長尾景春立つ!
文明五年(1473年)、政敵細川勝元と西軍の大将山名宗全死亡後に将軍足利義政は実権を取り戻すべく動き出していた。
伊勢貞親再失脚後、空位になっていた政所頭人に貞親の子・伊勢貞宗が、侍所頭人に赤松政則が任じられる。
そして十二月に九歳の我が子を早々に元服させ、将軍職を譲る。
その子、足利義尚の管領として畠山政長を任じた。
そして自らは大御所となり、応仁の乱以降室町第に避難している帝を抱え、再び天下に号令しようとする。
しかし、室町殿の権威は既に回復不能なまでに堕ちていた。
細川勝元は病死、斯波義敏は朝倉孝景に押されて苦戦中とあり、東軍の指揮は畠山政長が執らねばならない。
他にも自領の大和国、河内国を巡って畠山義就との争いも忙しい。
管領をすぐに辞任し、戦闘に戻ってしまう。
もう一つの管領家の斯波義敏が何故苦戦をしているのか?
朝倉孝景は斯波義敏と同じ東軍に属するのに?
それは足利義政が朝倉孝景を東軍に帰順させる際、斯波家に代えて越前の支配権を認めたからであった。
畠山政長には、東軍同士の揉め事を撒いた義政から距離を置きたい心理もあったのだろう。
かくして管領は空位となり、足利義尚の生母・日野富子の兄の日野勝光が無役でありながら管領職を代行する事になる。
文明六年/享徳二十三年(1474年)、長尾忠景が山内上杉家家宰職に就く。
これに対し、先代・長尾景信の嫡男・長尾景春は本格的に腹を立てた。
また、扇谷上杉家当主に、上杉持朝の三男・上杉定正が選ばれる。
戦死した先代の上杉政真は若く、子がまだ居なかった。
そこで政真の叔父に当たる定正が、家宰である太田資長を中心とした扇谷上杉家家臣の協議によって立てられる。
既に家宰として十年以上家政を担い、山内上杉家や京の将軍からも一目置かれる太田資長は、誰を当主とするかを主導した事もあり、僧から還俗して当主となった上杉定正を上回る権威を持つに至った。
その太田資長だが、先代扇谷上杉政真の死をきっかけに、出家して沙彌道灌と名を改める。
以降、彼の発給書面には太田道灌という署名が使われるようになった。
太田道灌の母は、長尾景仲の娘である。
つまり太田道灌は長尾景信とは従兄弟、長尾景春とは従叔父・従甥の関係であった。
文明六年六月十七日、太田道灌は完成した静勝軒の落成・披露も兼ねて歌合を開いた。
後に武州江戸二十四番歌合と呼ばれる。
京より自身の師である連歌師の心敬を招き、判者となって貰う。
この歌合は経済の中心である京の商人を招く効果を期待していた。
その他に関東管領の配下で、現在は堀越公方に転属している木戸孝範も参加している。
(些か危ういな)
木戸孝範は、五十子陣が昨年足利成氏によって猛攻を受けた事を知っている。
現在も新任の山内家家宰長尾忠景、家督相続したばかりの扇谷上杉定正が態勢を立て直している最中である。
五十子陣でも政治宣伝の為に歌合はしたし、扇谷上杉家の本拠地で現在は太田道灌の父で隠居の太田道真が守る河越城でも催された。
関東管領陣営で文化事業をするのは僭越な事では無い。
しかし、北方が大変な時期に、このような事をしていて大丈夫だろうか?
木戸がそう考えているところに、道灌の配下がやって来て、道灌に何やら伝える。
「木戸殿、長尾四郎衛門尉殿(長尾景春)がお見えになった」
「なんと!
確か上杉家の家宰を継げなかった事で、不満を持っておると伝え聞いておりますが。
その四郎衛門尉殿が一体何故?」
「わしと四郎衛門尉殿は親戚じゃからなあ。
何か相談事でも有るのじゃろう。
木戸殿、もそっとおもてなしをしようと思うておったが、このような用が出来申した」
「……う、うむ」
そうして江戸城を辞した木戸は
(やはり危うい)
そう太田道灌について思わざるを得ない。
主・扇谷上杉定正を上回る名声、権威、軍事力、経済力を持ち、主の城より強力な江戸城に壮麗な三層建築の静勝軒や月見櫓を建て、そこで歌合や有力武将との談合を行う。
謀反の気は全く見えないが、明らかに「主を震わす者」になりつつある。
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「四郎衛門尉殿、よく訪ねてくれた。
京より取り寄せた茶でも如何じゃ?」
「わしは武辺ゆえ、そんな雅やかなものの味は分からん」
「茶には心を安らかにする効能も有るという。
四郎衛門尉殿は今、心落ち着かぬ様子。
理由はよく分かる故、まずは気を静めなされ」
「そうか、なら頂こう。
うん、不味い!」
「……結構高かったんだぞ」
「わしにはやはりそんな高価な物は不要じゃ。
それで、備中……いや今は道灌殿じゃったな、用を話して良いか?」
「家宰の事じゃろう?」
「先回って言われると、腹が立つ。
分かっていても、わしに喋らせぬか!」
「時間の無駄だからな。
わしは其方を武蔵守護代に推そうと思っておる」
「は?」
「齢を考えよ。
五十を超えた修理亮殿(長尾忠景)を差し置いて、其方が家宰となるは難しい。
だが、それでは其方の気が収まるまい。
じゃから、次の家宰を約束させ、叔父を政治上の家宰とし、其方は軍勢を率いれば良かろう」
「う……うむ……」
「それでもまだ、謀反の虫は収まらんか?」
「何故そのように思うのか?」
「わしが其方だとしたら、きっとそうするであろうな。
あるいは古河殿(成氏)に軍勢と共に寝返る。
わしとしては、従甥の其方とは戦いたくないから、引き留めたいのよ」
「ふむ……」
長尾景春はしばらく考えた。
そして回答する。
「まあ、道灌殿にお任せするゆえ、良しなに」
「お任せあれ」
「それとな、わしのような武辺が知恵者の道灌殿に言うのも烏滸がましいが……」
「伺おう」
「人の考えを先回りして言う癖はやめた方が良いぞ。
鼻につく。
言いたい事は同じでも、話す事を潰されると癇に障るぞ」
「うむ……、わしもそれは良くない癖と気づいてはおるが……」
「まあ、持って生まれた癖か。
わしの武辺同様、止めようと思っても止められるものではない、か。
じゃが気をつけられよ。
親戚じゃからわしも抑えておったが、坂東の者は血の気が多いから、突発的に太刀を抜きかねんぞ」
「分かった。
四郎衛門尉殿の忠告を受け容れよう」
かくして長尾景春は、謀反の虫を太田道灌によって駆除される。
この時は……。
そして道灌は、長尾景春に言ったように、彼を武蔵守護代にするよう書面で関東管領に送る。
だが、これが上手くいかない。
道灌は常に江戸城に居て、五十子陣の空気を知らない。
五十子陣では長尾景春に対する不満が渦巻いていた。
先年の足利成氏の攻撃を招いたのは、長尾景春が軍勢を率いて陣を去ったからであろう。
そして扇谷上杉政真が討ち取られるような損害を受けたのに、一向に帰陣しようとしない。
長尾忠景の家宰就任は、年齢的にも「長尾一族の長老を」という慣例的にも至極当然だ。
それに納得せず、不満を漏らし続けている。
むしろ長尾景春などは排除した方が良いのではないか?とも思う。
太田道灌への不満もあった。
確かに南方の固めは重要である。
千葉・武田・里見という房総の強敵に備える必要はある。
鶴岡八幡宮を始めとした寺社の祭事を行う者も必要だ。
また、道灌が武蔵南部と相模を平穏に治めている事で税収が安定し、それが関東管領陣営全体の軍資金となっている事も分かる。
分かるが、やっている事が正しくても、それで納得出来るような賢い生物ではない、坂東武士という生き物は。
危急の時にやって来ない、江戸城から動かない、歌合等をしている道灌に対し、感情的にモヤモヤしたものが残る。
さらに扇谷家当主・上杉定正の嫉妬もあった。
彼を当主に選んだのは太田道灌たちである。
上杉定正は家臣たちに頭が上がらない。
その筆頭とも言える太田道灌に対し、何とも言えない感情が胸の内に巣食っている。
一方で、しばしば五十子陣を訪れ、定正に頭を下げ、甲斐甲斐しく世話をする道灌の父・太田道真については何の蟠りも無い。
人間とはこんなものだ。
そして、今は亡き長尾景仲と並んで「関東不双の案者」と呼ばれる太田道真と、父以上に知恵があり溢れながらもそのような好意的な称号は無い太田道灌の差となる。
何度も推挙するが、五十子陣の首脳陣は長尾景春を認めない。
長尾景春も悪い。
無視されている事を知ると、兵を出して五十子陣の糧道を断つ。
元々五十子陣内で戦っていた男なだけに、どこが補給路かはよく知っていた。
これで圧力をかけたつもりなのだが、見事に逆効果である。
事態を重く見た太田道灌が乗り出し、糧道封鎖を解かせる。
そして五十子陣を訪れ、やっと理解した。
(こんなに拗れているとは思わなかった……)
そして長尾景春と太田道灌の悪い面が出る。
短気な長尾景春は山内上杉顕定を見限って、自立の道を選ぶ。
自領に鉢形城を築き、味方を集め始めた。
そんな景春を見て、知恵者で計算が速過ぎる太田道灌は説得を諦め、鎮圧もしくは利害で釣っての懐柔を考え始める。
関東管領・上杉顕定に対し、
「我が主・修理大夫様(扇谷上杉定正)の持つ権限を四郎衛門尉殿に分け与えなされ。
それで四郎衛門尉殿も矛を収めましょう。
さもなくば、先んじて四郎衛門尉殿をお討ちなされ」
と進言する。
しかし、関東管領はその進言を退けた。
また、己の権力の一部を割くよう言われた扇谷上杉定正は
「家宰が僭越であろう」
と太田道灌を詰った。
(これは最早、戦無しでは収まらぬな)
懐柔も無理、それも上の無理解によると悟った彼は合戦を予測し、いつでも戦えるように支度を始めていた。
余りにも先読みが早過ぎて、粘り強く説得するという事も、主家を正しく導く事も放棄してしまったのだ。
太田道灌は単独でこの問題を片付けるべく準備に入る。
そう、誰にも頼らず自力で……。
この時期、長尾景春と古河公方・足利成氏は連絡を取り合ってはいない。
足利成氏にとって長尾景春は「敵の敵」だが、自分が介入すると共通の敵の前に彼等は元の鞘に収まる可能性がある。
長尾景春にとって足利成氏は、その武勇に敬意を持ってはいるが、やはり価値観的にすぐ投降する相手では無かった。
それでは余りに節操が無さ過ぎる。
あくまでもこれは、父祖の忠誠を軽んじた上杉顕定への抗議であり、古河公方とは無関係な意地であった。
長尾景春、太田道灌、上杉顕定、そして古河公方は睨み合いに入る。
事態は思わぬ所から動いた。
文明八年(1476年)、駿河の今川義忠が遠江攻撃からの帰途、流れ矢に当たって死んだのだ。
これを契機に今川家で相続争いが発生する。
今川義忠の子・龍王丸はまだ四歳。
それよりは、義忠の従兄弟・小鹿範満を当主すべきではないか、という意見が起こる。
この裏には、義忠の父の範忠が四代目当主・今川範政の実子ではなく甥であり、範政の実子である小鹿範頼が真に後を継ぐべきだったという四十三年前の相続問題も絡んでいた。
小鹿範頼の子が小鹿範満である。
そして小鹿範満は上杉家の縁者である。
関東管領陣営は、小鹿範満を今川家当主としたい。
そこで上杉家では、太田道灌を今川家家督問題介入の為に派遣した。
今川義忠の遠江出兵は、応仁の乱の歪みが産んだものである。
今川義忠は、足利義政の側近・政所頭人伊勢貞親の同族、伊勢盛定の娘を正室に迎えていた。
応仁の乱において、今川義忠は足利義政陣営、即ち東軍であった。
そして遠江守護となった西軍の重鎮・斯波義廉と対立する。
ここまでは良い。
しかし、東軍の細川成之支援の為に出陣した時、斯波義廉に代わって遠江守護に任じられた東軍の斯波義良と対立してしまう。
東軍の今川義忠に付く遠江国人と、東軍の斯波義良に付く遠江国人の対立に介入する為の遠江出陣であった。
事態を複雑にさせた責任を感じたのか、それとも単なる政略で「同じ東軍でも、関東管領の力をこれ以上強くしたくない」と考えたのか、京から伊勢新九郎という男が仲裁に派遣された。
伊勢新九郎盛時は、伊勢盛定の次男で今川義忠の義兄にあたる。
太田道灌と伊勢新九郎が駿河で今川家の家督問題を話し合っている。
その隙を長尾景春は衝いた。
ついに長尾景春が挙兵する。
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ところで、揉め事が有れば常に首を突っ込み、その為に隠居をした武田信長はどうなったのだろう?
実は病を得て倒れていた。
彼ももう七十六歳。
人生五十年の時代、平均寿命を大きく超えていた。
だが、こんな状態でも彼は関東管領陣営に最後の仕掛けを行う。
おまけ:
安房では里見義実と武田信長の娘・伏との間の子が続々と元服し、父と共に働いている。
長男の成義は二十六歳で、病弱ながら嫡男として父と共に安房の統治を行う。
次男は成頼、三男は義秀、ともに二十歳を超え、若手の武将として経験を積み始めていた。
里見義実は成義に言う。
「お主に嫁を取らせよう。
三浦の一族の娘御だ」
「待って下さい、父上。
三浦は扇谷上杉の一族、即ち敵方では有りませぬか!」
「お主も頭が固いのお。
もうとっくに上方では東軍西軍どちらがどちらだか分からなくなっておるぞ。
この関東でも、いつ誰が転ぶ(裏切る)か分からぬ。
今は敵でも、いつ味方になるか読めぬ。
であれば、敵であろうと縁を結んでおいて損は無い。
既に公方様(足利成氏)の許しは得てあるし、敵じゃが上杉殿とも話をつけた。
三浦はこの安房のすぐ先に在る。
敵味方よりも地縁が大事じゃ!」
かくして里見成義と三浦平氏分家の横須賀氏の娘の婚儀が執り行われた。