あとがき
太田道灌暗殺後の坂東
・長享の乱:山内上杉家 対 扇谷上杉家&長尾景春&足利成氏
・永正の乱:
第1クオーター:越後守護上杉房能 対 越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)
第2クオーター:関東管領上杉顕定(房能実兄) 対 越後守護代長尾為景
第3クオーター:上杉顕実(山内家第12代当主) 対 上杉憲房(山内家第13代当主)
第4クオーター:古河公方足利政氏(父) 対 足利高基(長男) 対 足利義明(次男)
・古河公方足利晴氏&北条氏綱 対 小弓公方足利義明
・河越夜戦:北条氏康 対 古河公方足利晴氏&山内憲政&扇谷上杉朝定
こうして旧勢力の古河公方、関東管領、扇谷上杉家、越後上杉家は没落していき、
北条家(伊勢氏)と越後長尾家が勃興していくことになる。
作者は当初「現代の男性アイドルが過去にタイムスリップし、歴史に関わる」構想で作品を考えていました。
時期は鎌倉幕府末から南北朝時代、現代のアイドルたちは武力皆無、農作業も出来ない、常識も違い過ぎる為、誰か理解がある者の下でないと生きていけない。
そして美少年大好きな足利尊氏の下で……
という設定でしたが、丁度少年ジャンプで松井優征先生の「逃げ上手の若君」が連載され始めました。
時代がかぶっている事、松井先生だとマニアックな部分も調べて来そうだから、自分が調べた部分も出て来るかも、と思い執筆を延期。
まあ、「逃げ上手の若君」であの設定は出そうにない(そもそも足利尊氏の性格が違い過ぎる)ので、考えた作品はいつか書くかもしれません。
この構想時に、室町時代の足利家についてガッツリ調べました。
そして足利持氏・成氏に興味を持ちます。
しかし足利成氏は「南総里見八犬伝」や「鎌倉大草紙」で描かれてます。
同時代の話では岩松家純と横瀬国繫の事を記した「松陰私語」というのも有りました。
そんな中で、名前のインパクト大の武田悪八郎信長に目をつけます。
名前は知ってましたから、出オチで使えそうと思って調べました。
戦国時代幕開け(諸説あり)の享徳の乱で第一戦をやってるじゃないか!
記録が途中途中飛びまくってますが、断片だけでも結構面白い人生。
あれだけ負けまくって、心が折れないのも凄い。
甲斐を三回追放され、相模の領地も上杉氏に奪われる、「なろう」流行りの追放ものにも通じる人生。
空いてる部分は創作してやれ!
という事で過去作を調査。
見つからなかったので、執筆始めました。
最初は「追放された主人公が、何だかんだで得意技使って復活する」話にしようとしていましたが(どうせ空いてる期間は創作出来るから)、史料を調べている内に定説への疑問が多数出て来ます。
■「足利成氏は父を殺した上杉家を許せず、これを殺害して享徳の乱を起こした」
これですが、武田信長も足利持氏と戦い続けてるんですよね。
恨みを忘れない人なら、信長も許されないでしょう。
その後も岩松、結城、小山、宇都宮、小田と裏切った家は多いのですが、許してます。
恨みが行動原理にはならないかと考えました。
■「今川範忠に鎌倉を落とされ、古河に陣を移した」
古河には元々城があったとはいえ、結構早く御所が造営され、城も修築されてます。
享徳の乱の原因を調べていて、享徳の大地震を見つけ、そっちの資料に
「鎌倉の都市機能が損なわれたから、成氏は積極的に古河に移った」
という説があったので、それを採用しました。
直せばメリットが多いのは太田道灌の説明の辺りで書きましたが、この選択をしたのは二十歳前後の若い足利成氏ですからね。
晩年は帰りたがってた辺り、長じて価値に気づいたのでしょう。
あと鎌倉放棄説にしたのは、正直相模の西を扼する箱根が、歴史上余り阻止機能を果たしていない為。
今川家、何回箱根の防衛線を突破してるやら。
北関東からの侵攻には強くても、箱根を突破されれば弱い。
足利義政が敵になった時点で、政治力よりも軍事的才能に秀でた人物なら「ここに居たら負ける」と判断したのではないでしょうか。
■「足利義政は芸術に耽溺し、政治を顧みなかった愚かな将軍」
芸術プロデューサー化したのは大御所になってからでしたね。
確かに御所造営の回数は多いです。
火災で天皇の御所も幕府の御所も失われているので、政治する為には造り直す必要がありますな。
これを大飢饉時にやったから、天皇から漢詩を送られて責められたとしてますが、
公共事業をする事で流民に仕事を与え、食糧も配給してた説も有りました。
そして何度も享徳の乱への介入をする。
失敗は多いにしても、政治を顧みないわけではない。
大御所政治が過ぎる為、将軍足利義尚が余りにも何もさせてくれなくて
「出家してやる!」
と喚く程に政治には積極的。
ただ、後白河法皇が遊び仲間を院政の際の側近にし、天下をかき乱したのと同じ
「側近政治」による問題はあったのだと思いました。
あと、性格的に若い時は結構頑固で、怒ったら怖い。
自分の方針に背くと許さないタイプ。
足利義視に対する態度見るとそう思う。
実権がある内はそうやって強硬でしたが、次第に実権は失われていって……。
まあ、奪っていった人たちは義政より先に死んでいってますが。
応仁の乱が終わる頃に丸くなったんだろうなあ。
■細川勝元について
応仁の乱の片方の大将。
色んな創作物で陰謀多い人、武将というより政治家(しかも画策する方)という評ですね。
実際、多数の家に介入をしてます。
が、割と失敗も多い。
行政的には失敗していたり、目立った成果を出していない。
伊勢貞親の方が仕事してる。
やってる事見ていったら
「我々には目的など存在しないのだよ。
目的のためなら手段を選ぶな 君主論の初歩だそうだがそんなことは知らないね
世の中には手段の為ならば目的を選ばないという様な、
どうしようもない連中も確実に存在するのだ。
つまりは、とどのつまりは、我々のような」
な人物な気がして、その妄想が止まらなくなったので、そういう人にしました。
政争そのものが目的で、政争で勝って自分の思い通りの結果を得て、それがどうにかなる訳ではない。
そう考えると、享徳の乱長引かせたの、この人じゃね?
畠山家は関東に寛大だったし、斯波家は手を引きたがってたし。
■足利成氏の強さ
これがよく分かりませんでした。
強いんですよ、とにかく。
しかし、あれだけ勝ちまくっているのに、上杉家が全く折れない。
長尾景仲が指導していたのはあるのでしょうが、あれだけ当主級が討ち死にしまくってて、よく戦い続けていたなあ、と。
そして足利成氏は、勝ちまくってる時期と全く勝てなくなる時期と停滞している時期が極端です。
上杉家陣営の方が総兵力は常に多い。
しかし戦場限定で見ると、足利成氏は互角か逆に多いくらい。
これから推理し
・足利成氏は常に全力フルスイング、1ラウンド勝負型
・上杉家は12ラウンド戦うボクサー
・猛攻をかけて来る成氏は、何度もダウンを奪う
・しかしダウン数でレフリーストップも無いから、
ノックアウト寸前でもドーピング(京都からの援軍)で蘇生し、試合が続く
・その内成氏がスタミナ切れを起こし、温存の為に動かなくなるか、逆襲食らって自分がダウンしてしまう
こんな感じだと考えました。
■太田道灌の兵制
太田道灌は足軽戦術を考案したとされます。
太田道灌は「兵法に通じた知恵者」とされます。
足軽戦術、いつ知った??
太田道灌が上洛したのは応仁の乱が始まる前。
まだ足軽戦法が悪名を轟かす前です。
(御土御門天皇即位の時に行って、和歌を詠んでますから)
という事は、応仁の乱勃発後にも上洛して、京都の情勢を見ていませんかね?
それを見てから、こんな統制の取れない野盗解き放ち戦法ではなく、足軽を軍人として教育した戦い方にすれば圧勝出来ると考える。
それを考えてから、実際に軍の訓練が終わるまで数年は掛かるかと。
銭で雇われる流民や牢人、ならず者の兵士。
雇うだけの経済力、人が集まりやすい都市、そして統率を実践出来る将。
これが揃わないと、最初期の足軽集団戦術は出来ないでしょう。
後の時代だと、これが標準になるから前例通りにやれば良いのですが。
「孫子の兵法」も奇計を説明した書物じゃないですしね。
数を集める、烏合の衆とならないよう統率する、有利な地形を抑える、戦わずして勝つ、こんな事を書いてるわけで、兵法に通じた知恵者となると名戦術家ではなく、名国防大臣になってしまうでしょう。
室町時代(戦国時代初期)に、軍務だけやってる専業政治家はいないので、太田道灌は領国統治も、兵の徴募も、訓練も、作戦立案も、部隊の総指揮も全部やっていて、やらないのは先鋒部隊の指揮官くらいなもの。
逆に長尾景春は名先鋒部隊指揮官であり、それ故に少数でのゲリラ戦になると恐ろしい程の強靭さを発揮するのでしょう。
てな感じで組み立てていったら、享徳の乱が話の半分以上を占める作品となっちゃいました。
武田信長の人生77年、自立して行動し始めたのが父が死んだ後の17歳だから活動期間は60年程。
享徳の乱が全部で28年(信長はその内22年関わる)ですから、そうもなりますか。
そして、記録に無い部分は創作、または状況から「こんな事が有ったかも」という話を作り、前書きと後書き部分には、享徳の乱関係で文献に出て来る新田岩松氏や、娘婿で後に上総武田家と関わりを持つ安房里見家の話を書いてみました。
てな説明をもって、この作品を〆たいと思います。
ご愛読ありがとうございました。
参考文献:
・図説 享徳の乱(黒田基樹)
・太田道灌と長尾景春(黒田基樹)
・戦国の房総と北条氏(黒田基樹)
・享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」(峰岸純夫)
・新田岩松氏(峰岸純夫)
・その後の東国武士団 源平合戦以後(関幸彦)
・房総里見氏の城郭と合戦(小高春雄)
・古河公方と伊勢宗瑞(則竹雄一)
あと「鎌倉大草紙」。
(肝心の武田信長関係の本が手に入らず情報集めに苦労しました)