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激突!武田信長対逸見有直

用語説明:

逸見荘:山梨県北杜市

谷戸城:山梨県北杜市大泉町谷戸

谷戸城の別名は「逸見城」または「茶臼山城」

応永三十年(1423年)、京。

「上様! 一大事に御座います!」

 将軍足利義持の元に前の管領・細川満元が参上する。

 上杉禅秀の乱、弟・足利義嗣殺害等で能く義持を補佐して来た。

 義持の「建武体制の維持」という方針を、この男は支えていた。


「一体何が起こった?」

 義持の問いに、細川満元は呆れたように言う。

「甲斐の武田三郎入道が出奔しました」

「は???」


 甲斐国守護に任じた武田三郎入道信重だったが、鎌倉公方足利持氏をはじめ、多くの反対を受けて意気消沈していた。

 結局在京のまま甲斐国守護職を勤めていたのだが、ある日

『逸見と穴山が嫌だから守護なんてやってられません』

 と書き残し、辞官してどこかへ出奔してしまった。

(穴山は亡き武田信元の養子入り先であり、基本的に自立性が強い)

「で、どこに行ったのか?

 消息は掴んでおるのだろう?」

「は……、白衣、菅笠、金剛杖を持って我等細川家の守護国に向かったようです」

「お主たちの守護国、阿波に讃岐に土佐……、霊場巡りか……」

 義持は頭を抱える。


「よし、京兆入道(満元)、余も隠居するぞ」

「なんと!?

 もしや、武田奴のせいでお気落ちなされましたか?」

「違うわい。

 室町の倅(足利義量)に将軍職を譲るは、今年初めから決めておった事ぞ。

 室町殿も十七歳で、そろそろ政治(まつりごと)を覚えさせてみとうてな。

 それに……

 隠居の方が関東への目配りもしやすくなろうぞ」

 義持の瞳の奥から殺気が感じられる。


 この年、足利義量は征夷大将軍に任じられ、義持はそれに伴い大御所となった。

 足利義持、まだ三十八歳の分別盛りである。




 一方、鎌倉の足利持氏は相も変わらず各地を粛清していた。

 まず常陸国の山入与義(やまいりともよし)が滅亡した。

 彼は武田氏と同じ新羅三郎義光系の佐竹氏傍系で、佐竹一門の中でも筆頭的存在である。

 彼等山入佐竹氏は、佐竹本家が関東管領上杉家より婿養子を迎えるのに対し、他の庶家をも巻き込んで反発した。

 それで山内上杉家に対して起こった上杉禅秀の乱の際は禅秀に与した。

 乱の後、上手く立ち回り、京都の足利義持の下に着く「京都扶持衆」となって、鎌倉公方の粛清に二の足を踏ませ、引き続き佐竹本家への反抗を続けた。

 この反抗運動を行った山入与義・額田義亮・長倉義景・稲木義信らの一党を山入一揆と呼ぶ。


 鎌倉公方足利持氏は、管轄する関東諸国の守護を鎌倉に住まわせていた。

 京都扶持衆の山入与義は京都の足利義持によって常陸国守護職に任命される。

 その守護を強制的に鎌倉に住まわせていた持氏だったが、それ故粛清もしやすくなった。

 持氏は佐竹本家の佐竹義人に命じて、山入与義の鎌倉・比企谷屋敷を襲わせる。

 山入与義は自害して果てた。


 次に、同じく常陸国小栗御厨の住人・小栗満重が反乱を起こす。

 この者も京都扶持衆である。

 上杉禅秀の乱の時、持氏に領地の一部を没収された恨みもあり、宇都宮持綱・桃井宣義・真壁秀幹らと共謀して乱を引き起こした。

 この反乱は大掛かりなものとなり、年を越した応永三十年にはついに鎌倉公方足利持氏自身が兵を集めて出陣となった。

 彼の過酷な処理の後遺症は重い。




 このように京都は代替わり、鎌倉は小栗満重の乱鎮圧の為に出陣という隙を、武田信長は見逃さなかった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「申し上げます。

 日ノ出城より多数の軍馬が押し寄せて参ります」

 日ノ出城は武田信長の本拠地である。


「若造に遅れを取ったか……」

 逸見有直は臍を嚙む。

 彼の方も隙を見て武田信長を討とうとしていたのだ。


「よし、我等は谷戸(やと)城に籠るぞ」

 逸見荘の奥にある詰めの城である。

 平地にある館を引き払い、妻子を連れて城に籠らせた。

 その一方で逸見家の兵を集め、攻め寄せる武田信長の日一揆を荘内各地で迎え撃つ事とした。

 野戦で戦い続け、相手を疲弊させた後に籠城戦を行う。

 こうして時間を稼ぎ、信濃国佐久郡の跡部父子の援軍を待つ作戦であった。


 武田信長は、遥か北方に居る跡部勢に対する備えに、土屋景遠を残した。

 真っ直ぐに佐久から逸見荘に来る場合、途中にある日ノ出城で防ぐ事が出来る。

 だが迂回して甲府盆地に入り、武田の政庁である石和館を抑えられたら一溜まりも無い。

 土屋景遠は一隊を率いて石和館を守った。


 そして荒法師・加藤梵玄が大暴れする。

 小規模な兵力のぶつかり合いにおいて、疲れ知らずで恐ろしく強い豪傑がいると、圧倒的に有利になる。

 梵玄入道は左手に祖先が源頼朝から授かったという義行の長刀を持ち、右手では鉄の棒を振るい、その破壊力で逸見の衆を圧倒した

 それでも地の利を得ている逸見勢は隙を見ては襲撃を繰り返す。

 逸見勢と信長勢は、一日に十度も合戦するという熾烈な戦を行った。

 そして武田信長は、逸見荘南東にある若神子城を占拠した。

 逸見勢は予定通り谷戸城に引き上げる。


 若神子城に入った信長は、命令を出す。

「明日、朝より半数の兵は城を出て、ゆるゆると谷戸城に押し寄せよ」

 理解し難い命令に周囲はざわつく。

「待たれよ、悪八郎殿。

 この若神子城は逸見方の谷戸城よりも低い地に在る。

 さすれば、敵より我等が行軍は丸見えであろう」

 加藤梵玄の問いに信長は平然と

「元より、それが狙いずらよ」

 と答える。

 一同首を傾げる。


「三方を急峻な崖で守られた要害の谷戸城を落とそう等と思っておらんでな。

 むしろ、こちらが兵を出したのを見せて、城より釣り出したいのじゃ」

「ほお。

 それ故、釣られやすい半数の兵を出すとな。

 じゃが、それではその半数の兵はただ討たれて終わろうぞ。

 後詰めを出すにせよ、それも筒抜けでは間抜けな話じゃ。

 逸見勢は後詰めを見ると、城に逃れるぞ」

「坂より降る時は良かろう。

 じゃが、登る時も同じように速く動けようか?」

「む」

「まして一戦した後の疲れた身体よ。

 坂をまた登るは難儀な事よ」

「得心した。

 一同、ここは悪八郎殿の策に従おうではないか!」

 応の掛け声が轟く。


 翌朝、日が昇るのを待って徒士(かち)が城門を出る。

 旗指物を隠し、木陰に身を潜めて動く。

 しかし、やはりそれは高台に在る谷戸城からは丸見えであった。

 城兵は観音寺から佐地玉大神の辺りに潜み、信長勢が甲川を渡る際に打って出る事とした。


 だが、城兵が動くと共に、信長も騎馬を率いて密かに出陣した。

「自分が動いている時は、案外敵の様子は見えんものよ」

 武田の本領は甲斐駒による機動戦。

 得物も畿内の流行りとは異なり、いまだに馬上で使いやすい形状をしている。


 加藤梵玄が率いる部隊に、逸見勢が奇襲をかける。

 だが、奇襲の有利なのは心理的に先手を取る事に有り。

 最初から読まれている奇襲では、効果も薄いのだ。

 だが、地形的に有利な位置に居るのは確かである。

 逸見勢は矢を放ち、印字打ち(円盤状に加工した石を投げる攻撃)を加える。

 逸見勢の半数に過ぎない加藤勢は守りを固める。


 戦力均衡の機会はあっという間に訪れた。

 武田信長率いる本隊が出現する。

 こんなに早く現れると思っていなかった逸見勢が、むしろ奇襲を受けたようなものであった。

「よし、我等も押し出せ!!」

 この時代の戦は、足を留め楯を立てての矢戦、楯を持ち身を寄せ長柄で打ち合う搔楯戦の他は、有利な態勢を作ってからの突撃となる。

 突撃というか、武者を解き放った後は陣形もへったくれも無い。

 勢いのまま敵を制する。

 逆に奇襲を受けて混乱している逸見勢は、信長勢の攻撃に抗し切れずに崩れる。

 果たして、坂を登る兵は腰砕けとなり、逃げられない。

 まして信長本隊は騎馬である。

 そのまま敵をも追い抜いて谷戸城の城門を突破し、城内に雪崩れ込んだ。

 本城を落とされた逸見勢は支離滅裂になり、多くは鎧を脱ぎ、兜を外して降った。


 逸見有直は屈辱を噛みしめながら、鎌倉目指して落ち延びて行く。


「悪八郎殿、思うたよりも呆気無かったのお」

 加藤梵玄が語り掛ける。

「逸見には輪宝一揆の加勢が無かったからな。

 あれがあったら、わしとて危うかったずら」


 甲府盆地の大勢力・輪宝一揆。

 於曽、板垣、三枝、飯富、今井、溝口といった大身の国人たちで、彼等が出陣して信長勢の背後から襲い掛かれば危うかった。

 だが、信長が逸見攻めにおいて機先を制した事と、土屋景遠が石和館に入って彼等を牽制した事が大きかった。

 もう一つ、佐久の跡部が動かなかった。

 これも幸運であろう。

 信長は知らない事だが、跡部には跡部の思惑があった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「父上、此度我等は動かないのですか?」

 跡部上野介景家が父の明海入道に尋ねる。

「上野、我等は甲斐の守護代とは言え、いまだ甲斐に馴染みは薄い。

 絶対に勝てるなら兎も角、今動くは下策よ」

「では、逸見殿はお見捨てになりますので?」

「左様。

 今は鎌倉公方も京の公方も動けぬ。

 我等が動くは、その両公方が動く時よ」

 そして明海入道は問う。

「上野、甲斐に馴染みの薄い我等が、守護代として為すべき事は何であろうか?」

「それは民を慈しみ、国人と誼を通じ……」

「何を坊主のような夢見事を言っておるのじゃ。

 良いか? 守護代として我等がすべき事はの、

 権力と兵力をもって甲斐の土地を少しでも奪って跡部家の物にする事じゃ」

「押領ですね、分かり申す」

「それをするにはの、負けてはならぬのじゃ。

 勝つ側に常に味方し、負けた国人から領地を奪うのよ。

 さあ、武田悪八郎殿の戦勝を祝いに行くぞ。

 そして恩賞を求めるのじゃ」


……武田信長の敵の内、したたかな方はいまだ無傷であった。

おまけ:

新田岩松家は土用安丸が相続する。

先代当主・岩松満純は岳父・上杉禅秀の乱に連座して処刑されたが、先々代岩松満国が

「そんな人はいなかった」として、土用安丸を後継者に指名したのだった。

土用安丸は岩松満純の弟、満春の子である。

しかし、もう一人の弟・満長の養子とされた。

満春は上杉禅秀とは無関係だが、どうも京都の幕府に近く、家督を狙っている。

京都扶持衆を増やしたくない鎌倉公方・足利持氏が口を挟み、岩松家を潰さない代わりに、次期当主の父親を親京都派の満春から親鎌倉派の満長に替えた。

こうする事で、岩松家の陣代、武田信長が狙う当主後見人の役に、自分の支持者を就けられる。

「岩松次郎」

「はっ、公方様」

「次郎では睨みも利くまい。

 其方を伊予守に任じるよう、奏上しておいた。

 いずれ正式な勅も届くであろう。

 其方はこれより新田伊予守、もしくは岩松伊予守を名乗るが良い」

味方には気前の良い持氏であった。

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