調略の時間
武田信長の実家、甲斐武田家を見る。
信長の兄で第十四代当主・武田信重の子、武田信守の家督期間は五年余りであった。
宝徳二年(1450年)に父の死により家督を継ぎ、康正元年(1455年)には没した。
その後は僅か九歳の伊豆千代丸が第十六代武田家当主となる。
当主が幼少なのは守護代跡部家には都合が良い。
専横が更に強まる。
だが、伊豆千代丸には祖父・信重が作り上げた家臣団という遺産があった。
三年後、元服して武田五郎信昌となると、彼はついに跡部家に対し反撃に出た。
……十二歳の子の遺志というより、家臣団の遺志だったのだろうが。
征夷大将軍足利義政は、軍事の人でなく政治の人である。
坂東で発生し二年経過しても終わる気配の無い享徳の乱に、本腰を入れて対策する事とした。
ただし、政治的に。
足利義政はこれまでに色々な政治的な駆け引きも経験して来た。
だがそれは権力争い、権勢の競い合いという特殊なものである。
彼は武将たちの心理には疎い。
足利義政は庶兄(公的には庶弟)足利政知を新たな鎌倉公方に任じ、下向させる。
この時に数多くの失敗と一点の大成功の両方をする。
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まず最初の失敗は、新たに関東執事を任じた事である。
元々は執事と管領は別々に居た。
やがて管領に集約される。
関東も同様だ。
関東執事と関東管領とが居たが、やがて関東管領だけになる。
それなのに新たに関東執事を任命し、そこに渋川義鏡と上杉教朝を任じた。
関東管領たる山内上杉家が不満を持たない筈が無い。
関東執事上杉教朝というのも問題だ。
渋川も不要だが、まだ彼は他家である。
上杉教朝は犬懸上杉家の上杉禅秀の子だ。
今でこそ関東管領を独占する山内上杉家だが、以前は犬懸上杉家からも出していた。
更に最後の犬懸上杉系関東管領となった上杉禅秀は、鎌倉公方に対して反乱を起こした者である。
足利持氏も武田信長も岩松家純も、この上杉禅秀の乱で運命が変わってしまった。
上杉禅秀の子である上杉教朝は、他家の養子に入っていた為、連座を免れた。
その後、足利持氏を討つ永享の乱において、上方軍の大将を勤める。
翌年の結城合戦でも大将を勤めるといったように、京の武将として生きていた。
山内上杉家としても、彼が京に居るならば何の問題も無かった。
関東に復帰するとなると話は別だ。
かくして関東管領と関東執事が対立、一丸となって足利成氏に対抗するどころではなくなる。
そして珍事が発生する。
現在、利根川を挟んで東側が足利成氏勢力圏、西側が上杉方勢力圏となっている。
相模国は扇谷上杉家が奪い返し、姻戚の大森氏頼、三浦時高が共に守っていた。
駿河国は足利一門・今川範忠の領土で、これも上杉に味方をしている。
この中間に伊豆国がある。
足利政知一行は、伊豆の堀越に在る国清寺に辿り着いた。
今川範忠は先んじて鎌倉に入ったが、かつての自軍の焼き討ちと、享徳地震からの復興が進んでいない事もあり、足利政知の鎌倉入府に待ったをかけていた。
この安全圏・伊豆に居る足利政知が、足利成氏派と見られる勢力に攻撃される。
国清寺は散々に焼き討ちされ、足利政知は命からがら脱出した。
入府前から攻撃を受け、逃げ回った「京任命の」鎌倉公方は、勇猛さを好む坂東武士の物笑いの種となる。
そして、伊豆や西相模には反政知の武士が出没し始め、彼は堀越から一歩も出られなくなった。
この事態に京の足利義政は、増援として管領家の一つ斯波家、甲斐、信濃、奥州に対し政知救援の出兵を命じる。
これが次から次へと失敗してしまう。
まずは越前・尾張・遠江三ヶ国守護である三管領の一つ、斯波武衛家について説明しよう。
この時、斯波家は関東出兵どころの騒ぎではなかった。
当主である守護・斯波義敏と斯波家執事にして守護代の甲斐常治の間で合戦が始まろうとしていた。
斯波武衛家の長禄合戦である。
斯波義敏は分家から、斯波武衛家の嫡流が絶えた為、養子入りした。
この分家当主の斯波持種と甲斐常治は、所領問題で険悪な関係であった。
不仲は子である斯波義敏と甲斐常治の対立にも発展していた。
それだけなら斯波家の問題で、足利義政の責任ではないと言えよう。
だが実際には、長禄合戦の原因の一端が足利義政の施政にも在ったのだ。
将軍専制を目論む足利義政は、将軍権力を強化する為、「越前守護の統治が行き届いていない荘園は没収し、将軍が直接代官を派遣する」命令を出す。
将軍の協力者として現場管理者となり、派遣された代官を仕切る甲斐常治は権力を増す事になる。
そういった「空き地」の押領を狙っていた他の国衆は、甲斐家への対抗馬として守護家を担ぐ。
斯波家は義政の出陣命令を無視し、義政は越前問題の裁定に当たらねばならなくなった。
義政は、甲斐の武田信昌にも出陣命令を出している。
だがここも命令に従わない。
信昌は、かつて武田信長をも打ち破った守護代跡部明海・景家父子との合戦に突入していた。
信昌の祖父で、信長の兄である武田信重が作り出した武田家家臣団、親族衆、譜代衆、これらが跡部家との合戦に立ち上がる。
その跡部家の本家に当たる信濃守護小笠原家も事情は似たようなものだ。
武田信長と共に活躍した小笠原政康の死後、小笠原氏惣領職を巡って嫡男・宗康と従兄弟の小笠原持長が争った。
その後、小笠原宗康は戦死し、弟の光康が代わる。
そして小笠原持長(府中小笠原家)と、小笠原光康(松尾小笠原家)と、兄・宗康の子である小笠原政秀(鈴岡小笠原家)が並び立ち、牽制し合う。
とてもではないが、将軍の命に従って足利政知救援どころではない。
なお、小笠原家の混乱は京に起因する。
小笠原持長を亡き前管領・畠山持国が支持し、それに対抗する為に現管領・細川勝元が小笠原光康を支持し、足利義政は嫡男の子である小笠原政秀を支持していた。
三者とも「我こそが正統な信濃守護である」と言って譲らない。
京の政争は、信濃国を混乱に陥れていたのだ。
そして奥州も動かない。
伊達持宗は乱勃発の翌年、享徳四年には足利義政による成氏討伐の命令を受けていた。
だが持宗は、諸大名の様子を注意深く伺った結果
「伊達だけが動いて損をする事もあるまい」
と日和見を決め込んで動こうとしなかった。
同様に奥州の強豪・白河結城家の結城直朝も、迂闊に北関東へ兵を出そうとはしない。
伊達と結城に引き摺られるように、奥州諸家も動かなくなった。
こんな状態である為、義政は兄弟の政知に
「鎌倉に入るのは尚早である」
と伝えて、伊豆に留まらせた。
仕方に状態とはいえ、これも失敗と言えば失敗であろう。
いよいよ新鎌倉公方・足利政知の権威は堕ちていき、関東の諸将は誰も命令に従おうとしない。
さて、疑問が残る。
足利政知が襲撃されたのは、扇谷上杉家の裏庭とも言える地である。
利根川の東に居る足利成氏の部下が攻めるには、遠い場所だ。
利根川の西にも成氏派が居ないわけではない。
だが、全体として上杉家の勢力が強く、京からの護衛に守られた政知の命を脅かす程の攻撃が可能かどうか疑問なのだ。
上杉家が黙認、更には裏で糸を引けば可能である。
足利政知やその部下・渋川義鏡、上杉教朝の権威が堕ちて得をするのは、関東管領上杉家である。
関東にこれ以上権力者は要らぬ、関東管領が居れば事足りるのだ。
少なくとも、長尾景仲や太田資清・資長はそう考えていた。
敵同士がいがみ合っているなら、それは足利成氏にとって好機であろう。
だが、成氏側にも攻撃に出られない事情が発生する。
それは足利義政が打った手の唯一の成功は、抜擢した岩松家純の活躍であった。
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岩松家純は、関東への下向前より手を打っていた。
足利義政に頼み込み、成氏に着いた関東の諸将に対する赦免状を得る。
これは「成氏討伐に参加する」事が前提条件であった。
『成氏誅伐の事、御方に馳参じ、忠節を抽んずれば、その賞有るべきの状、件の如し』
成氏を討てば、領土は安堵する。
この所領安堵を、「現時点での勢力」に適用させる。
本来であれば「元の所有者に戻すよう」という命令になるが、それだと成氏方で戦い、近辺の上杉方武家を討って所領を奪った者たちは従わない。
この将軍教書を手に、岩松家純に新たに仕えた小野国繁が上野国に入る。
まずは世良田長楽寺の松陰坊と会う。
以前、結城合戦の時は修行僧の一人であった松陰も、今では長楽寺の住持になっていた。
「お待ちしておりました」
「お噂はかねがね、殿より伺っておりました。
松陰様には、是非我等をお助けいただきたく、お願い申し上げます」
「出来る限りの事を致しましょう」
新田荘の外交僧を使い、地侍を勧誘し、権威を見せたり情勢を説いたりして心を動かしながら、「とある武将」を狙って調略を続ける。
長禄二年(1458年)、ついに岩松家純は成氏方の最有力武将・岩松持国を寝返らせる事に成功した。
足利成氏には天地がひっくり返ったような衝撃である。
岩松持国は、成氏がまだ万寿王丸を名乗っていた時期から、彼を鎌倉公方に復帰させるべく運動して来た男である。
この享徳の乱でも、開戦である鎌倉・西御門邸の戦で長尾実景を討ち、成氏と共に小栗城を攻め落とし、上州一揆を懐柔して成氏方に付ける活躍をしていた。
成氏もそれに応え、茂呂、新開、荒蒔、飯塚といった地を恩賞として与えた。
盤石に見えた成氏派の新田岩松が裏返ったのだ。
足利成氏の古河着陣は、北西に岩松、北東に小山、後背に結城、南方に奉公衆である簗田や一色という味方に囲まれる事を前提としていた。
それが覆ってしまう。
岩松家純は、引き続き結城、小山、佐竹、宇都宮、那須といった諸将の調略に掛かる。
当然ながら、この男も狙う。
「上総の武田右馬助殿を寝返られせよ。
武田殿を寝返らせれば、娘婿の里見殿も崩せる。
すると房総を根こそぎ味方と出来よう」
かつて命を救われ、また共に結城城で戦い、将軍足利義教に仕えた信長を助けたいという思いも岩松家純にはあった。
再三、岩松家純は武田信長を説得しにかかる。
時に所領安堵状を出し、時に義政による叱責状を見せ、時に関東執事による赦免状を送って、懐柔しようと頑張った。
「武田殿は先代・長春院殿(足利持氏)とは弓矢を交えたではないか。
その子に加担する義理もないでしょう」
「室町殿は、父の普広院様(足利義教)にお仕えした武田殿を倒すに忍びないと言われています。
我等、かつては同じように普広院様の下で馬を並べたではありませぬか。
此度、また手を取り合いましょうぞ」
「あれほど右馬頭殿に尽くした新田左京兆殿も許されたのです。
武田殿が咎められる事は有りませんぞ」
(岩松持国は、右京大夫から義政への鞍替えで左京太夫に昇進した)
岩松家純の必死の説得に対し、武田信長は鼻毛を抜きながら嘯いた。
「わしは今のままの坂東が良いと思う。
京の公方の差配に従うなど、つまらん、つまらん。
むしろ岩松左京兆が寝返った今こそ、面白き事じゃ。
存分に戦ってくれよう」
武田信長は動かない。
足利成氏は、房総までひっくり返される危機からは免れた。
おまけ:
安西氏は平安時代から安房国府の役人をしており、安房国府周辺に勢力を持っていた。
古くよりの安房の住人である。
かつて里見義実が享徳地震の被害地を調査しに来た時、相模三浦氏と関係が深い安西氏の世話になった。
丸氏との戦いで、安西氏が里見義実を味方にしたのは、このような縁が有った為だ。
その安西氏の居城に、里見義実が兵を率いて押し寄せる。
神余、真田、丸といった武家を完全に掌握していた。
だが里見義実は、安西義豊にこう言う。
「自分は鎌倉公方の命を受け、安房を上杉より奪いに来たものである。
決して安房の諸家を亡ぼす為に参ったのではない。
今はわしに降られよ。
わしは古河におわす左馬頭様(足利成氏)の奉行人であり、安房国守護代を命じられた。
お役目的にも上に立っておかしくはない。
だが、それでは安房国衆が納得すまいと、我が実力を見せて来た。
それ故、わしに従う事について、不満はあれど、得心は参るのではないか?
これまでの縁もある。
決して粗略には扱わぬ故、わしに、左馬頭様に従って下され」
安西義豊は主従逆転された事に悔しさを感じるも、結局この申し出に従う。
以降、安西・丸・木曾の三氏は里見の家老として、引き続き安房国で力を持つ事となった。