古河落つ
扇谷上杉家家宰・太田資長は文化人でもある。
かつて帝の前で見事な和歌で応対した事もある。
上洛し、足利義政と合議を行っている資長は、相国寺や北山第が炎上するのを目撃する。
まだ金閣と呼ばれる建物は残っていた。
「あの見事な建物と同じようなものを、後の世に残さねばなるまい」
彼は武蔵に帰国後、江戸城に静勝軒と呼ばれる三層の望楼建築を造る。
造形的に金閣を模したのだろう、金箔は貼らなかったが。
そして、相国寺や北山第を荒らす足軽たちを見て、兵学者としての彼は考えた。
「荷運びや作事(土木工事)をさせる足軽者を戦に使うとは、思いつかなかった。
じゃが、わしならこんな使い方はしない。
足軽者を上手く使った用兵を考えてみようぞ」
そして数年をかけて、足軽戦術を作り上げる。
軍事は相変わらず、西高東低であった。
八代将軍・足利義政は頑固で執念深い面もある。
彼は当初、応仁の乱と呼ばれるようになる戦乱を収めようとしていた。
だが、その為には政務能力の回復が必要である。
政所頭人・伊勢貞親を追い出す形となってから、彼の政務能力は低下していた。
だから伊勢貞親を呼び戻す。
すると、かつて伊勢貞親に殺されそうになった弟で次期将軍の足利義視が出奔した。
そして西軍に合流する。
義政をこれを自分に対する裏切りと断じた。
そして東軍・細川勝元に対して明確に肩入れをする。
西軍・足利義視、山名宗全陣営は古河公方と和睦し、同盟関係にあった。
これも足利義政には許せない。
古河公方・足利成氏は、もう十年以上も自分の権威を否定し続けて来た。
西軍も古河公方も叩き潰さねばならない。
だが、足利義政に動かせる軍事力は無い。
敵対する西軍や古河公方陣営にする事は同じである。
調略。
まずは伊勢貞親を使い、西軍の有力武将・朝倉孝景を帰順させる。
文明二年(1470年)には大内教幸を裏切らせ、甥の大内政弘と対立させる。
文明三年、斯波義廉の元から甲斐敏光を寝返らせる。
西軍切り崩しと同様、古河公方陣営も切り崩し工作は続けていた。
この足利義政との打ち合わせで太田資長が密かに上洛した。
その留守をついた足利成氏の堀越襲撃は失敗に終わる。
足利義政と、その関東における代理人・岩松家純の調略は加速する。
既に岩松家純は、下野の宇都宮家重臣・芳賀高益、同じく下野の小山家重臣・白川刑部少輔と水谷壱岐入道を味方に付けていた。
足利義政も、常陸の小田成治、下野の那須明資、下総の結城氏朝等に書状を送り、帰順を呼び掛けていた。
古河公方・足利成氏は動揺している坂東を鎮める為、軍事行動を選択する。
この辺り、やはり永享の乱で散った足利持氏の子だけある。
足利成氏は利根川を渡り、上野に出兵。
佐貫荘(邑楽郡)に布陣した。
ここは周囲が全て上杉方に落ちた中、上野に残った最後の古河公方側の支配地である。
佐貫を拠点に、成氏は新田荘を攻める。
「援軍が来るまで持ちこたえよ!」
岩松家純と横瀬国繫は、粘り強く防戦を行う。
彼等がここに足利成氏を足止めすれば、その間に上杉軍は行動の自由を得るだろう。
果たして長尾景信らの軍勢が佐貫を落とした。
上野国の拠点を失った成氏は撤退する。
長尾・岩松連合軍はそのまま下野国足利まで逆に進出。
足利の長尾景人も合流し、関東管領方は八椚城、赤見城、樺崎城といった古河公方方の城を次々と陥落させた。
そしてついに、古河公方方の岩盤が崩れる。
小山持政が関東管領に帰順したのだ。
かつて兄弟の縁を結んだ小山持政が転んだ事に、足利成氏は衝撃を受けた。
次いで下野の佐野愛寿も関東管領方に着く。
そして関東管領方が総攻撃を開始した。
総攻撃、即ち「調略は既に終わった」という事である。
足利義政と岩松家純による調略は、成氏の岩盤支持層であった下野・下総・常陸に浸透し、それを砕いていたのだ。
江戸城より太田資長が弟の太田資忠と共に出陣。
長尾景信たちと合流し、六千騎の大軍で立林城(館林)を攻める。
これに対し足利成氏は奉公衆の高師久を援軍として立林城に送る。
しかし、小山持政の軍勢に河原田(栃木)で阻まれてしまう。
立林城は上杉方の大軍に攻められ、陥落する。
六月、宇都宮正綱が横瀬国繁の調略で関東管領方に寝返る。
更に常陸の小田成治まで成氏から離反した。
古河は上杉・長尾・太田・新田岩松・小山・宇都宮・佐野・小田の軍勢に攻め込まれる。
成氏の奉公衆が打って出たものの、大軍の前に手も足も出なかった。
「公方様はここを落ち延びて下され。
我等が古河を支えます」
高師久らが成氏に脱出を促す。
成氏は最初渋っていたが、彼等の作戦を聞いて脱出を承諾した。
足利成氏は古河から落ち、本佐倉城の千葉輔胤の元に向かった。
古河御所も占拠された。
古河御所の政所は荒らされ、発給書類の写し等も焼かれる。
だが、要害の地に立つ古河城はまだ落ちない。
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「なんと、鎌倉殿が古河より落ち伸びられたとな……」
武田信長にその報が届いた時、そう呟いた。
「驚くべく知らせだが、それにしては落ち着いておるのお、悪八郎殿」
加藤梵玄が、言葉とは裏腹に冷静な信長を面白そうに見ている。
「鎌倉殿(成氏)が討ち死にしたなら慌てふためきもしただろう。
じゃが、鎌倉殿は生きておられる。
ならば巻き返しも出来ようぞ」
「ほお?
出来るかの?
今は永享の戦の折、千葉や三浦が相次いで転んだ時と似てはおらぬか?」
加藤梵玄が尋ねる。
「出来る」
信長は自信を持って答えた。
「古河城より鎌倉殿が落ちられたのは良き思案じゃ。
そこに鎌倉殿が居るから、上杉も躍起になって攻めて来よう。
じゃが、鎌倉殿が本佐倉に居るとなれば、古河よりもそちらが気になろう。
すると城攻めは疎かになる。
古河城を落とす手柄は、鎌倉殿を討つ手柄に比べ、労多く恩賞少なし。
糧道を断ち、自落するか降るのを待つ事を選ぶであろう。
されど、籠城の人数を減らした事で、城方の兵糧は長持ちする。
古河は持ち堪えるだろう。
結城合戦の折、守りを徹底的に固める城は、天下の大軍に囲まれても落ちなかった。
最後に結城方が打って出たから落とされたが、そうでなければまだ長引いたやもしれぬ。
結城城の時に比べ、上杉の兵は、大軍とは言うが天下の兵よりも少なし。
そして孤立無援の結城城に比べ、古河城は来援を待てば良い。
これが違いじゃ」
「古河城の事は分かった。
では公方殿はどうなる?
返り忠が相次ぎ、身の置き場がないのではないか?」
加藤梵玄が引き続き疑問を呈する。
「永享の折は、長春院殿(足利持氏)は諦めて降られた。
今の鎌倉殿はまだ諦めておらぬ。
それは奥行きの深さが物を言っておる」
「奥行きじゃと?」
「うむ。
永享の折、長春院殿は西に上方勢、東に三浦、北に上杉と囲まれて行き場を失っていた。
その上、御子(足利義久)を捕らわれてしまった。
その状況で、関東管領が助命をするからと言ったから、降られたのじゃ。
まあ、結局助命はならず、自害させられたがの。
今、まだ鎌倉殿は行き場を失っておらぬ。
北の大名が背いたが、まだ関宿(野田)に簗田河内殿(持助)、結城殿(氏広)、千葉殿、そして上総と安房が従っておる。
ここが鎌倉と古河の違いよ。
鎌倉は攻められると、南が海なだけに行き場が限られる。
その上、相模と武蔵は上杉の領地じゃ。
古河は、ここが立ち行かぬなら下総や常陸に移れば良く、そこもいかぬなら上総、そして安房までは逃げられよう。
安房まで落ちたならもう終いじゃが、その前に巻き返せようぞ」
「巻き返せるかの?」
「上杉は自滅する」
「ほお?
そこの所も聞かせて欲しい」
「正しくは京の公方が、じゃな。
恩賞は兎角揉めるものよ。
結城合戦でわしが手柄を立てた時も、欲しかったもの全てを貰えた訳ではない。
じゃが、普広院様(足利義教)は恐ろしい御方で、不満は言わせなかった。
今の室町殿(足利義政)にそれは出来ぬ。
そして、わしの元にも帰順せよという書状が来ておる。
簗田殿や原殿の元にもじゃ。
さて、この者たちが全て帰順したとして、感状や所領安堵だけで足りるものかな?
余りにも手当たり次第に調略すると、互いの都合が合わぬ事が出て来よう」
「そこは関東管領がどうにかするのではないか?」
「出来るかな?
関東管領はまだ若い。
家宰どもは我が強い。
そして小山も宇都宮も名家じゃ。
長尾や太田ずれの指図を素直に聞くとも思えぬ。
戦は兎も角、領地をどうこうというのはな」
「悪八郎殿の言われる事、もっともじゃ。
じゃが、これには一つ条件がついておろう」
「入道殿、何を懸念しておられる?」
「それは上総と安房が寝返らねば、という条件付きじゃ。
悪八郎殿、もしも其方が転べば公方は終わる。
それは京の室町殿も認めるであろう。
乱を終わらせた功は其方のものとなる。
其方はその誘惑に勝てるか?」
「はっ! 話にもならん」
「そうか?」
「そうよ。
弟御(足利義視)一人御せぬ将軍にどれ程の事が出来よう。
確かにその威光をもって多くの大名諸将を帰順はさせられよう。
その後はどうする?
わしが見るに、今の室町殿は父の普広院様(足利義教)に遠く及ばぬ。
そして、わしが戦功第一ともなれば、周囲からそねまれようぞ。
坂東の裏切り者とな。
自分の事はさておいて、皆がそう言うだろう。
それを理由はわしは攻められ、領地を失いかねん。
武家とはそうしたものじゃ。
甲斐生まれの他所者のわしが一目置かれておるのは、今は坂東の為に働いておるからじゃ。
京の犬と見られたなら、危うい」
「老いたか?
昔の其方であれば、そういった手合いは打ち破ると申したのではないか?」
「ふふ、わしに上杉程の領地が有れば、それも面白いのお。
じゃが、今は別の楽しみの為に、坂東の者たちと争っている暇は無いのでな」
「別の楽しみじゃと?」
「知れた事。
我等は室町殿を相手にこれだけ長い事抗っておるのじゃ。
室町殿は長い事乱を鎮められずにいる。
その結果が京の大乱じゃ。
武家の本場は坂東なり。
その坂東が京に従っていてはつまらぬ。
坂東の乱れが天下を揺るがす。
そういう場面にわしは身を置いておるのじゃ。
こんな楽しみが他に有ろうか?
そうそう簡単に負けてはおられぬよ」
そう言うと信長は腰を上げた。
「これより本佐倉に参り、鎌倉殿と対面して来る。
入道殿も共に参られよ。
留守は倅と義兄上に任せる」
「グワッハハハ!
承知した。
天下の迷惑となる事を承知で、天下をかき回そうと言うその気概、嫌いじゃない。
右馬助などと名乗ろうが、悪八郎殿は悪八郎殿じゃ。
付き従おうぞ!」
これより武田信長の反撃が始まる。
おまけ:
「太郎、何故此処に?」
岩松家純は、彼の陣にやって来た嫡男・明純を見て驚いた。
岩松太郎明純は、引き続き京で将軍・足利義政に伺候していたのだが。
「上様より、下向して父を援けよと言われました」
「まあそうであろうが、それにしても書状の一つくらい……」
家純が文句を言おうとした時
「申し上げます、新田荘より使者が参りました」
と使い番がやって来た。
「何か急事でも起きたか?」
「はっ、京より御嫡男太郎殿下向との事です。
間もなく御着陣ゆえ、お知らせせよと松陰坊様より仰せつかりました」
「もうとっくに来ておるわ……」
坂東の戦場の不確定さで、何処に居るか分からないのはあっただろう。
だが、新田荘だけでなく五十子陣や、交通の便が良い東海道経由で複数の書状を送る等、方法はあった筈だ。
そうすれば、着陣よりもどれかは早く家純の元に知らせが届いただろう。
当主留守の新田荘では、結局転送する他しようが無い。
息子の手際の悪さに一抹の不安を覚える家純であった。




