あちらもこちらも思惑だらけ
平安時代末期の話である。
新羅三郎義光の孫・武田(逸見)清光には多数の男子がいた。
長男・逸見光長
次男・武田信義
さらに
遠光、義定、義遠がいた。
遠光は甲斐国巨麻郡加賀美郷に所領を得て、加賀美遠光と名乗る。
この加賀美遠光の次男・長光は甲斐国巨摩郡小笠原郷を得て小笠原長光と名乗った。
小笠原長光の運命はひょんな事から変わる。
源平合戦富士川の戦い。
武田家当主・信義から
「京都の出仕は切り上げて参戦しろ。
さもなくば領土は没収する」
と言われて、慌てて参集。
そして道に迷ってしまい、辿り着いたのが源頼朝の陣であった。
こうして小笠原氏は武田本家並に優遇される事となる。
応永二十五年(1418年)正月二十四日、将軍の弟・足利義嗣が死亡した。
足利義嗣は、父・義満存命中は何らかの思惑を持たされていたようだが、詳細は分からない。
だが義満死後、意外にも義持・義嗣兄弟は上手くいっていたようだ。
それでも足利義嗣は、征夷大将軍義持、鎌倉公方持氏と並ぶ官位を持つ足利家の人間で、ある種の不安要素であった。
関東で上杉禅秀の乱が起きた時、義嗣の側室が禅秀の娘であった事から、乱への関与が疑われた。
四代将軍足利義持は積極的保守主義者である。
武家・公家・寺社三界の頂点を目指した父と違い、「あるべき姿」への回帰を目指した。
あるべき姿とは、足利幕府の祖・尊氏の建武体制である。
京の将軍家、鎌倉公方家、その他地方の探題たちが国を分割統治し、政治は執権・侍所・政所の合議で行う。
朝廷や公家とは距離を置く。
父義満への上皇という尊号追贈を辞退というより拒否をした。
無論、尊氏以来の朝廷権益を奪う政策は継続してはいる。
父の対外的な「日本国王」という立場も否定する。
つまり明に対する臣従、冊封に入る事を拒否し、国交を断絶させた。
こういう政治を性急には行わず、待つべき時は待ちながら行う。
足利義持は待つ事が出来る政治家だった。
上杉禅秀の乱鎮圧から一年後、不安要素であり、禅秀の乱との関与疑惑のある弟・義嗣を死に追いやる。
足利義持には、建武体制を覆しかねない禅秀の乱は許せないものであった。
鎌倉府の枠をはみ出そうとする足利持氏も問題視しているが、それでも秩序そのものの破壊者に比べたら許す事が出来る。
そんな義持の元に、甲斐の武田信元が、禅秀の乱に関わった武田信長の子を養子にしたという報が入る。
義持は考える。
「確か、修理大夫(信元)には子がいなかったな」
義持は「黒衣の宰相」醍醐寺座主・満済に相談する。
この時期、死に追いやった義嗣の側近が
「斯波義教、細川満元、赤松義則らが共に挙兵する手筈だった」
と自供した事により、幕府内は混乱していた。
名が挙がった者たちは幕府の重鎮である。
「待てる」政治家・義持は軽々な判断こそしないが、それでも相談する相手を選ばざるを得ない状態となっている。
「左様。
修理大夫殿には実の子がおりませぬ。
今は、ですが」
「今は、か。
修理大夫は四十の半ばであったな。
まだ子が出来る事もあろうのお?」
「そうですな。
それまでは事を荒立てぬ方が良いかと存じます」
「うむ……」
義持は伊豆千代丸が武田信元の養子となった事を黙認する。
あくまでも黙認であり、公認を求める書状には「相成らぬ」と拒絶する。
一方で、かねてより小笠原政康から推薦されていた跡部明海を、正式に甲斐国守護代に任命した。
武田信元が子を成さぬまま没したら、嫡男伊豆千代丸の実父・武田信長が「後見役」として力を持とうとするだろう。
先んじて楔を打ち込んで置く。
「常陸国では、佐竹の当主と分家とが対立しております」
「まったく義光流はどうしてこう面倒事を増やすのか……」
武田(分家の逸見、穴山、大井ら)と佐竹(分家の山入、稲木、額田ら)は共に、八幡太郎義家の弟・新羅三郎源義光の子孫である。
この系統は他に、信濃の小笠原、奥州の南部、阿波の三好等がいる。
「佐竹の当主を継いだ上杉家からの入り婿に対し、分家筋がいまだに不満を漏らしておる由」
「その佐竹の当主が、先の乱(禅秀の乱)に与した分家の稲木某を討った。
それで他の分家が余に庇護を求めておる。
僧正、いかに思われる?」
足利義持は従一位・内大臣であり、一人称は「余」を使う。
「お心のままに。
乱の後始末も、慈悲を持って行わねば、乱が次なる乱を起こすとお思いと存じます。
それ以上は拙僧の口出す領分に御座いません」
義持は頷き、佐竹家分家・山入与義を京都の直臣、後に京都扶持衆と分類される武士とした。
このように応永二十四年以降、足利義持は上杉禅秀の乱の戦後処理と、やり過ぎる鎌倉公方足利持氏の後始末に奔走される。
自分の措置を無視し、強硬な処断をする鎌倉公方には、この後も悩まされ続ける。
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信濃の小笠原政康が、甲斐国への出兵を命じられたのは応永二十五年十月の事だった。
武田信元に対し、鎌倉公方と結んだ逸見派の領主たちが一揆を組み、反乱を起こしたのだ。
信元の穴山衆と信長の日一揆が鎮圧にあたる。
信長の同盟者・加藤梵玄の郡内衆は、甲府盆地を抑える逸見家本隊対策で残された。
この反乱が起きた甲斐国巨摩郡南部と下山という地は、甲斐の最南端に位置し、相模国と隣接する。
相模には鎌倉が在る。
つまり、鎌倉公方本拠地の近くであり、その影響を考えないわけにはいかない。
小笠原政康が援軍を命じられたのも、鎌倉公方・足利持氏への牽制という意味合いもあった。
京の意向を受けた小笠原勢が居る事で、鎌倉の介入を防ぐのだ。
小笠原政康は将軍の命に従う一方、既成事実作りの為、同族の跡部明海・景家親子を同行させ、甲斐に居座らせた。
「よし、攻めるぞ」
次期甲斐国主の父・武田信長はおもむろに配下の者たちに命じた。
「待たれよ、悪八郎殿!
ここは小笠原殿の到着を待って、大軍で攻めた方が……」
土屋景遠が唐突な出撃を命じた義弟を諫める。
「そうしたら、皆が手柄を立てられねえべや」
信長の言葉に、支持者の日一揆の者が沸き立つ。
「いや、同じ甲斐の武家であろう?
大軍で迫って、戦わずして下らさせた方が、余計な恨みを買わずに済むじゃろう?」
「そいたら、また何時背くか分からんじゃろ」
結局信長は手持ちの兵力で合戦に挑む。
この時期の合戦は、徒士による弓矢での射撃戦と、騎馬武者による打ち合いで行われていた。
畿内に比べ、築城技術が発展していなく、武士はともかく雑役の動員人数が少ない関東では、山岳地形でも城攻めでなく野戦になりがちであった。
集団戦でも、一個の部隊の規模は小さく、地形の起伏の関係で更に分散しての戦闘となりがちな為、将の勇猛さや武勇が勝敗に影響しやすい。
武田悪八郎信長は、個人の武力が高く、かつ勇猛な武士であった。
長巻を引っ提げ、石打ち(投石)や矢戦が一通り済むと、単騎突撃を行った。
「あ、待て!
……まったく……仕方が無い。
土屋衆、悪八郎殿を追うぞ!
押し出せ!!」
義弟を見捨てる事も出来ず、土屋景遠が手勢を引き連れて信長を追う。
指揮官の勇猛さに士気上がる日一揆は、そのまま突撃に移り、その勢いのまま南部・下山一揆衆に勝利した。
勝った日一揆は、この地の田畑から食糧を略奪し、村落を焼き、女を攫って引き揚げた。
「何を勝手に攻めて終わらせてるのだ!」
武田信元と小笠原政康が文句を言う。
南部・下山一帯は、河内地方に勢力を持つ穴山家領に隣接する。
本来なら穴山の衆に攻めさせ、近隣の縁で穏便に収めるものだ。
その辺は、穴山家に養子入りしていた信元は良く知っている。
「いやあ、お主たちが来るのが遅かったから」
「ちょい! 悪八郎殿!!」
義兄の制止もむなしく、喧嘩を売る信長。
もっとも信長としたら、勝手に守護代と称する跡部明海などを連れて甲斐入りした小笠原政康に対し、ナメられてはならない事情があった。
跡部、逸見、そしてそれぞれの後ろにいる小笠原や鎌倉公方も見据えているのだ。
……全方面に喧嘩を売る所業ではあるのだが。
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甲斐国巨摩郡南部と下山の反乱は武田信長なる者によって打ち破られた。
この報せは鎌倉の足利持氏にも届く。
「武田悪八郎信長と申したな……」
「はっ」
「討ち取った安芸守信満の倅だな。
父同様、鎌倉に矢を向けるか。
その名、覚えたぞ」
武田信長も足利持氏も、兵に重きを置き、敵対者に苛烈に接する。
要は似た者同士である。
似た者同士惹かれ合う場合もあり、強烈に反発する場合もある。
この似た者同士は敵対し合う宿命となった。
おまけ:
甲斐の恵林寺は臨済宗円覚寺派(当時。現在は臨済宗妙心寺派)の寺院である。
鎌倉時代の元徳二年(1330年)に開山し、関東準十刹の寺格を有する。
岩松家の土用松丸が出家させられた長楽寺も臨済宗の寺院である(当時。現在は天台宗)。
彼が亡命出来たのは、同宗派の縁が強かった。
土用松丸、改め源慶はこの地で武田家に保護される。
ところでこの時期の甲斐は、岩松家同様、上杉禅秀の乱の後遺症に苦しんでいた。
鎌倉公方派の逸見家、京の幕府派の守護代跡部家、そして武田宗家で争っている。
恵林寺のある辺りは跡部家の勢力圏で、鎌倉公方に逆らった岩松満純の子が安穏と出来る場所ではない。
だが、そんな状況で堂々と謀反人の子を保護したのは、この人ではなかろうか。
「よう参られた。
わしが武田悪八郎信長じゃ。
似たような境遇じゃのお。
まあ、大船に乗った気で過ごされるが良いぞ。
わしは山国育ちで、大船に乗った事は無いがな」
「岩松の若殿、こちらのは泥船ですから、油断をせず、浮かれる事なく修行にお励みなされ」
傍らの土屋景遠が義弟を制する。
とりあえず源慶はとりあえずの安住の地を得られた。