シャワー
風呂に入る前に一嗅ぎさせて欲しい。匂いが流れてしまう前に。そんな事を考えていて、手に持っていた着替えを落としそうになった。
あたふたとしている私をリリィは怪訝な目で見てくる。
私の事を変態だと呼称してくるくせに『風呂に入ったら匂いが流れてしまう』と私の心が叫んでいる事に気づいていないのだろうか。
「中で話しましょ。待ってるわね」
リリィはそう言うとそそくさと浴場に入ってしまった。彼女の匂いは湯とともに流れ去ることが確定した。
うなだれながら服を脱いで、脱衣場を後にする。脱衣場と浴場の間には全身の姿見がある。タオルで前を覆ってはいるが、私も悪くない。リリィには負けるかもしれないが。
浴場の中は三十人は同時に入れそうな湯船と壁とカーテンで仕切られた空間で出来ていた。丁度訓練が終わったのか、中には十人くらいの人がいる。
早速湯船に浸かろうとすると、中にいたオリーブに呼び止められた。
「ちょっとあなた……あら。平民のリリーさん……じゃなくてリフィだったわね。平民の方はシャワーも使わないの? 湯が汚れるから先にあちらへどうぞ」
頭にタオルを巻いていてすっぴんなので気が付かなかったが、どうも中にいたのは貴族連中らしい。厭味ったらしく行き先を指さしながら教えてくれたが、どうやら先に汗を流してから入るのがマナーのようだ。昨晩は平民だらけだったので皆そのまま湯船に直行していた。
オリーブからは、もっと手痛い攻撃が来ると思っていたが、意外と優しかった。前の立食パーティでの一件がまだ尾を引いているのかもしれない。
オリーブとやり合う意味もないし、郷に入っては郷に従えだ。素直にシャワーなるものがありそうな壁で仕切られた方へ向かう。
全部の区画のカーテンが閉められているので適当に一番端の区画のカーテンを開く。
中ではリリィが持ち手のような物から流れ出る水を浴びていた。これがシャワーという物らしい。カーテンの開いた音に反応して振り返ってくる。
一瞬驚いた顔をしていたが、すぐにニヤリと笑って私を部屋に連れ込んだ時のように腕を掴んで引っ張ってきた。
二人用の空間ではないのでかなり体が密着する形になる。陶器のようにツルツルとした肌が気持ち良い。やはり匂いは流れてしまったようで石鹸の匂いしかしない。
濡れて束になった髪の毛から滴る水が私の身体を伝っていて少しこそばゆい。
「ちょ……離してください」
「私のシャワーを覗くんだからそれなりの罰は必要でしょ? 欲しがりさんなのね。昨日の今日で擦り寄ってくるなんて」
「狙った訳じゃなくて……たまたまなんです」
「事故なら人を殺しても無罪なの? 違うでしょ。第一、カーテンが閉まっているんだから使用中って分かるじゃない」
全部の区画のカーテンが閉まっていたのは、シャワー室が埋まっていたという事だったのだろう。
「し……知りません。シャワーを使った事がないので……」
リリィはハッとした顔をする。平民はシャワーなんて物を知らないという知識がないらしい。
「そ……そうだったのね。悪い事をしたわ。ごめんなさい。これは、魔法で湯を流す装置なの。この取手を右に捻ると湯が出て、左に捻ると水が出るわ」
リリィは欲しがりさんだとか言っていた事については触れないで欲しそうに顔を赤くしている。
シャワーの説明については、左に捻れというフリなのだろう。気づかれないように思いっ切り取手を左に捻ると温かい湯が冷水に変わった。いきなり冷たくなって驚いたのか、「ひっ」と可愛い声を出してリリィがビクンと身体を震わせる。
リリィはすぐに私の悪戯を察して取手を右に捻ると、私を壁に押し当ててきた。冷水のかかった壁はひんやりとしている。
「悪戯好きなのね。そんなにお仕置きされたいの?」
「す……すみません。左に回せというフリかと思ったので……」
リリィは真顔で目をパチクリとさせる。
「斜め上を突いてきたわね……とりあえず使い方は分かったでしょ? ほら、隣が開いたわよ。行きなさい」
隣の区画のカーテンが開け放たれる音がしたところでリリィに追い出される。カーテンが半開きになった隣の区画は確かに空いていた。
隣の区画に入ると、一人で丁度よい広さだったと気づく。
私が取手を捻る前から上から冷たい水が降ってきた。どうも隣の区画から降ってきているようだ。意外とリリィも根に持つタイプらしい。
私も取手を左に捻り、リリィがいる区画に向かって放水を始めた。
私が身体を洗い終わってカーテンを開けると同じタイミングで隣からリリィも出てきた。シャワーの時間は長い方らしい。
「奇遇ね。一緒に湯船に浸かりましょ」
水のかけあいをした事は、文字通り水に流してくれたようだ。頷いて隣り合って湯船に浸かる。
オリーブ達はもう上がったようで、ぱっと見だと平民の人しか残っていない。ちょうど脱衣所からメリアとピオニーが入ってきているところだった。
二人共、シャワーには目もくれずに走って湯船に飛び込んでくる。水しぶきが私とリリィにかかったがそんな事は気にしていない様子で二人共笑っている。
「あ! リリーちゃん! お風呂気持ちいいねえ」
「そ……そうね」
シャワーを浴びずに風呂に入るだけで嫌がられたのに、飛び込んで水しぶきまでかけてくるのだ。リリィが怒らないはずがない。恐る恐る顔を横に向けると、眉をピクピクとさせながらも笑顔を崩さずに二人を見ていた。
「ピオニーさん、メリアさん。飛び込みは禁止よ。後、湯船に浸かる前はシャワーを浴びてね」
「はいはい。明日から気をつけるって。貴族はいちいち細かいのよね。何でもいいじゃない」
ピオニーは顔だけを水面から出して湯を満喫しながらそう言う。多分明日もシャワーを浴びずに飛び込むのだろう。
ピオニーの様子を見てリリィはうんざりしたようなため息をつく。私の時のように無理矢理押し倒したり力づくで言うことを聞かせようとはしないようだ。
「身分は関係ないわ。皆が気持ちよく風呂に入るためのマナーなの。食堂でご飯を食べているときに脱糞しているところは見たくないでしょ?」
リリィは尚もピオニーを諭すことをやめない。
「私達は糞くらい汚いと言いたいの? それとも貴族は本当に脱糞を見ながら飯を食べるの? いい趣味をしてるのね」
ピオニーは貴族を目の敵にしているようでリリィのアドバイスに耳を傾けない。傍から見ればリリィの方が正しい事を言っている。
メリアは苦笑いをするだけでピオニーを注意しない。別に貴族、というかリリィに肩入れする訳ではないが、これはピオニーに非があるだろう。
「メリアからも言ってあげてよ。ピオニーは見た目通り、中身もお子様なのね」
メリアがギョッとした顔で私を見てくる。慌てて首を横に振っているが意図がわからない。
「おい。レジェンド枠。今なんて?」
ピオニーの声が低くなった。メリアの反応からして、どうもお子様というのはピオニーにとって禁句らしい。だが、貴族に注意されたからというだけで反発するのは子供以外の何者でもないだろう。
「自分のした事を反省できない『お子様』って言ったのよ」
ピオニーが叫び声を上げながら私に飛びかかってくる。
揉み合ううちに湯船の角に頭をぶつけたところまでは覚えている。痛みはあまりなかった。