都鄙公方激突
日本の応永二十六年は西暦1419年である。
この年、ボヘミアの英雄ヤン・ジシュカがペストに罹り死亡する。
彼は馬で引く農業用荷車に銃眼付き厚板製胸壁を備え、戦闘時には連結して簡易城砦とする「装甲馬車」戦術を編み出した。
装甲馬車を使うフス派はフス派撲滅に派遣された十字軍を度々撃破していた。
この時期のヨーロッパも戦乱が絶えない。
武田信長が甲斐を制し、跡部父子もそれに従った、不快な報が鎌倉公方足利持氏の元に届く。
逸見有直を始め、逸見党は甲斐を抜け、鎌倉に落ち延びて来た。
甲斐に残る逸見の残党は、土地を奪われ、家屋敷を焼かれ、女を連れて行かれた。
味方だった筈の輪宝一揆の衆も、跡部党も逸見派の土地を奪う。
逸見有直からは甲斐奪還の為の出兵を懇願されていた。
持氏自身が出陣した後の小栗満重の乱は、呆気ない結果に終わる。
鎌倉公方の大軍の前に、反乱軍はたちまち瓦解した。
小栗満重も居城の小栗城で自刃し、乱は鎮圧された。
だが、ここで戦後処理を誤るのが足利持氏の悪いところである。
この反乱には山入与義の残党や、小栗・佐竹と同じく常陸の大勢力・大掾氏が加わっていた可能性がある。
持氏にとって、そういう疑いがあれば、証拠は必要無かった。
容赦なく処罰し、土地を没収する。
京都扶持衆である事も、何の歯止めにもならない。
寧ろ京都扶持衆を狙って、因縁を付けて土地を奪ったり、鎌倉に強制移住させる。
この態度がついに、京の足利義持を怒らせてしまった。
足利義持は応永三十年(1423年)四月二十五日、突然等持院で出家をする。
政治相談役であった醍醐寺座主・満済にも知らされていなかった。
そして出家後の義持は、畠山満家、細川満元、山名時煕、赤松義則、大内盛見といった、既に出家して法体の者にのみ面会を許している。
そんな大御所・道詮入道義持は、鎌倉の持氏の苛烈な戦後処理を聞いて激怒する。
最早鎌倉の持氏は、建武体制を崩し、有力守護による合議体制を破壊する悪である。
「京兆入道(前管領細川満元)!
今川民部(範政)、一色左京(義貫)、赤松左京(満祐)、斯波武衛(義淳)を呼べ!」
三条坊門の義持邸に幕府重鎮が集められる。
「奉公衆を武蔵国に遣わそうか」
奉公衆とは足利将軍直属の部隊で、五個部隊、直属とその配下全て動員すれば一万近くにもなる。
その指揮官には今川、毛利、小早川、土岐、大内と言った大名の名が連なる。
この軍を将軍自らが率いて出陣すれば、道々更に多くの武士が勝ち馬に乗るべく参集した大軍となり、鎌倉府はひとたまりも無いだろう。
「奉公衆を使って、鎌倉武衛(足利持氏は応永二十七年に従三位・左兵衛督に転任)の沙汰に歯止めを掛ければ良いと思うが……」
数百年後の用語を使うなら、将軍親衛隊を派遣し、平和維持活動というか監視団をさせようというものだ。
今川範政が首を横に振る。
「さすれば今度は奉公衆が、鎌倉武衛殿が奪おうとした領地を押領しましょうぞ」
武士とはそんなものである。
武蔵くんだりまで派遣され、手土産(所領)も得ずに帰れようか。
武士と云うものは、理想や主義に等従わず、己の欲求に素直に従う生き物のだ。
「関東管領を呼びつけましょうぞ。
関東管領は如何に?」
「十四歳の子供をか?」
鎌倉公方を補佐し、時には京の意向に従って諫める関東管領は、この時は上杉憲実である。
応永十七年(1410年)の生まれで、応永三十年の今現在、数え十四歳に過ぎない。
大人でも手を焼く程癖が強い足利持氏を諫められる訳がない。
彼等は何度も話し合いを続ける。
耳に入る報は、京都扶持衆が狙われて領地没収の憂き目に遭っている事ばかりであった。
「最早我慢ならん!」
七月に至り道詮入道義持は、鎌倉公方の首を挿げ替える事を決めた。
「後任は陸奥国の左兵衛佐満直とする」
「奥州探題大崎左京大夫(持詮)に御教書を出す。
内容は『鎌倉の足利左兵衛督持氏討伐の事』である」
「小笠原信濃守(政康)に出陣の支度を命じよ」
矢継ぎ早に義持から命令が出る。
余程怒りが大きいようだ。
征伐の先陣に立つ今川範政、小笠原政康、大崎持詮、篠川公方足利満直も戸惑っている。
「篠川御所様」と呼ばれる足利満直は、足利持氏の叔父に当たる。
鎌倉府の奥州出張所的な役割を持った政庁を陸奥国安積郡篠川に置いた。
弟の足利満貞も、同じような政庁を陸奥国岩瀬郡稲村に置き、「稲村御所様」と呼ばれている。
先代鎌倉公方・足利満兼が弟二人を新たに管轄地となった陸奥に派遣したのは正しかった。
「信長」同様後世同名の風雲児が現れる伊達「政宗」が反乱を起こしたのだ。
伊達政宗の乱は三年に及んだ。
その孫、伊達持宗もまた反乱を起こす。
奥州の反乱には、かつて現奥州探題・大崎持詮の曾祖父・大崎詮持も加担した事があり、気が抜けない。
篠川公方足利満直とその甥・鎌倉公方足利持氏は、やはり上杉禅秀の乱がきっかけで対立している。
鎌倉公方を補佐する関東管領は山内上杉家なのだが、篠川公方を補佐していたのは禅秀の属する犬懸上杉家であった。
持氏の過酷な戦後処理は、叔父に「自分も討伐の対象となるかも」という疑念を抱かせるに十分なものだ。
一方の稲村公方足利満貞は、犬懸上杉家が奥州に勢力を伸ばすのと反比例して勢力を弱めていて、鎌倉にとって脅威でも何でも無くなる。
という事は、鎌倉公方足利持氏から見て無害な叔父であり、両者の関係は良好であった。
大御所・足利義持はこの辺の事情まで分析し、足利満直には持氏討伐と次期鎌倉公方の座を提示し、足利満貞には何も言わない。
足利満貞は持氏討伐の事を知ると、稲村御所を畳んで鎌倉に退去してしまった。
一方の足利満直は、可能なら甥を討伐して自身が鎌倉公方になりたい。
だが、奥州情勢はそれを許さない。
今でこそ従順な伊達家や大崎家だが、決して油断は出来ないのだ。
そこで満直は、奥州の諸大名を反持氏で一本化させる外交を行う。
京の持氏討伐に対し間接的に支援する一方、自分の足元を固め、篠川御所の権力を強めるという策である。
満直が奥州から兵を出す事をアテにしていた義持には、軽く不快であった。
こういった一連の動きは鎌倉の持氏にも当然ながら伝わっている。
普段は目の上のたん瘤である関東管領が若年でアテにならない事も、持氏には不利であった。
鎌倉公方にも奉公衆、即ち直属兵力がある。
だがその中には、今川、武田、小笠原、大掾といった、今回明らかに京側に着いている者や、持氏が討伐して弱体化したり恨みを抱いている者も含まれる。
それに、小栗満重の乱鎮圧の為に既に一度動員をかけた。
何度も動員を行うと、彼等にも不満を持たせる事になる。
持氏の救いは、大御所足利義持が彼と違って「待つ」事が出来る政治家だった事である。
また、大乱は「建武体制の維持」を信奉する義持の望むものではない。
義持は、かつて上杉禅秀の乱の時に鎌倉を追われた持氏を保護した恩人である今川範政が、必死に持氏を説得しているのを、見て見ぬふりをしている。
持氏に逆らわず、鎌倉の意思を奥州で代行して来た叔父の足利満貞も、今度ばかりは頭を下げた方が良いと説得して来る。
上杉氏が頼りにならず、周囲に同調者しか居ない持氏は、唯一の相談相手である叔父の言葉に揺り動かされている。
叔父や恩人からの説得を受けながら、持氏は翌応永三十一年まで粘った。
既に小笠原政康と、管領細川持有が常陸国に入り、持氏に圧迫されてた山入、小栗、真壁といった大名を救援した。
大御所の御教書は鎌倉公方の足元、武蔵国にも行きわたり、ここの国人一揆が京の味方をする可能性も高かった。
ついに持氏は折れる。
応永三十一年二月、鎌倉公方足利持氏は大御所足利義持に対し詫び状を提出する。
義持はこれを受け容れ、今後は関東管領と共に徳のある政治をせよと命じて終わりとした。
この応永三十一年より、関東管領上杉憲実の署名付き書類が見られるようになる。
和睦は成ったが、継続審議案件として甲斐国守護問題が残された。
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都の公方、鄙(鎌倉)の公方、更には篠川の公方まで絡んだ対立の中、甲斐国は新体制に移行している。
武田信長は、やっと我が子・伊豆千代丸を武田の当主として迎え、石和館に住まわせた。
手を組む相手をさっさと鞍替えした守護代跡部明海と景家父子がこれを補佐する。
だが信長は、陣代でありながら、彼の望む陣代には成れずにいた。
陣代は本来、幼い当主に代わって軍を率いる者である。
転じて、次期当主が成人するまでの家督代行者という役割となった。
武田信長は、文字通りの「陣代」として日ノ出城を守り、予想される鎌倉府の侵攻より甲斐を守る役割を与えられる。
「陣代は悪八郎殿が望まれたお役目。
油断無くお勤めなされ」
建武体制における正式な守護の代行者・守護代の命に、無役の信長は逆らう根拠を持たない。
伊豆千代丸を当主に、自らは陣代に、その願いは果たされた。
なのに政争として勝者の椅子に座っているのは跡部父子なのだ。
「いつの日か、その座を追ってやらん」
そう思いつつ、甲斐国の守りに就く信長である。
権力的には不服ではあるが、確かに逸見家を立てた鎌倉府の攻撃は予想されたからだ。
宿敵・足利持氏との対決が迫る。
おまけ:
上杉禅秀の乱に関わった岩松満純の領土は鎌倉府によって没収される。
だが、それはそれとして足利持氏は味方には優しい。
「岩松伊予守」
「はっ」
「其方を丹生郷の地頭に任ずる」
「ははー、有り難き幸せ」
応永三十二年(1425年)岩松満長は、この丹生の地に城を築く。
後に甲斐武田家とも大いに関わる丹生城である。