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応仁・文明の乱の終結

この時代の足利将軍を「室町殿」と呼ぶ。

室町第に住んでいたからだが、その邸宅も戦火で焼けてしまった。

足利義政は細川勝元が所有していた邸宅「小川殿」を接収し、「室町第」を義尚と日野富子に譲った後はそこに住んでいた。

しかし室町第は焼失、帝と将軍と日野富子が小川殿に避難してくる。

大御所と将軍御所と帝の御所が同じ邸宅に入った。

手狭もいいとこである。

義政は急遽様々な建物を増築した。

世間は「戦乱にも関わらず、御所ばかり造っている」と義政を批難する。

どこもかしこも焼けているから、無事な邸宅の敷地内に増築でもしないと政府機能が回らないのだ。

当面(数年程)、大御所も帝も将軍も、小川殿で政務を行う事となった。

 応仁・文明の乱は要因が一つに決められない程多数絡まり合っていた。

 当事者たちは、それを一つ一つ解決したり、我意を押し通して強引に納得させながら、乱の終結を計っていた。


 文明六年(1474年)、真っ先に東軍の大将細川政元と西軍の大将山名政豊が和睦。

 総大将同士が和睦する事で、合戦を続ける意義を消滅させる。

 その上で、両陣営とも自分たちが合戦に巻き込んだ諸大名の問題を解決するように動く。


 文明八年(1476年)十二月、西軍の神輿であった足利義視が、兄の足利義政に降伏。

 足利義政も弟を許す事で、更に一層合戦の意義を消滅させた。

 更に西軍の大将大内政弘も、足利義政による和睦要請を受諾する。


 文明九年(1477年)、室町政権と大内政弘の和睦は進む。

 大内政弘が求めていた伊予の河野通春の赦免が通り、大内家の面目が立つ。

 河野通春は政争は得意だが、政治は意外と苦手な細川勝元の不手際により、管領細川家と対立していた。

 足利義政にしたら、細川家との対立なら自分の問題ではない為、赦免もしやすい。

 こうして大内政弘の顔を立てると、次は新将軍・足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の守護職を認めて実利を与える。

 これで大内政弘は安堵し、ようやく和睦が成立する。


 そもそも家督問題で、東軍西軍が成り立たずとも戦を終わらせられない畠山家と斯波家だが、彼等は京で戦っている状態では無くなる。

 畠山家の合戦の場は河内と大和に移り、西軍の畠山義就が真っ先に下向、東軍の畠山政長も幕府管領等やってられないと辞任して河内に向かう。

 斯波家はもっと悲惨であった。

 領国である越前は朝倉孝景、尾張は織田敏広(西軍)と織田敏定(東軍)、遠江には今川家が勢力を伸ばしていた。

 東軍の斯波義敏は、同じく東軍の朝倉孝景に敗北し、無力化されて京に送り返された。

 西軍の斯波義廉は東軍の織田敏定との戦いに敗れ、行方不明となる。

 元々渋川義鏡の子で、斯波家に強引に養子入りした経緯もあり、彼を担ぐ者も探す者も無かったようだ。

 一番和睦に反対だった畠山、斯波が京において影響力を失った事で、ついに戦乱は終結したのである。


 今まで散々に縺れていた糸が、一気に解けていった。

 この一連の流れには、大御所足利義政の加齢による政治家としての成熟があっただろう。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 享徳の乱が始まった時、足利義政は十九歳であった。

 血気盛んである。

 足利義政は何度も何度も関東の争乱に介入した。

 そして中々成果を出せなかった。


 応仁の乱が始まった時、足利義政は三十一歳となっていた。

 随分と大人にはなったものの、まだ政治家としては未熟であったと言える。

 弟の背信を許さず、激しく非難した結果足利義視は西軍に奔り、彼等に西公方という担ぐ神輿を与えてしまった。

乱を長期化させた要因の一つである。


 息子の足利義尚に将軍職を譲った時、足利義政は三十八歳。

 ようやく政治家としては角が取れて、他人を許せるようになって来た。

 また、この時期の足利義政に政敵は居ない。

 武家の長たる将軍を、公家朝廷の一部である院の執事として下に置いた後花園院は薨去した。

 朝廷はその御所を焼かれ、室町殿である義政に保護されている。

 朝廷は足利義政の助け無しに儀式も出来ない。

 政争上の強敵であった細川勝元も死んだ。

 大名たちに政争を仕掛け、家督問題をややこしくした実力者は居なくなった。

 その子は未だ幼い。

 管領も不在である。

 斯波も畠山も、自分の合戦が忙しくて引き受けても辞任してしまう。

 これはこれで問題なのだが、管領が補佐するのは現将軍、前将軍こと大御所足利義政が執務する上では大きな問題とはならない。

 かえって大御所独裁が可能となる。


 西軍の総大将、侍所頭人となれる「四職家」山名宗全も死んだ。

 西軍の総大将を引き継いだ大内政弘は、軍事的には脅威だが、政治的には政敵に値しない。

 大内家は幕府において政治をする権限を持っていない。

 管領にも政所執事にも侍所頭人にもなれない。

 地方における利権を認めてやれば、それ以上は望まないのだ。


 足利義政は若気の至りを悔やんでいる。

 かつて怒りの余り、山名宗全と大内政弘を名指しで、抱えていた朝廷の名を使い、朝敵討伐の御内書を出した。

 これによって足利義政も大内政弘も、引くに引けない状態になる。

 大内政弘を正式に赦免し、守護職を安堵したのは、足利義政ではなく「将軍・足利義尚」名義であった。

 相手を追い詰める公文書を出してしまうと、和睦したい時にそれが障害になってしまうのだ。

 苛烈に政敵を追い詰め、倒していった父・足利義教を見習っていたものの、自分にはそれが出来ないという事を、四十に近くなってやっと理解したのだ。

 四十歳を「不惑」とはよく言ったものだ。

 ぴったり四十歳でなくても、苦労をして大体四十歳辺りになって、自分の限界も世間の在り方も理解出来るようになる。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 応仁・文明の乱の終結は、関東の争乱にも影響を与える。


 まず、畿内の戦乱とは無関係なものだが、長尾景春の乱によって関東管領陣営が追い詰められてしまう。

 上杉家は内輪の問題を解決する為に、古河公方との和睦を考え始める。

 ここで細川勝元が生きていたなら、問題をややこしくしたに違いない。

 だが、細川勝元はもう居ない。

 戦乱を長引かせる者が居ないが、同時に戦争の方針を立てる者も、上杉家にとっての京での政治的な後ろ盾も居ないのだ。

 「関東不双の案者」長尾景仲ならば、戦争の方針を考えられただろう。

 だが、長尾景仲もとうの昔に死んでいる。

 その子も死に、現在の関東管領山内上杉家の家宰・長尾忠景はそういう戦の設計図は描けない。

 扇谷上杉家家宰・太田道灌は軍事力で相手を叩き潰す気満々である。

 彼に頼り切るなら、それはそれで長尾景春の乱も、享徳の乱も、共に勝利で終えられたかもしれない。

 だが、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は太田道灌に対して警戒心を持っていた。

 猜疑心と言っても良い。

 嫉妬かもしれない。

 経済力で上杉家を支え、文化人としても帝や京の歌人たちから一目置かれ、軍事的には圧倒的な力を有し、主を凌ぐ巨城に京の楼閣を模した三層の御殿建築を築いて住む。

 吉良、大森、三浦といった名家も太田道灌の指揮下で戦う。

 直接の主である扇谷上杉家だけでなく、関東管領の山内上杉家ですら太田道灌を恐れ出していた。

 故に、太田道灌による勝利も望まないし、長尾景春の横暴も望まない。

 そろそろ戦乱を終わらせた方が良い。

 上杉家も、細川勝元や藤原摂関家程ではないが、基本的に政治の家だ。

 戦乱期でなく、平和時にこそその政治力の発揮、京との繋がりを活かした仲介業務や、婚姻によって勢力を伸ばすような事が出来る。

 そして、そういう者たちの通弊として、外敵と戦うより身内の敵との戦いを深刻化させる。

 身内の長尾景春憎しで、外敵だった足利成氏と手を結ぶ事を選択した。


 細川勝元は居ない。

 だが、足利義政が以前のように頑なであったなら、終戦の気運も生まれなかっただろう。

 足利義政が政治家として成長した今なら違う。

 足利義政と後花園院は、足利成氏討伐の御教書や綸旨を出してしまった。

 公文書で出した以上、引っ込みはつかない。

 しかし、後花園院は薨去し、将軍も足利義尚に代替わりした。

 更に足利成氏を追い詰めた細川勝元ももう居ない。

 足利義政は、細川政国に関東の争乱収束の為に働くよう命じる。


 これを受けて、堀越公方の関東執事・犬懸上杉政憲も和睦交渉に動き出す。

 この動きを、堀越公方配下の伊豆国人衆も支持する。

 伊豆は京の幕府直轄領であり、足利義政から派遣された堀越公方・足利政知に従うよう命じられていたが、利害関係がほとんど無い関東の争乱に関わるのも面倒だった。

 山内、扇谷、そして犬懸の上杉一門が連携し、古河公方との和睦を図り始めた。


 しかし、そう簡単にはいかない。

 応仁・文明の乱では畠山家、斯波家が和睦に対して猛烈に反対し、それで戦乱が終わらなかった。

 享徳の乱においても和睦に反対する者たちが居る。

 まず、三勢力、現在は長尾景春も加えた四勢力となっているが、その一方の長である堀越公方・足利政知が和睦に反対なのだ。

 足利義政に命じられ、僧から次期鎌倉公方となるべく還俗させられてから二十年。

 鎌倉に入る事も出来ず、関東の諸将からの忠誠も得られず、名ばかり公方として堀越から動けずに居た。

 この上、古河公方を認める形で和睦等成立したら、彼の立場は全く無い。

 そして、彼を補佐すべき関東執事の犬懸上杉政憲が、勝手に和睦交渉を進めている。

 馬鹿にするのもいい加減にしろ!!

 こんな感情から、足利政知は和睦を認めようとしない。


 そして四勢力の中で、最も長く戦い続けている古河公方・足利成氏。

 彼もまだ勝利を諦め切ってはいない。

 鎌倉陥落、綱取浜の敗北、堀越攻撃失敗、古河御所失陥と何度も命取りとなりかねない事を経験している。

 岩松持国、結城成朝、小山持政と旗揚げ以来の味方にも裏切られた。

 戦乱を終わらせる手を結んだ山名宗全・斯波義廉の西軍も今や解散した。

 それでも戦い続けている。

 太田道灌は確かに強い。

 だが、長尾景春と対峙している今、勝てるのではないか?

 実際に太田道灌は、甘粕原の陣で足利成氏を警戒して兵を退いている。

 足利成氏にとって、今まで乗り越えて来た危機に比べれば、現状は寧ろ有利な状況であった。


 とりあえず上野国広馬場(榛東村)での関東管領方との対陣は、休戦の申し出を呑んで撤退する事にする。

 上野国の山間、豪雪の中で何時までも居たい場所ではない。

 足利成氏と配下の大名たちは陣に火を放ち、「前代未聞」と呼ばれるあっという間の撤退を行った。

 足利成氏は古河にそのまま戻らず、武蔵成田(行田)に布陣する。

 上杉方は「京との和睦を斡旋する」と申し入れて来たが、まだ信じられない。

 太田道灌は、彼の留守を狙って蜂起した豊島勘解由左衛門尉を討つべく兵を江戸城に戻している。

 雪の中の対陣は避けたが、まだこのまま勝てる可能性はある。

 足利成氏は成田の陣で攻撃の機会を伺っていた。


 そんな足利成氏の元、再度武田信高が訪れる。


「上総前司(信高)、葬儀はもう済んだのか?」

 成氏の問いに、信高は

「はっ、お陰様を持ちまして」

 と答え、続けて言上する。

「父、武田右馬助入道信長より公方様宛の遺言を持参致しました」


「そうか……」

 宿将の死を悼む成氏に、信高は書状を渡す。

「この先の合戦について、どうしても伝えたいとこの書状を遺しておりました。

 どうかご照覧あれ」


 成氏は書状を読む。

 読み進める。

 一息吐き、武田信高の方を見る。


「上総介」

「はっ」

「右馬助の最期の日々について聞かせてくれぬか。

 武田の爺は、一体何を考え、このような考えに至ったのか。

 嫡男の其方が見聞きした全てを伝えて欲しい」


 武田信高は、父の死について足利成氏に語る。

 それは享徳二十六年/文明九年(1477年)の冬の事であった。 

おまけ:

岩松家純は足利成氏に降る。

しかし、はいそうですか、で済まないのも武家の習い。

降伏を受け容れても、かつての敵は一番の新参者として席次が低くなるものだ。

岩松家は、河内源氏の名門新田家の嫡流筋、そんな低い席次に甘んじてはいられない。

降伏し、取り次ぎをする者も相応の者を選ばねばならない。


岩松家純は佐々木温久入道に依頼したが、温久は岩松家に対し好意的ではなかった。

そこで取り次ぎ役を簗田持助に代える。

簗田持助は享徳の乱以前から成氏に仕え、側近中の側近と言えた。

簗田持助も岩松家に好意的ではあったが、この人、そういう人の紹介とか取次は苦手なようだった。

人物はともかく、進展がさっぱり無いので、今度は結城氏広の伝手で印東氏を紹介して貰う。


すると簗田持助は面子を潰されて激怒した。

交渉役の松陰坊が簗田持助に釈明する。

「奏者を代えたのは拙僧の独断であり、礼部様(家純)には関わり無き事。

 河内守様(簗田持助)の陣所は遠く、何かと不便でした。

 そこで近くに居られる印東様にお願いしたのです。

 河内守様に不満有っての事では御座いません」

簗田持助は納得し、

「今後何か有ったら手助けする」

と言ってくれた。


武家の体面というのも大事なものである。

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