堀越奇襲作戦
応仁は僅か三年で文明と改元される。
戦乱を収める思いが込められていた。
なお、この文明年間(西暦で1469~1487年)は
・イングランドで薔薇戦争(1455~1487年)
・ブルゴーニュ戦争(1474~1477年)でブルゴーニュ公国滅亡(1482年)
・フィレンツェでロレンツォ・デ・メディチが僭主就任(1469~1491年)
・ワラキアでヴラド3世が暗殺される(1476年)
・スペインでトマス・トルケマダが異端審問所長官を勤める(1480~1498年)
と重なる。
あれ? この情報どこかで見たような? サツマ(以下略)?
古河公方陣営は、公方が居て、有力な味方大名が居るが、奉行人が居ない。
堀越公方陣営は、公方が居て、奉行人が居るが、有力な味方大名が居ない。
関東管領陣営は、公方が居ないが、奉行人が居て、有力な味方大名も居る。
堀越公方陣営の唯一の有力武将が、下野守・東常縁である。
下総千葉家の分家である彼が、利根川の東の古河公方勢力圏で孤軍奮闘していた。
だが武田信長によって副将の酒井定隆を調略され、更に包囲網を形成され、孤立の度合いを高めていた。
「窮鼠猫を嚙むという言葉も有る。
余り追い詰めるのも得策ではない。
東野洲にはご帰国頂こう」
武田信長が、千葉輔胤、原胤房に伝える。
分家して以降、東家は美濃の所領を持っていた。
その所領が、京で起きた応仁の乱で西軍(足利義視・山名宗全方)に着いた美濃守護代・斎藤妙椿に押領されたという。
西軍と古河公方は同盟を結んだ。
その縁と、先日までやはり美濃に所領を持っていた酒井定隆の伝手から、東氏所領失陥の情報を得た信長は、これを東常縁に教えてやった。
そして利害のある全員と、古河公方・足利成氏の承諾を得て
「今帰国するなら、追い討ちはしない。
兵や財を持って帰る事を認める。
但し、下総の占領地は放棄する事」
を申し入れた。
東常縁には渡りに船である。
申し出を呑むと、速やかに下総から退去し、美濃に向かった。
こうして堀越公方陣営は唯一の軍事力を失い、開店休業状態に陥る。
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さて、古河公方・足利成氏であるが、こちらは奉行人が居ない不利が徐々に出ていた。
有力大名が軍事・領地経営等はしてくれる。
だが、その下知は足利成氏が出す。
その他に彼は、京との交渉、自前の軍事力である奉公衆の整備、有力大名ではない中小の国人領主たちの統率、各地で起きた揉め事の仲裁等を自分一人で行っていた。
岩松京兆家で分家衆と岩松成兼が対立した際も、彼が仲裁に出向かざるを得なかった。
こんな感じなので、かつて太田庄合戦で勝利した後も、綱取原合戦で敗れた後も、自前の軍事力である奉公衆が消耗し切ってしまい、その立て直しに数年が掛かってしまうのだ。
逆に関東管領陣営は、その辺の役割分担が出来ていた。
堀越公方との両属的な形だが、岩松家純が各地の大名の調略を担当する。
扇谷上杉家家宰の太田資長が、当主不在の武蔵南部・相模の統率と、京との交渉を担当する。
かつては長尾景仲が、その死後は長尾景信といった山内上杉家家宰が、国人衆を統率し、動員数を常に維持する。
そして長尾景信の弟・長尾忠景と景信の嫡男・長尾景春が戦闘指揮を担当する。
ここの不安要素は、享徳の乱直後に関東管領が死亡、その後しばらく管領不在、神輿として立てた公方が逃亡、やっと立った関東管領も数年前に病死といった具合に、組織の長が不安定な事であった。
それだけでなく、山内、扇谷、四条、小山田、庁鼻和といった上杉家の当主たちも頻繁に討死したりして、当主不在の状態を作ってしまう。
こうなると、味方の士気は下がってしまう。
崩壊させる事無く組織を維持させている長尾・太田という家宰の手腕は素晴らしい。
「このままは良くないなあ」
図らずも、堀越公方陣営と関東管領陣営がそう考えた。
ほとんど一人で切り盛りしている古河公方・足利成氏だが、それなりに成果を残している。
西軍の将軍・足利義視と和睦・同盟を結んだ事で、古河公方陣営は室町殿の敵という立場を相対化させてしまった。
奉公衆が壊滅状態とは言え、相変わらず利根川より東の勢力圏は維持している。
現状、調略での切り崩しも阻止され続けていた。
一方、関東管領陣営では担ぐに足る神輿が必要となっていた。
大将である関東管領が元服したばかりの上杉顕定で、まだ若干十五歳に過ぎない。
他方、堀越公方陣営では京の将軍から任されているのに、開店休業状態なのをどうにかしたい。
こうなってしまったのは、関東執事として付けられた渋川義鏡が、鎌倉周辺の相模を手に入れようとして扇谷上杉家と対立、その与力武将たちを次々と讒言の末に隠居に追い込んで弱体化させたからだ。
扇谷上杉の当時の当主・上杉持朝は恨みに思い、古河公方と和睦して堀越公方を討とうとした程である。
こうして関東諸将の信頼を失った堀越公方は、伊豆から全く動けずにいる。
その為、後任の関東執事・上杉政憲は、関東管領陣営との和解を考えた。
元々堀越公方は、関東管領に担がれる為に下向したのだ。
渋川義鏡が変に張り切った為に混乱を生じさせた。
その渋川義鏡も失脚した。
堀越公方の奉行衆がおかしな野心を持たなければ、関東管領陣営との合体は可能なのだ。
この和解協議に、南方戦線を一人で受け持っていた扇谷上杉家家宰・太田資長は参加していない。
「わしは多くの者たちの無念もあり、顔を出すわけにはいかぬ」
かつて渋川義鏡によって失脚させられた大森、三浦、千葉宗家といった者たちは、扇谷上杉家の与力である。
更に彼の父・太田道真も渋川義鏡によって失脚した。
彼等の無念を他所に、その敵と手を組む事は難しい。
表向き、扇谷上杉はこれを認めないという芝居をし続ける必要があった。
代わって交渉は、山内上杉家家宰が行う。
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文明三年/享徳二十年(1471年)、状況は動く。
これより二年前、越後の留守を守っていた守護代・長尾頼景が死亡した。
越後守護・上杉房定は国元に不安を感じる。
そして間者の報告によると、文明三年には上杉房定は五十子の陣に不在となっていた。
嫡男・上杉定昌を山内上杉家本拠・平井城に残し、彼自身は越後に帰ったのだ。
享徳の乱初期から上杉軍の有力武将として戦っていた男が居なくなった。
そして、どうもこの時期、太田資長が江戸城に居ない。
上洛しているようだ。
帝の覚えもめでたく、和歌の才を将軍・足利義政からも評価されている太田資長は、将軍との連絡や文化人の招聘の為に京外交には欠かせない。
不在を悟られたくは無かったが、すぐに察知された。
「今が好機だろう」
堀越公方と関東管領の和解も進んでいる。
このままでは、二つの陣営が合体する。
その前に堀越公方を撃破したい。
京の将軍・足利義政は、応仁の乱(現在は文明年間に突入したが)を収められずにいたが、それでも関東には相変わらず手を突っ込んで来る。
多数の内応を呼び掛ける書状を、各地の大名に送っていた。
綱取原合戦で敗れて三年、兵を動かさない古河公方に不安を感じ、将軍の呼び掛けに応じている大名も出始めているという。
自前の兵力・奉公衆の再編も出来て来た事だし、ここらで軍事行動に打って出て、古河公方健在である事を内外に示さねばなるまい。
であるなら、何処を攻めようか?
北に上杉房定が居なく、南に太田資長が居ない。
五十子陣は堅固だが、堀越御所には守る兵もろくに居ない。
足利成氏は博打に出た。
古河より一気に武蔵・相模を突っ切って、伊豆の堀越を急襲する作戦に打って出た。
小山持政、結城氏朝、千葉輔胤の軍勢と共に、太田資長不在の武蔵を通過し、箱根を越えた。
博打は途中まで成功する。
意表を突かれた足利政知・上杉政憲は方々に援軍要請をする。
彼等の手持ちの兵力は極端に少ない。
上杉政憲の外孫である駿河の小鹿範満が駆け付けてくれた。
小鹿氏は、今川家の家督問題の時に産まれた分家である。
駿河今川家四代目当主・今川範政が死ぬ時、それまでの嫡男彦五郎を強制的に出家させ、産まれたばかりの千代秋丸を当主にしようとした。
この裏には「実は彦五郎は今川範政の実子ではないのでは?」という噂があった。
結局、彦五郎が家督を継承して今川範忠となり、現今川家当主はその子の今川義忠である。
一方、今川範政の実子・千代秋丸は分家を立て、小鹿範頼と名乗った。
その小鹿範頼に、上杉政憲は娘を嫁がせている。
小鹿範頼の母も、扇谷上杉家の娘であり、上杉家としては現今川本家よりも、小鹿家の方に親しみを感じていた。
駿河に関東も絡む揉め事が起こるのはこれより後だが、そう遠くも無い。
話を戻す。
小鹿範満の援軍を得た堀越公方軍は、伊豆三島に防衛線を敷く。
ここで古河公方の遠征軍を迎え撃った。
それでも堀越公方軍不利である。
足利政知は敗北を覚悟し、堀越を捨てて駿河に落ちる事を考え始めた。
そこで戦況は変わる。
あと少しで勝つ、そこに新手の軍勢が出現した。
山内上杉家の被官の矢野入道率いる軍勢が、古河公方軍の背後から襲い掛かった。
堀越公方と関東管領の和解交渉の成果が現れたのだ。
攻勢が鈍った古河公方軍と、援軍に勢いづく堀越公方軍。
堀越公方軍が反撃に転じ、古河公方軍先鋒の小山・結城勢は打ち破られてしまった。
足利成氏は敗北を認め、箱根を越えて撤退する。
だが、ここにも上杉軍が待ち構えていた。
関東管領・上杉顕定が派遣した宇佐美孝忠率いる五千騎が、退却中の古河公方軍に襲い掛かる。
千葉、小山、結城の軍勢は散々に打ち破られ、多大な被害を出した。
足利成氏は何とか古河城に辿り着く。
上杉軍はそこへも攻撃を加える。
長尾景信・景忠・景春の部隊が下野児玉塚(栃木)まで侵攻。
「公方様!」
不安がる側近たちに、成氏は言った。
「まだ慌てる時分じゃない」
長尾軍が布陣した児玉塚の近くには佐野氏が居た。
鎌倉時代の有名な逸話「鉢の木」の佐野氏である。
ここは今は亡き岩松持国が古河公方方から関東管領方に寝返った時、一緒に寝返った。
筈だった。
実際には佐野氏は分裂していた。
足利成氏は、その分裂した一部を、いまだに味方に付けていたのだ。
味方になると申し出た佐野氏が、長尾軍布陣と共に急に佐野城に立て籠もる。
「これは、まんまと騙されましたな」
長尾景忠が兄に言う。
「父上、構う事はありませぬ。
佐野如きは無視をして、古河を攻めましょうぞ」
そう言う長尾景春を嗜め、長尾景信は撤退を決めた。
「佐野城は岩松治部殿(家純)に任せよう。
古河公方は威信を大いに落としてしまった。
もう長くはあるまい。
古河は改めて攻め直すとしよう」
かくして古河城落城は免れる。
だが、長尾景信が言った通り、古河公方の権威は墜ち、存亡の時を迎えようとしていた。
おまけ:
「時は来た」
岩松家純と横瀬国繫は、新田金山城に籠る岩松成兼を攻める。
「御仏の御加護を」
松陰坊が祈る。
幾ら乱世で人死にに抵抗が無い時代とは言え、殺生を嫌う(筈の)坊主が祈る合戦、
実に人死にが無く終わった。
岩松家純が押し寄せると、周囲の国人、分家衆、そして城兵までが寝返る。
古河公方の威光が無いと、こんな有り様であった。
岩松成兼は、家純の軍が着く前に城を放棄して何処かへ逃亡した。
こうしてついに、新田岩松家は統一されたのであった。