敵の敵は味方
応永三十年は西暦1423年である。
この年、後のフランス国王ルイ11世が生まれた。
ド外道である。
甲斐の守護が任じられ、同時に国内鎮撫の命が出たとの噂は、たちまち甲斐国中を駆け巡った。
自身が当主の父親として「陣代」になれなくなる武田信長は不満を持った。
鎌倉公方から守護に任じられた逸見有直もまた不満を持った。
守護は誰でも良い跡部明海・景家父子であったが、本音を言えば「守護は居ない方が良い」。
差し当たり手を組んでいる逸見党が、新守護に対し不満を抱いている。
更に言えば、甲斐国全体で「中央より派遣される守護とか不要」という気分がある。
(それは中央より派遣された守護代である跡部家にも通じる危険性があるのだが)
三者三様に新守護に戸惑いを持っている中、信長に対し加藤梵玄が呟く。
「亡き大膳太夫殿の三十五日の法要を考えねばなりませんぞ」
「は?
今は然様な時じゃねえずら」
「斯様な時だから法要が必要じゃで。
仏事なら対陣を切り上げる良い理由になりますがね」
「……なるほど……」
武田信長が口ごもったのは、納得出来なかったからではない。
彼の一族は平気でそういうのを無視する事が出来るからである。
かつての治承寿永の源平合戦の折、祖先の武田信義は平家の軍に対し、相手が沼地で足を取られる場所での戦を申し合わせたりした。
当然平家方の伊藤忠清は怒り、ふざけた書状を持って来た使者を切り捨てた。
すると武田では
「軍使を斬るとは何事か!? 武家の礼に反する輩よ」
と非難し出す。
(思えば、そうやって相手を怒らせる為の軍使ではなかったか?)
そう思わなくもない。
そうは思っても、武田は先祖から子孫に至るまで、仏教には篤い。
さしもの武田党も仏事にかこつけて敵を騙し討ちにはすまい。
悪八郎信長も、それを考えはしたが、するとなると二の足を踏む。
信長は加藤梵玄の提案を受け、逸見・跡部陣営に三十五日法要の報せを送った。
「あの若造、何を考えているやら……」
「分からぬのか? 中務(逸見有直)殿」
「分からぬ事は無い。
だが、会って何をしようと言うのか?」
「まあ我等の戦わずして降る等というのはあるまいて。
彼奴の思惑に乗ってやろうぞ」
「……着込み(鎖帷子)を付けようかの」
「いや、流石に仏事に言付けて我等を呼び出し、それで我等を討ったりしたら、あの若造、天下を敵に回そうぞ」
仏教の力は大きい。
僧は大事に扱われ、それ故に害されないから外交僧として依頼される。
葬儀の参列客を騙し討ちにした等と知られたら、仏を冒涜する者、僧に恥をかかせた者として「この世」に居場所を失う。
別に物理的に命を取られなくても、人に非ざる外道、魔縁として扱われ、人は関わりを持とうとせず、死しても屍を拾う者は現れない。
人がもっと罰当たりになり、仏法僧を畏れなくなるには、まだ時間がかかるのだった。
三十五日の法要は、満福寺ではなく、武田と縁が深い恵林寺で行われる事に決めた。
武田の石和館からも近いが、跡部氏の拠点からも近い。
逸見氏の巨摩郡からは遠くなるが、三者全てに都合が良い寺もそうそう無いのだ。
また恵林寺は外交僧を多く出す臨済宗で、曹洞宗の満福寺より「そういった」話し合いには丁度良いだろう。
臨済宗寺院も慣れたもので、ここで行われた密談は決して外に漏れない。
用心の為、跡部景家を本拠地に残し、跡部明海と逸見有直が恵林寺の山門を潜る。
「本日は亡き叔父の法要にお越し頂き、誠にもって恐悦至極に存じます。
御多忙の中、わざわざの参列、土産も持たせずに帰せません。
どうぞ、法要後もしばしお留まり下され」
白喪服の信長が、入り口で挨拶する。
「亡き守護殿には、ひとかたならぬ世話になり申した。
八郎殿も喪主の勤め、憚りさまに御座る」
「如何様。
八郎殿の差配、この中務(逸見有直)感服致し申した」
「いえいえ、何分若輩の身。
今後も某への親代わり、叔父の代わりとしてお導き下され」
(狸め)
(狐め)
(ムジナめ)
腹の底で毒づいているが、外面は礼節を守り、甲斐国人衆の前で醜態を晒したりはしなかった。
以前も言った事だが、村八分でも「葬式」と「火事」は別扱いである。
それ故、葬儀の連絡すら寄越さないのは絶交状叩きつけ、宣戦布告したのに等しい。
如何に小さな分家だろうが、小身の国人だろうが、縁が有った家には連絡を入れる。
こういう場を逃さず、彼等はやって来て、仕える対象の品定めをするのだ。
もしも葬儀や法要の連絡を寄越さないような相手なら、見限る良い口実を得る事になる。
逆に自分たちの身内が死んだ時、その葬儀に誰を寄越すか、何を贈るかも見ている。
扱いが立派であれば、それは境界争いが付き纏う隣人に対し、自分の家の格が高いと示せるのだ。
よって当主は、そういう事に気を使い、身の程に合わせた扱いにしないと争いの種を撒きかねない。
そして、彼等の前で恥ずかしい姿を見せられないのだ。
読経を聞き、斎の料理を皆で食べる。
「うんめぇ~、こいつぁ何だべ?」
「酒が上物ずら」
「般若湯と言った方が良かんべよ。
にしても濁酒じゃねえし、うんめぇ酒ずら」
「うらんのとこの殿様は偉い人のようずら」
「んだんだ」
(無理言って京から酒を取り寄せて良かった……)
国人衆の評に、ふうっと息を吐いて安堵する信長であった。
臨済宗は幕府に保護されている。
勘合貿易でも外交僧として活躍する。
最新の料理や酒を振舞うなら、ここに限る。
ただし料理は京風を少な目に、京風に似せた甲斐風の濃い味付けにして貰った。
領内の寺院の勢力争いで、あちらを立てた後はこちらを立てる、というような面倒臭さもあり、信長はそういう教育を受けていなかったが、加藤梵玄がそれを補う。
曹洞宗の満福寺でばかり続けると恵林寺辺りは臍を曲げる。
だが臨済宗の恵林寺が後になった事で、今回は面目を施す事が出来たようだ。
(外国との貿易で華やかな臨済宗に比べ、曹洞宗の斎は質素だった)
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「さて、わざわざこのような場を設えた訳を聞かせて貰おう」
参列した国人衆を返し、守護家・守護代家・分家の長は別院に通される。
人目を気にする必要は無くなった。
臨済宗の特徴でもある茶が運ばれて来る。
運んで来た小僧の中には、源慶という少年も居た。
「両人とも、我が兄が甲斐国守護に任じられた事はお聞き及びであろう」
「うむ」
「手っ取り早く言えば、その兄を国に入れぬよう、手を組まぬか?」
(もっと腹芸ってやつを覚えろよ!!)
控えの間に居る土屋景遠が心の中で叫ぶ。
単刀直入にも程がある、というやつだ。
「分からんな。
お主にしたら血を分けた兄になろう。
何故国入りを拒む?」
「兄を当主にしたら、以後は兄の血筋が武田を継ぐ。
わしはただの次男坊に戻る。
それが嫌なのよ」
「ふむ……」
(理由は分かるが、余りにも明け透けではないか?
この若造、狸であるのは法要前の挨拶でも分かる。
それだけに裏が無いか、見極めねばならぬ)
逸見有直は警戒したが、どちらかというとこっちが素で、狸っぷりは必死に芝居した結果なのだ。
逸見有直は深読みし過ぎているが、跡部明海は素直に受け取った。
(この若造は、やはりただの田舎武士の次男坊に過ぎん)
(まあ、侮る事は出来んが、今はまだひよっこだ)
跡部明海の仲立ちもあり、逸見有直も対武田信重会議に加わる。
一応、三者とも新守護反対で一致していた。
「京の公方が決める事には、鎌倉の公方様もお気に召さぬ模様」
「なれば、鎌倉殿にも頼み、三郎入道(武田信重)の守護に反対していただこう」
「その連絡は逸見殿にお任せしたい」
「では明海入道は?」
「わしからは信濃の御本家(小笠原政康)を通じ、京に新守護反対を働きかけようと思う」
「わしは国衆の揆を一にし、国入りを阻止しようぞ」
「あとはどう落としどころを作るか、じゃが……」
「兄上だが、案外脆いと思うぞ」
「それはどういう事だ、悪八郎殿」
「兄上は気が小さい。
木賊山の前にも、公方には逆らえぬと甲斐を出奔し、出家した。
逃げるなら逃げるで、わしのように諦めねば良いものを、合戦の前から世を捨てる形で逃げたのよ。
在京していた叔父上なら分かるが、兄は公方殿の詫び、命乞いをして高野山に入ったと聞く」
「となると、頼りないとして国衆も見限ろう」
「誰も望んでいないと知ると、兄上は身を退くやもしれぬ」
「京の公方様が三郎入道の守護職を諦めればそれで良し」
「三郎入道が身を退くならば、それも良し」
「一切が片付いた後は……」
「皆まで言うな」
「フフフ……」
「クックック……」
「まあ、お手柔らかにな」
(狸め)
(狐め)
(ムジナめ)
かくして甲斐国内にて対立する三者は野合し、京から任命された新守護・武田三郎信重国入り阻止で共闘する。
またも自分の意見を無視された鎌倉公方足利持氏は、京に対し信重拒否の抗議を繰り返す。
国衆も逸見・跡部の一党も新守護反対を叫ぶ。
この妨害工作の打ち合わせは、次は四十九日の法要にかこつけて行われる事となった。
足利義持が苦虫を嚙み潰したような表情となり、武田信重が
(わしは此処まで甲斐で嫌われておったか……)
と落ち込む一方で、甲斐国では奇妙な安定が保たれた。
三者はそれぞれに思う
(この件が片付いたら、亡ぼしてやるよ。
富士の雪解け水で首筋を洗って待っているが良い!)
おまけ:
岩松家の土用松丸は、師僧に言われて別院にいる武田信長、逸見有直、跡部明海に茶を運んだ。
武田信長とは面識があるが、他二人とは初対面である。
茶を置いて、子坊主は控えの間に下がる。
どうも、敵対する相手と話し合う為に法要を利用したようだ。
兵を集めて睨み合った敵に、呼ばれたからと言ってホイホイ着いて行くのは沽券に関わる。
だが仏事なら、敵と飲み食いしても特に問題とならない。
(政治とはこのように行うのか)
少年は学習していった。