太田庄の戦い
嘉吉三年(1443年)、禁闕の変で、三種の神器の「神璽」は後南朝に持ち去られていた。
そんな後南朝に、足利義教を暗殺し、潰された赤松家が接触する。
「我々には最早行く場所が無いのです」
康正二年(1456年)、赤松残党は後南朝に合流した。
それから一年半後、赤松遺臣たちは後南朝を急襲する。
一の宮「自天王」と二の宮「忠義王」を殺害。
そして自天王の母の屋敷を襲い、神璽を奪還した。
三種の神器を取り戻す事に成功した赤丸家は復興を許される。
足利義政は、自分に対し優越していた朝廷に対し借りを作れる事を喜ぶ。
その裏で、赤松家の所領を奪っていた山名宗全と、その養女を妻としながらも、次第に山名家の力を削ごうと考え、赤松家を支援する「政争魔人」細川勝元との対立が始まろうとしていたのに気づく事も無く……。
二十年近く足利成氏を支え続けた上野国の岩松持国が上杉方に寝返った。
これは足利成氏には衝撃で、関東管領方には大戦果となる。
だが上杉勢は攻撃に出て来ない。
幾ら寝返ったとは言え、岩松持国は上野国の所領に居た為、彼の戦力が五十子陣に参加するまでには時間が掛かる。
それに上杉家は、腰越公方となった足利政知について京から下向した渋川義鏡との間で、政争を繰り広げている。
目の前の古河城を攻める余裕が無かったのだ。
そこで足利成氏は、政治的に巻き返しに出る。
この辺り、敵の政治に対して味方を恐怖で支配しようとした、父・足利持氏とは違っていた。
成氏は、岩松持国同様に長年彼を支える下野国の大領主・小山持政を繋ぎ留めようとする。
成氏は小山持政と「義兄弟の契り」を交わす。
これにより忠義を更に深めた小山持政は、再三の京方、上杉方からの帰参の呼び掛けを拒絶し、成氏方の将として活躍し続ける。
成氏は信濃にも手を伸ばす。
信濃守護小笠原家は、京の管領の政争に巻き込まれる形で分裂状態にあった。
そこで成氏は、北信濃の国人領主・高梨政高と手を組む。
当時、小笠原家の混乱に伴い、将軍・足利義政は越後守護・上杉房定に信濃北半国守護を兼任させていた。
高梨氏はこれに反発する。
享徳八年/長禄三年(1459年)、家督を継いだばかりの高梨政高に、上杉の敵である足利成氏が同盟を持ち掛けた。
高梨政高はこれに応じる。
北信濃には既に成氏方の村上政清も居た為、村上・高梨の連合が成立し、反上杉勢力圏が出来上がった。
また、かつて小栗城の戦いの際に嫡男を失い、戦線放棄した常陸の小田持家の呼び戻しにも成功する。
十歳になった持家の嫡孫・亀房丸に、自身の一字を与えた。
小田太郎成治の元服をもって、小田持家は戦線復帰。
常陸の上杉方、佐竹実定との戦いに挑む。
こうして政治的な行動によって身内の結束を固めると、成氏は上杉方攻撃に転じた。
この武断的な性格は、やはり父譲りと言えよう。
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関東管領山内上杉房顕は、五十子に扇谷上杉持朝、越後上杉房定、犬懸上杉教房、四条上杉政藤といった上杉家一門を結集させていた。
更に越後から色部、毛利、本庄など八家、上野から神保、長野、小幡など十二家、武蔵から四家、その他十一家が参集し、布陣している。
大軍である。
だが、足利成氏は危機とは思わなかった。
「これは、一気に決着をつける好機である」
成氏軍は利根川を越えて進軍。
上杉方から奪取した騎西城に入る。
成氏軍動くという報を聞き、上杉軍も動く。
京よりの援軍である上杉教房、政藤父子が五十子陣を出撃し、雲祥寺に本陣を置く。
十月十四日、示し合わせたかのように成氏軍は騎西城を、上杉軍は雲祥寺を出陣。
広域戦闘である太田庄合戦が始まった。
太田庄は鎌倉公方直轄地である。
武蔵国北部に拡がる広大な荘園で、北は上野国佐貫荘、東は下河辺庄(春日部)、西は村岡郷(熊谷)に及ぶ。
この広い太田庄の中で、まず合下合戦が起こった。
やはり足利成氏勢は猛威を振るう。
「大石石見守殿、お討ち死に!」
「浅羽下総守殿、御最期!」
「神保丹後守殿、討ち取られました!」
「三潴弾正殿、奮戦空しく……」
大石は上杉家が守護する国の守護代を勤める家。
浅羽は武蔵七党の一家。
神保は、三管領畠山家に仕える守護代神保家の一門で、発祥の地・上野国神保に残った家。
三潴は越後の国人で、上杉房定に従って武蔵まで来た家。
出自は様々な武将たちが、次々と成氏勢によって討ち取られる。
そして、大将・上杉中務少輔教房も不覚を取る。
「しまった、公方様の御内書が!」
御壇塚に馬を進めた時、肌身離さず持っていた将軍・足利義政が出した成氏討伐の内書を落としてしまう。
「そんなものに拘りなさるな!」
息子の上杉三郎政藤が、下馬して拾おうとする父を怒鳴りつけた。
「そんな物なのではない。
これ有る限り正統性は我等にあるのだぞ…………」
直後、上杉教房の声が消える。
政藤が見ると、そこには書状を拾おうとして、首を傾けた時に開いてしまった錣の隙間に、矢が貫通した父が居た。
「父上!」
「若殿!
最早これまでです。
疾く兵をお退きあれ。
中務少輔様(教房)の事は残念なれど、このままでは若殿まで討たれますぞ!」
こうして大将上杉教房が討ち死にして、太田荘合下合戦は成氏方の勝利に終わる。
だが戦闘は終わらない。
騎西城に帰営した成氏の元を、とある武士が訪ねて来る。
「何者か?」
「新田左京大夫岩松持国が倅、岩松三郎成兼に御座います。
火急の用有りて、公方様の御前に罷り越しました。
どうか、お目通りの許可を!」
裏切り者岩松持国の子の訪問を訝る成氏。
だが、この岩松成兼は一字を拝領した成氏を裏切るつもりはなく、父とは袂を分かって来たと言う。
そして急報を告げた。
「父・岩松左京(持国)、京よりの将軍名代・岩松礼部(家純)が揃って、関東管領に合流すべく新田荘を出陣しました」
「なんと!」
「関東管領と岩松の軍は合流後、古河城に向かいます。
こちらの軍は、半分囮で御座います」
岩松成兼は、父や兄のように関東管領に寝返ったと見せかけ、岩松勢が出陣する時に共に城を出ると、途中で岩松勢から抜け出して古河に駆け付けたという。
「よう報せた!
恩賞を取らせる。
まずは左京亮の称号を与えよう。
他は勝って戻って後じゃ!」
休む間も無く、足利成氏の軍勢は騎西城を夜半密かに出陣。
利根川を渡り、上野国佐貫郡羽継原に布陣する。
翌十月十五日朝、関東管領上杉房顕と越後守護上杉房定は、信じられない光景を目にする。
「何故、古河公方めがここに居るのだ?」
前日、騎西城の南の河原で合戦をしていた足利成氏が、利根川を渡った北側、上野国で目の前に居る。
しかも慌てて駆け付けたのではなく、整然と陣を敷いて待ち構えていたのだ。
「懸かれ!!」
足利成氏の命令一下、奉公衆が関東管領軍に襲い掛かる。
成氏勢は連日の戦闘で疲れていた。
しかし、意表を突かれた上杉軍が、混乱から立ち直る前に可能な限り押しまくり、突き崩す。
このまま勝利かと思われた。
「申し上げます。
岩松勢、こちらを目指して進んで来ます」
それは成氏、上杉両軍に同じ内容で伝えられた。
関東管領軍は息を吹き返す。
「岩松勢には構うな!
押して、押して、押しまくれ!」
成氏は攻めを強める。
それに耐える上杉軍。
「殿、ここはわしが死にましょう」
岩松家純に新規で仕えた小野貞国が申し出た。
岩松家純には先に広瀬氏が仕えていた。
それに対し、後から仕えた小野氏とは諍いを起こしている。
小野氏は手柄を立てて、自分の立場を作らねばならない。
「父上……」
「新六郎(国繫)、一族を頼むぞ」
小野貞国率いる少数の決死隊が成氏軍に横撃を掛ける。
この猛攻で成氏軍の足が止まった隙に、上杉軍は撤退に成功した。
そして小野貞国は戦死する。
「まだまだじゃ。
古河城に使いを出せ。
飯を運ばせて来い。
もう一戦するぞ!」
成氏の闘志は衰えない。
それに引き摺られるように、鎌倉公方の奉公衆は、食事と少しの休憩で進撃を開始した。
十月十五日夕方、羽継原より西に行った海老瀬。
ここに集結した上杉・岩松連合軍に成氏軍が襲い掛かる。
「何という凄まじき猛将よ。
ここまで執念深いとは思わなかった」
昨日から戦いづめで疲労は最高潮に達している筈だ。
それなのに、興奮状態に在って感じないのか?
大軍の筈の上杉・岩松連合軍を、成氏軍が突き崩した。
「退け! 退け!」
「五十子の陣まで駆けよ!」
「五十子で立て直しじゃ!」
ついに関東管領・上杉房顕は、古河城攻撃を諦め、遥か手前で撤退を決めた。
合下・羽継原・海老瀬という一連の太田荘合戦で、上杉軍は多くの将を失ってしまった。
岩松持国の子、二郎も手傷を負ってしまう。
上杉軍の損害大きく、暫くは巨大城郭・五十子陣に籠って、守り戦うより仕方なくなる。
一方の足利成氏勢も、二日に渡る激戦で、二千騎を失う大きな被害を受けてしまった。
成氏軍にも五十子陣を攻める余力はもう無い。
足利成氏もこれ以上の攻勢を諦め、古河城に兵を引く。
両軍大きな被害の為、野戦には出られなくなった。
両軍、これよりは陣地戦に移行となった。
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太田庄の戦いで多くの犠牲が出た事で、京の足利義政は愕然とした。
彼に仕えた四条上杉家の上杉教房も死亡したという。
だが、衝撃を受けてばかりはいられない。
討ち死にした者、功を立てた者に対し、感状を発給する。
岩松持国には、成氏を裏切って味方した事を「神妙である」とし、太刀を一振り贈った。
と同時に
「御子息三郎殿の進退の事、礼部(家純)より承り驚き入り候」
と、岩松成兼が足利成氏に再度寝返った事について釘を刺したりもする。
陣地に拠る防御戦は、同時に政治戦も行われる事になる。
ただ陣地に引き籠るだけでは、敵に味方を調略される隙を与えるだけとなろう。
足利成氏は古河御所で、足利政知は伊豆堀越で、足利義政は京で、上杉房顕は五十子陣で恩賞を与え、感状を発給し、敵には寝返りを呼び掛ける。
岩松家純の家臣・小野国繫は、父の討死を賞賛されて新田荘横瀬郷を恩賞として賜る。
これ以降彼等一族は、横瀬氏と名乗りを改める。
その横瀬国繫に主君が語り掛けた。
「公方様よりの命令じゃ。
この者たちを調略せねばならぬ」
将軍・足利義政の代理人として関東諸将の調略を担う岩松家純の元には、軍勢催促という名目で調略対象者の一覧が送られて来ていた。
・下野国 宇都宮四郎(明綱)
・下野国 小山下野守(持政)
・下野国 那須越後守(資持)
・下野国 那須大膳大夫(氏資)
・下野国 佐野伯耆守(盛綱)
・下野国 芳賀伊賀守(成高)
そして
・上総国 武田右馬助
であった。
おまけ:
安房国長挟郡の国人・東条家は源頼朝の安房上陸以来の武家である。
源頼朝が石橋山で敗れた頃、長挟郡の支配者は平家の家人・長挟氏であった。
故に長挟氏は、頼朝の有力御家人・三浦一族と東条郷の東条氏によって滅ぼされる。
三浦氏の衰退後は、東条氏は北条一門の名越流や極楽寺流の家人となって生き延びる。
小松原で日蓮を襲ったのも、ここの一族の東条景信であった。
享徳年間、東条家の当主は東条七郎左衛門常政と言う。
常政は、同族の東条定政と共に、安西氏と丸氏の合戦に介入、丸信朝を討ち取りその領土を押領した。
東条氏はこのように、山下氏の下剋上時も上手く立ち回り、神余家・山下家の領土を奪い取っていた。
この東条氏が里見義実の安房攻略最後の敵となる。