五十子の戦い
京の応仁・文明の乱では一大事が起こっていた。
文明五年(1473年)三月十八日、西軍の大将・山名宗全没す。
それから二月後の五月十一日、今度は東軍の大将・細川勝元が病没。
両軍は開戦時の大将を失った。
山名家は宗全の孫の山名政豊(父の教豊は宗全より先に死亡)が継ぎ、細川家も勝元の孫の聡明丸が継ぐ。
若年のこの二人に祖父程の剛腕は無く、両軍とも和議に反対する諸将に引き摺られ、この後も戦争を継続する事となる。
文明五年(1473年)六月二十三日、山内上杉家家宰・長尾景信が陣没する。
享年六十歳であった。
長尾景信は、足利成氏の古河復帰後に態勢を立て直し、岩松家純の家臣・横瀬国繫が新田金山城に足利成氏を引き付けている内に下総に逆撃をかけて、成氏撤退を招いた。
そのまま下総で成氏軍と戦っている内に風邪をひく。
大事を取って五十子陣に帰陣するが、彼も既にこの時代では老人の類、容体が悪化していき、やがて陣没してしまった。
長尾景信の後の孫四郎家家督は嫡男の景春が継ぐ。
しかし山内上杉家家宰の職、つまり長尾一族の長たる座には、景信の弟で長尾尾張守家を継いだ忠景が推薦される。
長尾忠景は、今までも長尾家の序列二位であり、合戦の能力も高い。
京の将軍足利義政からも、その序列を認められていた。
さらに兄を補佐して書類発給等の政務も行っていた。
山内上杉家家宰職は本来は長尾但馬守家(鎌倉長尾家)から出し、鎌倉家に適当な者が居ない時は孫四郎家か尾張守の長老から出す事になっていた為、何の問題も無い人事であった。
しかし、長尾景春はこれに大いに不満を持つ。
祖父・長尾景仲、父・長尾景信、この二人が居たから上杉家はこれまで戦って来られたのではないか!
なのにその子である自分を差し置いて、他家を継いだ叔父が家宰を継ぐのか?
長尾景春は関東管領上杉顕定や長尾忠景に対して反抗的な態度を取るようになる。
それを宥める為、上杉顕定は山内上杉家家宰任命を保留した。
関東管領上杉顕定はまだ数え二十歳。
補佐する山内上杉家家宰は現在不在。
序列二位の扇谷上杉家当主の上杉政真も二十四歳。
そして上杉家の京における後ろ盾の細川家でも勝元が死に、子は元服していない。
関東管領陣営は指導者不在の状態に陥ってしまった。
この状態に将軍・足利義政は越後に戻っている上杉房定に、関東再出兵の命令を出す。
だが、関東管領の実父である上杉房定すらもう命令に従わない。
越後や信濃の情勢が不安という事を理由に、房定は動かなかった。
こうなると、江戸城の太田資長が指導に当たるのが良いだろう。
だが、彼も動かない。
否、動けない。
太田資長が受け持つ武蔵南部と相模国を、陸路からは千葉孝胤が、海路からは里見義実が狙っている。
それらの後詰めには、油断ならない武田信長が控えている。
(まあ今は辛抱じゃ。
もうすぐ、足軽を用いた新たな戦の形が出来上がる。
それまでは手の内を見せる訳にはいかん。
じゃが、完成した後は、千葉も武田も里見も古河公方も、必ずや叩き潰してやろう。
首筋を洗って待っているが良い)
太田資長の仕事は多い。
軍事的に武蔵南部と相模を守っている事の他に、この地域の徴税や港湾から上がる帆銭を集める、関東管領方の財務担当もしていた。
ただ税を集めるだけではない。
税を多く集めるには、この地が平穏でなければ意味が無い。
鶴岡八幡宮の祭事に金を出し、京より文化人を呼んで歌会を開いたりして、商人が安心するように演出していた。
関東管領方が合戦を続けられるのは、後方で太田資長が軍資金を集め、兵糧を確保しているからと言える。
更に帝や将軍とも交流があり、その縁で京との交渉も担当している。
そういった事をしながら、足軽を使った新戦闘法を構築していた。
太田資長が房総の古河公方方を警戒して動かないのは事実だが、一方で房総の千葉・武田・里見の方も太田資長を警戒し、長く本国を空けられない。
古河を奪還した後、彼等はすぐに足利成氏の元を辞し、領国に戻っている。
時に激しい野戦を繰り返している北方に対し、南方では睨み合いが続いていた。
関東管領、古河公方ともに南方が策源地であり、ここを破られると一気に危うくなる。
迂闊に打って出て敗れるよりも、睨み合いを良しとした。
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南方が膠着状態の中、北方の五十子陣は揺れる。
結果論から言えば、越後上杉房定は息子を助けに来るべきであった。
軍事的にではない、政治的に相談に乗ってやるべきであった。
実父や家宰といった相談相手が居ない上杉顕定は、別の山内上杉家家臣と合議する。
伊豆守護代の寺尾礼春、側近の海野佐渡守、高瀬民部少輔がその相手となった。
寺尾礼春入道憲明は、山内上杉家家臣団の筆頭とも言える長老である。
立場としては死んだ長尾景信の方が上だったが、年齢が上の寺尾礼春を疎かにはせず、堀越公方との交渉を任される程の者であった。
海野佐渡守と高瀬民部少輔は、家宰の下で奉行人を勤めていた。
三人の意見は
「年長(五十代)の修理亮殿(忠景)を差し置いて、若輩(三十歳)の四郎衛門尉殿(景春)を家宰には出来ますまい」
「普段より修理亮殿は四郎衛門尉殿より上座に着かれます。
それを飛び越えて、四郎衛門尉殿が家宰として上座に着かれるのは如何なものかと」
それらは全く正しい。
だが、正しい意見がいつでもまかり通るとは限らない。
長尾景春は、家宰の嫡男という政治的な立場ではなく、武将としての人気がある。
景春を慕う武士たちも多い。
また、長尾景仲・景信の孫四郎家に従った者は、尾張守家の忠景になる事で手柄が消滅しないかを危惧した。
代替わり、系統代わりで方針が変わり、認められていた恩賞が取り消される事は珍しい事でも無い。
その彼等が反対する。
ただし、筋の通る理由は持たない。
それでも反対する人数は多い為、上杉顕定は家宰を決めずにズルズルと引き伸ばす。
長尾景春は嫌気が差してしまった。
彼は五十子陣を離れる。
彼を慕う者もそれに従った。
こうして内輪揉めで弱点化した五十子陣の様子は、古河御所の足利成氏にも伝わってしまう。
「長尾四郎衛門が居らぬとあらば、今が攻め時よ!」
戦力回復はまだ途中であったが、足利成氏は古河を打って出る。
十一月の事である。
利根川を渡り、一度騎西城で休息を取ると、迂回や陽動をせずに五十子陣を直接目指す。
古河公方動く、この報に五十子陣は迎撃態勢に入る。
野戦軍として、扇谷上杉政真が出陣した。
寺尾礼春はこれを止めるも、関東管領の陣営において扇谷上杉家当主は上杉家の序列二位、家宰ですらない山内上杉家の一家臣の制止等、若い政真が聞く事は無かった。
せめて長尾景信が居たなら、そう思わずにいられない。
(これは、やはり若い四郎衛門尉殿ではなく、年長の修理亮殿を家宰にせねば、統制が取れぬ)
公的には山内上杉家家宰などは、関東管領、政所別当、問注所別当、各国守護・評定衆などの大名より遥かに下である。
上杉家という家政で見ても、山内上杉家当主、扇谷家当主、越後家当主、庁鼻和家当主等と居並ぶ中で、その下位になってしまう。
しかし、実質的には関東管領という組織上も、上杉家という一族の中でも、二位が扇谷上杉家当主、三位が山内上杉家家宰、四位が扇谷上杉家家宰といった具合である。
それも年齢によって若干上下する。
山内家家宰が年長で、扇谷家当主が若年の場合、山内家家宰の方が重きを為す。
逆もある。
長尾景仲が死亡し、扇谷上杉持朝が健在の時は、長尾景信は持朝を立てていた。
扇谷上杉持朝が死亡し、若年の上杉政真が当主となると、家政においては太田道真・資長父子、対古河公方戦では長尾景信の指示を仰いだ。
長尾景信が死亡し、後任が居ない今、扇谷上杉政真を制止出来る者は居ない。
早く、山内家家宰を長尾忠景に決めねば。
結果は最悪となる。
何故、寺尾礼春が扇谷上杉政真を制止したか?
野戦で足利成氏には勝てないからだ。
せめて長尾景春が居れば優勢か、悪くても互角に戦えたものを。
扇谷上杉の軍勢は古河公方に散々に打ち破られ、扇谷上杉政真は討死する。
(これで一体何度目だ!)
関東管領陣営は、当主の討死が多過ぎる。
開戦の折、まず関東管領上杉憲忠と山内家家宰長尾実景が血祭りに上げられた。
翌年の分倍河原合戦で扇谷上杉顕房と小山田上杉藤朝が討死。
隠居していた先代の山内家家宰長尾景仲と扇谷上杉持朝が復帰するも、京より派遣された堀越公方の側近と政争が起こる。
結果、扇谷上杉持朝と扇谷家家宰の太田道真が失脚、犬懸上杉教朝が怪死。
太田庄合戦で四条上杉教房が戦死。
寛正四年(1463年)に長尾景仲が老衰死、寛正七年(1466年)に関東管領上杉房顕が病死。
応仁元年(1467年)に扇谷上杉持朝が死亡。
昨年は足利長尾家の長尾景人が古河公方に討ち取られる。
そして今年、長尾景信が死亡し、今また扇谷上杉政真が討ち取られた。
病死・老衰死はともかく、足利成氏によって討ち取られる者が多過ぎる。
(上杉家程、当主を失い続ける家も珍しいだろう)
だが、そんな感慨に他人事のように浸ってはいられない。
十一月二十四日、足利成氏は五十子陣を攻撃する。
これまで、負ける事が多かったものの、足利成氏にもそれなりの損害を与え、撃退には成功していた。
五十子陣を直接攻撃されるのは初めての事である。
「うろたえるな!
まだわしが居るわ!」
長尾忠景が、まだ正式には家宰職を得てはいないが、事実上の上杉軍指揮官として采配を振るう。
「古河公方は名うての戦上手じゃ。
打って出てはならん。
城や土塁を盾に、矢戦に専念せよ。
決して陣の外で戦ってはならぬ」
数千騎の上杉軍が守りに徹する。
足利成氏の軍勢も少なくは無いが、より多くの上杉軍が隙無く守りを固める為、攻めあぐねる。
結局足利成氏は五十子陣を落とす事無く、古河に撤退していった。
「此度は真にお手柄で御座った、修理亮殿」
「いや、やはり古河公方奴は強い。
退けるので精一杯であったよ」
「肝心の時に居らん四郎衛門尉殿に気を使う事も無い。
其方、家宰を引き受けてくれぬか?」
扇谷上杉政真戦死の事もある。
今は筋目よりも、年長の経験がある者を指導者としたい。
筋目から言っても、本来長尾忠景の家宰就任は文句を言われる筋合いのものではない。
単に実力者の長尾景春に気を使っていただけだ。
こうして長尾忠景が山内家家宰就任の運びとなる。
これが享徳の乱、最後にして最大の情勢変動を起こす事になるのだった。
おまけ:
文明五年(1473年)、岩松家純は追放され寺に入っていた自分を引き立ててくれた室町幕府第六代将軍・足利義教の三十三回忌を機に再出家、法号・道建となる。
岩松家純、この時六十四歳、立派な老人である。
彼は永享十二年(1440年)の結城合戦の時に還俗した。
そして手柄を上げて岩松礼部家を立てた。
その後に生まれたのが嫡男・岩松明純で、この文明五年には三十歳を超えている。
出家を機に岩松家純は隠居し、嫡男明純を当主とする。
だが、この男も当時の他の者と同じで
「出家し、隠居した。
やっと家の当主の煩わしい事から解き放たれた!
さあ、これからは好き勝手にやらせて貰うぞ!」
という生き方をするのであった。