敵は兄上
応永二十六年(1419年)六月二十日、対馬国尾崎浦。
ここに二百二十七隻の船に乗った朝鮮兵一万七千人余が上陸した。
六月二十九日、この地の守護である宗貞盛も、実力者早田左衛門大郎の不在ながら、六百余騎が反撃する。
険難な山の奥に潜んだ対馬武士は、奇襲をかけると朝鮮兵を崖に落とす。
大損害を受けた朝鮮軍は、七月になると台風を恐れて撤退した。
これが世に言う応永の外寇であった。
武田信元(穴山家)と武田信長(宗家)の同盟、跡部親子の甲斐入国で、甲斐国は妙な安定をした。
いわゆる三すくみというやつである。
この時期、鎌倉公方足利持氏が、自分が行った苛烈な仕置きの反作用に苦しめられ、甲斐にちょっかいを出せずにいたのも安定に寄与していた。
応永二十六年(1419年)、また上総国で本一揆衆が蜂起した。
常陸国では、小栗満重という京都扶持衆の武将が反鎌倉行動を起こす。
同じく常陸国で佐竹家の内輪揉めは収まらない。
足利持氏は、敵対者を倒し、首を斬る毎に自分への反発が増えていく事に気づいていない。
足利持氏を補佐すべき関東管領も、前年に上杉憲基が死亡し、上杉憲実が十歳で管領職を継いだ為、機能していなかった。
若年過ぎて補佐役にもならない関東管領なのを良い事に、持氏は好き勝手しているが、その度に敵が増えていた。
「それにしても悪八郎殿、鎌倉はあれから何も言って来ませんな。
武勇に驚いたんですかな、グワッハハハ!」
「いやいや、それ程でも、あるのお、うわっはははは!」
武田信長と加藤梵玄が酒宴を開いている。
「それで若君は?」
「倅と奥はまだ伊豆におる。
もっと大きくなり、己の身を守れるようにならんと、危ねえずらよ」
今の甲斐国に入国するなら、せめて歩き回り、咄嗟の時に逃げたり食事を吐き出せる知恵が必要だ。
そうでない以上、乳母らと共に伊豆の隠れ里に居た方が良い。
その隠れ里を密かに守ってくれている土肥一族と同族の土屋景遠も、この酒席にいる。
楽天家の義弟と違い、景遠は不安が拭いされずにいた。
「若君が大きくなるまで、果たして甲斐がこのままでいられますかな……」
「ほう?
土屋殿は何か不安が有んのですけ?」
梵玄入道が酒臭い息を吐きながら尋ねる。
「京の公方様の事に御座る。
鎌倉が動かないとあっても、京はまた別であろう」
先代の足利義満は、鎌倉幕府の時は宮将軍の敬称として用いられた「公方」の称号で呼ばれた。
義満以降も京の将軍は公方様と呼ばれるようになる。
これに対し「鎌倉殿」こと足利氏満も自らを公方と呼ばせるようにした。
ここに「関東公方」が生まれる。
坂東武士の中には京都扶持衆のように、京の足利家こそが主君・主家であり、鎌倉府には地理的な事情で寄騎しているだけという者もいる。
その場合、公方は京の将軍であり、鎌倉将軍は馴染みのある「鎌倉殿」もしくは「鎌倉」で呼ばれる。
公方の事は「京の公方」と呼んで、鎌倉の公方と呼び分ける場合もあった。
「で、その公方様が何か?」
「うむ、公方やその近習が甲斐をこのままにしておくかどうか、その不安がある」
「ハハハハハ、義兄上は心配性じゃのぉ。
わしは京の意向に従い、修理大夫殿(武田信元)を助ける為、小笠原の親類殿と共に働いたのよ。
左馬殿(足利持氏)には喧嘩を売ったが、京には従っておる。
甲斐の守護職は修理大夫殿がなっておるし、わしは何も悪い事しとらんぞ?」
「じゃが、いまだに許されておらんのも事実であろう、悪八郎殿」
「一度戦を仕掛けたら、すぐには許せぬものじゃろうて」
「それもあるだろうが……なんというか、わしは京の公方様には鎌倉殿とは違う恐ろしさを感じるのよ。
鎌倉殿は目に見えて恐ろしいのじゃが、公方様は……腹の底が見えぬ、得体の知れぬ怖さじゃ」
「土屋殿、そこもとの気持ちは分かったが、今気にしても詮無き事ずら。
武田お館様が京の公方様の望んだ人であるし、お館様も京に逆らってはおらぬ。
京としても何かを仕掛ける名分が無いじゃねえけ」
「ほおじゃのお、確かに入道殿が言われる通りじゃ。
じゃがのぉ……」
土屋景遠の漠然とした不安は当たっている。
直情径行の鎌倉公方に対し、京の公方・足利義持は「待てる」政治家だった。
彼は直接動く事をせず、事態を静観している。
甲斐を忘れた訳ではないのは、何度届け出をしても
『逆臣武田悪八郎の倅、伊豆千代丸に家督を継がす事、罷りならぬ』
という返書を続ける事から分かった。
(悪八郎本人はともかく、その子はいずれ許されるだろう)
だが、時間は彼等の味方をしない。
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応永二十七年(1420年)は何事も無く終わった。
武田信元・信長連合と鎌倉派の逸見家、守護代跡部家との三竦みは、それなりに安定してしまい、国人同士の諍いも減少した。
だが、翌応永二十八年(1421年)になると事態が急変する。
この年の正月頃に病を発した甲斐国守護武田信元が、そのまま拗らせてしまい、ついに死の床に就く。
京と鎌倉、両方の公方から認められていないが、後継はとりあえず信長の子、伊豆千代丸となっている。
実父である信長は、当然当主の後見として甲斐を仕切るつもりであった。
「守護は伊豆千代丸殿で構わぬよ。
じゃが、守護が幼き時の為の守護代に御座ろう」
跡部明海が後見を申し出る。
「そもそも甲斐の守護職を任されたのは我等。
大膳太夫(信元)も伊豆千代も認めてはおらぬ」
逸見有直が守護職を奪おうとする。
「正直な話、守護代として甲斐国に居られるなら、守護はどなたでも構わぬ」
跡部明海は逸見有直に対し申し出る。
「ほお?
其の方は京の意に沿って働く者では無かったかの?
そのような申し出をして良いのか?」
逸見有直は変化球で返す。
「京は何も言って来ておらぬ。
ただ、伊豆千代丸の後継はならぬとのみ。
ならば、京が任じた大膳太夫殿の意思に従うも、
公方様の伊豆千代丸は認めぬという意思に従うも、
いずれも有りだと思うがのお」
「ふむ……」
考えた挙句、逸見有直は跡部明海と手を組む事にした。
武田信長打倒までの間は……。
武田信長は、既に当主の後見役、更に言えば当主代行「陣代」気取りであった。
それはつまり、武田の家政をする事でもある。
次男で、しかも若くして親を失った後に国から追われた信長は
「葬儀とか法要とか、さっぱり分からん!」
だったのだが、そこは荒法師とは言え加藤梵玄が味方であった事が幸いする。
武田信元存命中は祈祷を頼み、方々の寺に寄進を行う。
だがその成果は無く、応永二十七年四月を迎えずに武田信元は病死した。
余談だが、「村八分」という言葉がある。
「葬儀と火事の手伝い以外は絶交する」という意味だが、逆に言えば葬儀と火事は例外なのだ。
故に、葬儀に招かないというのは村八分以上に重い事で、この時代では宣戦布告に等しい。
信長は色々思うところは有ったが、土屋景遠と加藤梵玄の助言もあり、敵対する逸見家、跡部家、更に信濃の小笠原家にも葬儀の連絡を行う。
更に京と鎌倉の公方、足利義持と足利持氏にも書状にて訃報を届ける。
(悪八郎の若造も、この辺は弁えておったか)
逸見有直、跡部明海も非常識な人間ではないから、片や武田分家、片や守護代という格下の立場で葬儀には参加した。
もしも信長が葬儀の案内を分家や補佐役の家に出さなければ、その非常識さを理由に挙兵出来たのだが、ここは大人な態度で神妙にする事とした。
信濃の小笠原政康は、流石に遠い為弔問の為に家人を出す。
葬儀は穴山家の菩提寺・満福寺で行われた。
武田当主として恵林寺という選択肢もあったが、信元が武田家督を継ぐ前に穴山家に養子入りし、穴山信濃守満春を名乗っていた事からそうした。
有力分家である穴山衆に気を使った結果でもある。
葬儀が終わり、初七日の法要が終わると、武田信長と逸見・跡部連合は挙兵する。
両軍は荒川河原に布陣し、開戦前から騎馬武者同士の小競り合いが頻発する。
両軍とも数百人程度の規模で、まだ戦には足りない。
そこで両陣営とも中立の穴山、小山田といった甲斐有力国人、更には他国衆にまで味方になるよう書状を送って多数派工作を続けていた。
しかしここで意外な報が入る。
この四月二十八日、京の公方・足利義持は武田信長の兄で出家した三郎入道こと武田信重を甲斐国守護に任じたという。
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武田信元の訃報を聞くや、将軍はすぐに自身の政治相談役・醍醐寺座主の満済を招く。
足利義持は「待てる」政治家であった。
甲斐の国の情報を集め、変化が起こる時機を計っていた。
その変化が訪れる。
介入の好機が来た。
義持と満済は二、三相談した後、満済は高野山に使者を送る。
その日、経典を読んでいた光増坊道成こと武田三郎入道は、兄弟子から呼び出しを受ける。
塔頭に連れて行かれた三郎入道は師より意外な事を伝えられた。
「光増坊よ、室町御所より呼び出しです。
御前はこれより俗名に戻し、従前の名を名乗りなさい」
訳が分からぬまま、坊主頭に素襖姿で三条坊門の公方邸に参上する。
「武田三郎信重、其方を甲斐国守護に任ずものである」
「は?」
「武田殿、公方様の御前であるぞ」
「は、ははーー」
「神妙である。
甲斐国守護武田信重は速やかに帰国し、弟悪八郎並びに分家逸見中務丞を鎮撫すべし。
これが将軍御教書である」
兄が弟の野望を挫くべく、守護に任じられたのであった。
おまけ:
甲斐の恵林寺には岩松院という塔頭がある。
もしかしたら岩松家の土用松丸は、ここで修行した、かもしれない。
武家が多く信仰する臨済宗。
ここでは仏教のみならず、四書五経といった儒学、孫子、呉子、六韜三略といった兵法を学べた。
この時代より後の武将であるが、
伊勢宗瑞:建仁寺・大徳寺
今川義元:妙心寺
武田信玄:恵林寺
という縁もある。
岩松の土用松丸は、おそらく十歳から十七、八の頃まで、ここで教育を受ける。
濃厚な兵法や統治についての教育を……。