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政争と暗殺の時間

寛正三年(1462年)、伊達持宗上洛。

足利義政「伊達兵部少輔、其方には関東……」

伊達持宗「公方様におかれましては、ご機嫌麗しく、真に喜ばしき限りに存知奉ります!」

義政「先に出した余の教書に従い関東に……」

持宗「いやあ、これは見事な御所に御座いますなあ。

 手がけた方の趣味の良さが垣間見えるようで御座います」

義政「そ、そうか?

 それは良いが、其方には……」

持宗「これは些少ながら、奥州で採れた砂に御座います。

 山吹色の砂、三万疋相当で御座います。

 庭園等をお造り際にはお役立て下され」

義政「お、おう、忝い」

持宗「それではこれにて、伊達兵部少輔お暇いたします!」


こうして伊達持宗は室町御所を辞す。

「殿、御守備は?」

「おう!

 案の定、芸術を褒めたら嬉しそうにされていたわ。

 砂金も安くは無いが、行っても何の実入りも無い関東の戦に駆り出されるのに比べ、安い安い」


かくして伊達持宗は享徳の乱への参戦を回避した。

 太田庄合戦は足利成氏方勝利の筈である。

 だが、上杉方も自軍の勝利を主張する。

 京の将軍足利義政も、関東管領方勝利という形で恩賞・感状を発給している。

 確かに被害は大きいが、それと勝ち負けは別だ。


 足利成氏の立場で見るなら

・上杉方は上杉教房をはじめ、多くの敵将の首を挙げた

・岩松持国まで合流した大軍を撃退した

・古河城は落とされなかった

 となる。


 一方で上杉軍の立場で見るなら

・五十子陣に迫らせなかった

・岩松持国との合流に成功した

・寡兵の古河公方軍に多大な損害を与えた

 となる。


 つまり、両軍とも古河城・五十子陣という敵本拠地に迫る事も出来ず、この後当分大規模な軍事作戦が不可能になる大損害を被ったのだ。

 三ヶ所の戦場で戦術的勝利を収めたものの、足利成氏軍の被害の方が回復困難な傷であった。


 足利成氏の強さ、それは一戦場に叩きつける兵力が多いというものだ。

 総動員兵力が少ないのに、一戦場での投入兵力が多いということは、

 毎回毎回全力でぶん殴っていて後先を考えないようなものである。

 それをほとんど休み無しで、二日で三合戦なんてしたら消耗してしまう。


 逆に上杉軍には上方からの援軍が続々到着する予定である。

 関東管領に味方する国人領主も多いし、京からの加勢も見込める。

 一戦場での兵力で、時に足利成氏に劣るものの、総兵力が多いから何度戦場で負けても勢力は衰えない。

 一方の、足利成氏は孤軍であり、今居る味方以外の当てはない。

 足利成氏が戦力回復まで軍事行動を控えるようになった為、これより後に「五十子の対陣」と呼ばれる睨み合いが始まる。


 これまでの合戦は、全て古河公方と関東管領の合戦であった。

 京より派遣され、伊豆から動けずにいる堀越公方は蚊帳の外である。

 だが、この堀越公方の執事・渋川義鏡が暗躍する事で、この享徳の乱は混沌とし始める。


 渋川義鏡は、北関東の五十子陣とは別の戦場である南関東に、叔父である渋川俊詮を派遣した。

 そして下総で戦い続けている同じく幕府奉公衆の(とう)常縁(つねより)と共に、古河方の千葉輔胤(岩橋輔胤)の勢力と対峙する。

 共に、とは言っても東常縁は既に亥鼻城を落とし、本佐倉城に籠城した千葉輔胤を追って戦っている。

 本佐倉城は南方が崖となっている丘陵上に在り、東西北は湿地帯という要害であった。

 東常縁も攻めあぐねている。


 渋川俊詮は東常縁や、江戸城の太田資長とも行動を別にし、武蔵国浅草に布陣していた。

 そして、何も為す事無く病没する。

 堀越公方、京の代理人たちは関東では人気が無く、渋川俊詮の病死に鶴岡八幡宮僧珎祐は

「伊予守(渋川俊詮)が死んだのは、八幡宮の仏事を執り行わなかった為で自業自得である」

 等と記していた。


 更に堀越公方には都合の悪い事が起こる。

 鎌倉を長年占領していた今川範忠が兵を引き上げたのだ。


 今川家の隣国・遠江国は、かつては今川家が守護を兼任していた。

 だが、四代将軍・足利持氏は遠江守護を斯波家に代える。

 その斯波家は、越前で守護代甲斐常治と当主との間で内輪揉めを起こしてしまった。

 これを狙って、今川範将が反乱を起こし、当地の斯波氏・狩野氏と合戦に及ぶ。

 この合戦が大規模になって来た為、今川範忠も箱根を越えた鎌倉に居続けられなくなったのだ。

 更に、今川範忠自身も体調を崩して、療養を必要としている。

 人生五十年の時代、今川範忠は既に五十二歳、立派な老人である。

 還暦を迎えるのに血気盛んな武田信長や、それより年長なのに鉄棒持って戦場に出る加藤梵玄のような者は稀なのだ。


 軍事的には渋川俊詮を失い、今川範忠が帰国して弱体化する。

 政治的には伊豆から動けない上に、援軍予定の斯波家の軍も、奥州の伊達も動かず相手にされていない。

「誰が鎌倉府の公方と執事なのか、関東の田舎者に思い知らせてやろう!」

 関東執事・渋川義鏡がこうなってしまったのも、やむを得ない所がある。

 問題はこの鬱屈のぶつけ先が、古河公方ではなく関東管領上杉家に向かった事であった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 岩松家純・横瀬国繫は、各地の武将の調略に勤しんでいる。

 足利義政も、武田信長の勢力圏・上総国の飯香岡八幡宮に多額の御営金を寄付し、本殿修復の費用とさせる。

 足利義政は、武田信長に対しある時は厳しく叱責の書状を送り、ある時は岩松家純を通じて現在の領土を安堵すると約束し、またある時はこのように宗教的にも懐柔を図る等、硬軟織り交ぜて取り込みに必死になっていた。

 上総の武田信長が転べば、婿で安房を支配しつつある里見義実も味方に出来て、南方を気にする必要が無くなった東常縁も安心して本佐倉の千葉輔胤を攻められる。

 房総三国を調略出来れば、足利成氏をいよいよ北関東に追い詰められる。

 足利義政の戦略眼はまともなのだ。


 だが武田信長と里見義実は転ばない。

 説得に頑として応じない。

 そして軍事的に動けない足利成氏も、上杉方に対し調略を行う。

 双方ともに相手を切り崩しに掛かっていたし、味方を固めようとしていた。


「小山殿が鎌倉殿の兄だとか……。

 なんでわしにも兄と言ってくれぬのかのお?」

「爺ぃ、いい加減に自重しろ!

 還暦迎えた爺ぃが、二十代の公方様の兄な訳があるか!」

 武田信長と土屋景遠の掛け合いも変わらない。

 武田信長に対しては、足利成氏も好き勝手にやらせている。

 これが成氏なりの信頼であり、クドクドした命令を嫌う信長の望む所であった。


 人心掌握も出来る足利成氏は、自分を裏切った岩松持国を再度味方に引き込もうとする。

 太田庄合戦で成氏の強さを見せつけられた持国は、次第に裏切った事を後悔し始めていた。

 成氏はそんな持国を許し、領土安堵を申し出る。


 自分の目の前で、また古河方に転びそうな岩松京兆家を、岩松礼部家の家純は冷ややかな目で眺めていた。

 調略担当の将が、相手の調略に気づかない筈が無い。

 岩松家純は冷酷に時を待っていた。


 足利成氏陣営も切り崩されかけている。

 代々の鎌倉公方方大名・結城家が、上方の調略に応じ始めていた。

 かつて岩松家純の父・岩松満純が上杉禅秀の乱に連座して滅亡した後、家純の祖父に当たる岩松満国は鎌倉府の重鎮・結城入道基光に頼み込んで赦免の口添えをして貰った。

 その基光の孫が、現当主・結城成朝である。

 強力な入間川流足利家の与党である結城家だが、岩松家純は縁があり、そこから少しずつ切り崩していた。


 京で飢饉が発生し、それをきっかけに長禄は寛正と改元された。

 もう「兵乱を鎮める」という理由は使えない。

 京が康正、長禄、寛正と改元し続ける中、古河公方陣営では相変わらず享徳を使い続けている。

 この寛正元年/享徳九年(1460年)は、工作の年であった。

 両陣営共に、表立っては動かない。

 水面下では激しい攻防を繰り広げていたのだが。

 そして古河公方・関東管領に加え、堀越公方も含めた政争は、翌寛正二年/享徳十年(1461年)から一気に火を噴く。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 まず堀越公方の関東執事の一人、犬懸上杉教朝が急死する。

 突然の死であった。


 次いで、やはり突如、扇谷上杉持朝の相模守護職が停止される。

 翌寛正三年には、扇谷上杉持朝謀反の噂が広まり、持朝は苦しい立場に追い込まれる。

 それに伴い、相模国の三浦時高、大森氏頼が急遽隠居を命じられる。

 両者とも扇谷上杉家の縁者である。

 更に武蔵国でも扇谷上杉家家宰・太田資清が隠居させられ、下総を追われて武蔵国で活動していた千葉宗家の千葉実胤も隠居に追い込まれた。

 千葉実胤はまだ二十歳に過ぎないのに、明らかに不自然だ。


 そして遠く越前でも政変が起こる。

 将軍・足利義政の命に従わず、内戦に明け暮れた斯波武衛家で、突如当主の松王丸が廃された。

 斯波家の長禄合戦は、足利義政の裁定に従わず、当主・斯波義敏は守護代・甲斐常治を攻め続ける。

 義政は激怒し、若狭の武田信賢、越中の神保長誠、加賀の富樫成春に斯波義敏成敗の命令を出す。

 斯波義敏は逃亡し、嫡男の松王丸を当主とする事で決着した、筈だった。

 それが突如廃されて、渋川義鏡の子が斯波義廉として武衛家を継いでしまった。


 一連の事件は、全て渋川義鏡に繋がっている。

 彼にとって、もう一人の関東執事は邪魔であった。

 まして、上杉家の一族など油断もならない。


 そして相模国鎌倉に入り、そこで政治をする事で足利政知は「堀越公方」等でなく正規の「鎌倉公方」となれよう。

 その相模で勢力を持つ扇谷上杉とその縁者どもは排除するまで。

 今は古河にいる足利成氏とて、扇谷上杉とその家宰が相模で力を持たねば、乱など起こさなかったかもしれない。

 鎌倉を抑える上で、扇谷上杉は邪魔なのだ。


 そして今川範忠が寛正二年に病没している。

 今川の軍勢を頼れない以上、斯波家の軍に頼る他無い。

 その斯波家が言う事を聞かないから、自分のものにしてしまえ。


 渋川義鏡の策謀の裏には、将軍・足利義政が居た。

 諸兄・足利政知が鎌倉入りをしようとした時、義政は「軽率である」と注意する。

 これは渋川義鏡による工作の最中であり「もう少し待て」という意味であった。

 また、扇谷上杉持朝に対し

「動向に疑問がある。

 釈明せよ」

 と言って、謀反の噂による立場弱体化を推し進めた。

 このように、足利義政は渋川義鏡と協調し、お互い勢力の強化を行おうとしたのだった。


 だが、これは強引に過ぎ、性急に過ぎた。

 上杉家は細川勝元と繋がっている。

 三管領・畠山家の家督問題で義政の怒りを買い、勢力を弱めた細川勝元であったから、復権の機会を虎視眈々と狙っていた。

 そこに関東で、渋川義鏡が上杉家を狙う討つ策謀を巡らし、困っているという苦情が入る。

 政敵の失策に付け込むのは、政争の常道である。

 細川勝元は渋川義鏡の非を鳴らす。

 上杉、太田、三浦、大森、千葉といって関東諸家からも渋川義鏡に対する苦情が来ている。

 斯波家に対する強引な干渉も、渋川義鏡に対する反感を強めていた。


 足利義政は政争に敗北する。

 渋川義鏡を関東執事から解任した。

 強いられての事である。

 これを境に、徐々に足利義政の権力は弱まっていくのだった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 堀越公方と関東管領の争いに、古河公方・足利成氏は乗じる事が出来なかった。

 本当は乗じたかった。

 だが、岩松家純によって妨げられる。


 まず、再調略によって寝返りが確実であった岩松持国が暗殺された。

 息子の二郎も共に消された。

 岩松家純と横瀬国繫によって、先手を打たれたのである。

「これで、新田岩松家は殿のものになりましたな」

 岩松満純が上杉禅秀の乱に連座して死亡後、その子である家純は長い事追放の憂き目に遭っていた。

 近江に所領を得て、礼部家(治部大輔)を立てたものの、本願は従兄弟に継承されてしまった新田荘の奪還である。


「まだだ。

 まだ古河公方の元に三郎成兼が居る。

 あ奴を倒さねば、岩松家は一統とならぬ」

 気を抜かない岩松家純。


 そして、岩松家純が進めた工作により、ついに結城成朝が寝返ろうとしていた。


 だが、これは未遂に終わる。


 大雪の日、結城成朝は家老の多賀谷高経に雪打ち(雪合戦)遊びに誘われる。

 そして、中に石の入った雪玉、一回水に浸してから凍らせた雪玉、更には投げ槍の要領で投擲された氷柱の集中攻撃を受けて暗殺される。

 勇猛な結城成朝も、超高速で回避するような超生物芸(ヌルフフフ)は出来なかった。


 多賀谷高経は、享徳の乱開戦の西御門邸の変で、当時の関東管領・上杉憲忠を直接討ち取った男である。

 結城家が上杉家に寝返ると、和睦の証として直接手を下した自分が売られるかもしれない。

 先んじて結城成朝を結城打ちにしたのだった。


 かくして敵中に打った手は潰され、最有力な味方の一人を失って、その家督問題を処理する事となった足利成氏は、折角の関東管領・堀越公方政争に乗じる事が出来なかったのである。


 こんな中、上総の武田信長は、嫡男・信高を庁南城に呼び出す。

「わし、来年で隠居するから、そのつもりでね」

 寝耳に水の発言であった。

おまけ:

里見義実は東条家討伐の軍を発した。

安西景春を先陣に、東条館(鴨川)を攻める。

東条常政は奇襲を交わし、奥の金山城に逃げ延びる。

東条定政は捕縛され、里見義実の前に引き摺り出された。

「東条は足利にも上杉にも味方をしておらぬ!

 それなのに、何故我等を攻めるのか?」

里見義実は答える。

「其方たちがどさくさ紛れに山下、神余、丸の所領を押領したのに理由等有ったのか?」

「里見左馬助、一体どれ程強欲なのだ!」

「城も欲しい! 将も欲しい! 地位も名誉も、安房の全てが欲しい!!」

この強欲こそ、安房里見氏の今後の活躍に繋がっていく。

安房平定戦は、金山城に籠った東条常政を倒すのみとなった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 足利成氏推しとしては本編での活躍を楽しみに拝読しておりますが、おまけの下りもすごく面白いです。
[一言] >>中に石の入った雪玉、一回水に浸してから凍らせた雪玉、更には投げ槍の要領で投擲された氷柱の集中攻撃を受けて暗殺される。 遊び心に満ちすぎてませんかね…
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