酒を注ぐ。ウィスキーだろうか。私の分も渡してくる。
「それじゃ、乾杯」
リリィは一人で申し訳程度にグラスを掲げるとチビチビと飲み始めた。
話したいことは山ほどある。オリーブの豹変ぶりについて、さっきの涙について、リリィの婚約について。そして、昨日の事。
一口飲んで鼻から息を抜くとテーブルにグラスを置きながらリリィが話し始める。彼女の目線はテーブルに置いたグラスに注がれている。
「オリーブはね、昔は優しい子だったわ。平民だとか気にせずに弟や友人を連れて街中を走り回っていたの。私は毎日家庭教師が付きっきりで屋敷に引き籠もりだったから羨ましかったわ」
「そうなんですね」
数ある話題の中では一番興味の薄いものだったけれど、リリィが話したいようなので適当に相槌を打つ。
「彼女にはエルムという弟がいたの。ある日、エルムが川で亡くなった。平民の友人の証言だと、皆で泳いでいたら一人で脚を攣って流されていったらしいわ。後になってそれは嘘で、エルムは平民の子に虐められていたって事が分かったんだけれどね」
興味は薄かったけれどスルーもしづらい話になった。リリィは私が聞いているのかも確認せずに話し続ける。
「エリヤ家の子供は二人。父親は妾を持たない主義だったから自動的にオリーブが家を継ぐことになったわ。婿養子を取るのではなくて女性当主として認めてほしいと言っているのだけど、王国は中々認めようとしないから、親子で方方に取りなすのが大変みたいよ」
私にこんな話をしてくる理由も分からないけれど、とりあえず神妙な顔をして聞くことにした。
「そんな事があったんですね……弟さんを殺されたから、オリーブさんは平民の事を憎むようになったんですか?」
「そうね。勿論、報復されるべきはエルムを虐めていた人だけよ。でも、人は的確に憎むべき人だけを憎む事は出来ないのよね。往々にして対象は広がっていく。貴女も身を持って知ったでしょう?」
ダリア達に痛めつけられた件を指しているのだろう。ダリア達が憎むべき対象は、リリィやオリーブのはず。いや、それすらも的はずれなのかもしれない。行き場の無い、どうしようもない感情が混ざり合って私に向かってきた。
だけど、そのしわ寄せが来る私からすれば、理解はできるけれど納得はできない。リリィからすれば他人事だけど、私は当事者だ。痛い思いは嫌だし、嫌味を言われるのも気分が悪くなる。
「だから……皆、理由があるから私は何をされても許さないといけないんですか? オリーブもダリアも理由があって私に当たってくる。共感して耐えろって言いたいんですか?」
リリィは手のひらを私に向けて制してくる。
「落ち着いて。そんな見当違いの解釈をされるとは思わなかったわ。そういう意味じゃなくて……」
「リリィさんは良いですよね。美人で強くて家柄も良くて。そりゃ自信満々になりますよ」
つい気持ちが昂ってリリィの言葉を遮ってしまった。言いたいことを吐き出したあとに自分のした事に気づく。友人としても失礼な態度だった。
恐る恐るリリィの顔色をうかがうと、なんとも言えない、悲しそうな顔をして私を見ていた。リリィは冷静に戻るためか、一度鼻から息を大きく吐いて話を再開する。
「話を聞いて。私が言いたかったのは、お互い知らない事が多すぎるって事。貴女がシャワーを知らなかったことを私が知らなかったように、周囲の環境も何もかもが違う。そんな状況で心をあげるのも貰うのも無理、という事が伝えたかったの」
「え? それは……」
それは、私の事を受け入れてくれる前提にも聞こえた。だけど突然の事に驚いてしまい声が続かない。昨日とはまるで違う態度なのも気になってしまう。
「昨日はいきなりだったから驚いてしまったの。それと勘違いしないで欲しいのは、まだ私達は分かりあえていない。それは忘れないで」
「あ……はい! でもリリィさん、婚約はどうするんですか? それに昨日は私の事はペットだって言ってたじゃないですか。急に心変わりしたんですか?」
「いきなり元気になったわね……昨日の発言は撤回するわ。言ったでしょ? 急だったから心の準備が出来ていなかったの」
心の準備が、と言う割には剣まで向けられたのでかなり説得力のある態度だった。婚約の事も濁されてしまったし、何かが引っかかってしまい、どうにも腑に落ちない。リリィは何か秘密を抱えたまま話を進めようとしている気がしてならない。
「リリィさん……あの……何か隠してます?」
「余計な詮索は不要よ」
そう言うとリリィは私からグラスを奪い取り、自分のグラスも棚に隠した。
「あら。グラスが無くなっちゃったわね。リフィ、頼めるかしら」
「え……いや……今、棚に隠しまし……」
言い終わる前にリリィは私の腕を引っ張ってベッドに押し倒してくる。抵抗する気も無かったのであっさりと組み伏せられてしまった。組み伏せて頂いたというべきかもしれない。
「リフィ。私の盃になりなさい」
何をどうしたら良いのかは分からないがそういう誘いであることは明白だった。結局私が気になる事は何一つ答えてくれていない。うまいこと手玉に取られて流されている。
そんな事は分かっているけれど、なるがままに流されるのも悪くない。また、不用意に人を信用してしまっている。それでもリリィなら後悔はしないだろう。
目を見ながら頷くとリリィはニヤリと笑って私の服のボタンを外し始めた。