二人の関東公方
※「下剋上」という言葉は、建武の新政時に何者かが書いた二条河原の落書で、既に使用されていた。
室町幕府の祖法「建武式目」は、バサラも含む上を上と思わぬ行為を禁止する。
以降、何はともあれ主君を立てる、言う事を聞いてくれなくても、当主交代はしても殺そうとはしない世が続いた。
だが、それも終わろうとしている。
第八代征夷大将軍足利義政は、父である足利義教のような、将軍親政を目標としていた。
義政はなりふり構わない徳政政策によって、財政の再建に成功している。
その財力を使い、内裏を再建する。
帝の御所たる内裏は、十三年前、嘉吉三年(1443年)の禁闕の変で神璽を奪われた際に焼損していた。
これを再建させた足利義政は、関東の争乱を鎮圧出来ずに落ちた声望を、再度取り返す。
この義政の政治には、側近・伊勢貞親の補佐があった。
伊勢貞親は、二階堂家と共に代々足利将軍家政所執事を勤める伊勢家の当主である。
いずれは現在の政所執事・二階堂忠行と交代し、公的に将軍の政務を担当する事となる。
財政再建は、伊勢貞親最大の功績と言って良いだろう。
理念に関しては場当たり的だが……。
借金を帳消しにする徳政令、それを求める徳政一揆、認めてしまうと入って来ない当時の金融業者からの上納金。
この問題に対し、最初は
「金貸しの諸君、貸した額の十分の一を我々に納めれば、その業者の借金は帳消しにしない」
という「貸した側に求める」分一徳政を行った。
だが、それをやっても借金帳消しを求める者に実力行使される危険性がある。
金を納めて、それでも実力行使されたのでは割に合わない。
この政策は失敗した。
そこで伊勢貞親はこう変える。
「借金帳消しを求める諸君。
借金額の十分の一を我々に納めれば、その者には個別の借金帳消しを認めよう。
諸君たちからしたら全額払わなければそっちの方が良いだろうが、考えてもみたまえ。
人から金を借りて、何も無しで借金帳消しなんて出来ないのだ。
何らかの代償は払って貰うぞ。
九割借金が無くなり、以降の利息が無くなるのだから十分なものだろう。
これすら無視するなら、もう徳政令出さないぞ」
これは成功する。
個別に、というのが肝である。
金貸しからまとまった額を納めて貰えばそちらの方が実入りは多いが、金貸しの方が後難を恐れて納入してくれない。
だったら債務者個人個人に対し
「借金帳消しが欲しいなら、その対価を支払え」
と公的に布告すると、「揆を一にする」一揆衆の横の連携など消し飛ぶ。
自分の借金だけでも九割削減しようと、借金額の一割を幕府に納める者が相次ぐ。
無論、それをしない者、出来ない者もいる。
そういう者がしている借金は帳消しにされない。
公的に決まっている。
文句を言おうにも、一揆は既に一揆で無くなっている。
我先に借金を帳消しにした者は、もう徒党を組んでくれない。
幕府にとって怖かったのは集団訴訟である。
個別なら怖くはない。
こうして徳政一揆を無力化すると共に、分一銭の納入による財政再建が出来た。
この銭でもって朝廷に代わり御所を再建する。
再度言うが、足利義政は父のような強い将軍に戻したかった。
父と同じやり方にはしないが、将軍親政こそが義政の望みである。
同時に祖父・足利義満への憧れもあった。
壮麗な御所造営に、寺社や隠居所の建造で権威を示す。
だが足利義政は、朝廷の下に組み敷かれていた。
源氏長者を奪われ、元服時の名前も帝に与えられ、そのまま御所に呼びつけられて仕事をした。
指導力の無い管領の命令を諸大名が聞かなかった為、足利家の敵を討伐する事ですら綸旨を発行して貰う。
足利将軍家代々の方針は、朝廷の権限を全て奪い取り、南朝のような軍事力を持って政権を覆す力を持たせない、である。
その権力闘争の最中とも言える。
朝廷に取り返されつつある権力を、また奪い返したい。
第一歩として、朝廷に代わって御所を修復してみせて、権威を見せつけたのだった。
足利義政がしたかった事、それを支える財源を作った伊勢貞親は権勢を強めていく。
伊勢貞親は、前管領・畠山持国との関係が良かった。
その為、現管領・細川勝元は冷ややかな目で伊勢貞親を見ている。
畠山持国と細川勝元は政敵であったからだ。
細川勝元は、管領を出す畠山家を壊すべく、舅の山名持豊と手を組んで享徳三年(1454年)に起きた畠山家の内紛に介入した。
それに対し足利義政は、まず山名持豊を自分の意向に従わない事を理由に追討しようとし、それを弁明する細川勝元と、出家して責任を取る山名持豊(以降は山名宗全)という形にして自分の下の立場とする。
その上で義政自ら畠山家の問題に手を入れ、家督争いの一方の当事者・畠山義就の家督継承を認めて忠誠を勝ち取った。
ある意味、関東で起きた享徳の乱への対応は
「朝廷・将軍・管領間で政争をしつつ、その余力で関東の争乱を解決する」
ようなものであり、義政の父・足利義教が永享の乱や結城合戦を行った時のような作戦行動は無かった。
それが古河公方・足利成氏を助けている部分でもあった。
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享徳六年/康正三年(1457年)、関東管領が足利成氏への対抗として担いだ、足利義氏こと勝長寿院成潤が病死する。
関東管領上杉顕房は、代わりとなる対抗公方の人選を京の足利義政に求める。
関東管領陣営の士気は下がっていた。
野戦で足利成氏に対し勝てずにいる。
下総北部、上総、安房は完全に成氏方に抑えられた。
関宿城(野田)には簗田持助、幸手城には一色直清、菖蒲城(久喜)には金田則綱、騎西城(加須)には金田友綱が入り、結城城の結城成朝、新田城の岩松持国、小山本城の小山持政、宇都宮城の宇都宮明綱、そして小田城の小田持家という成氏方武将が古河城周辺を固めていた。
この防御網を見るに、成氏は鎌倉を棄てて正解だっただろう。
盤石の守りを作った上で、成氏は野戦部隊を率いて利根川を渡り、上野・武蔵の上杉方勢力を攻撃しては離脱を繰り返す。
これに対抗したのが、前年に正式に家督を譲られて扇谷上杉家家宰となった太田資長(後の太田道灌)であった。
彼もまた、防御戦術を徹底する。
家督を嫡男に譲ったとはいえ、父の太田道真はまだ存命で、かつ健康である。
太田父子は武蔵国入間郡に河越城、武蔵国豊嶋郡に江戸城、武蔵国荏原郡に御殿山城(品川)を築城し、利根川から江戸湾に掛けての防御線を構築した。
更に稲付城(赤羽)、番神山城(後の港区虎ノ門)を作り、吉良成高に世田谷城を強化させた。
石神井城と練馬城を持つ豊島氏は、すぐ近くに江戸城を築いた太田資長と関係悪化するも、何とか宥めて上杉方に留め、ここも防衛線の一部とする。
太田資長が武蔵国南部に城と城を使った防衛線を作っている頃、上杉家本隊及び長尾家も防御拠点を構築していた。
それが巨大な平城・五十子陣であった。
上杉方は坂東の西側半分をどうにか維持している。
足利成氏が水運の重要拠点・古河を抑えたように、上杉方も陸運で重要な鎌倉街道を抑えていた。
当然、成氏はそこを狙う。
度々の武蔵や上野への侵攻で、街道を使った流通を脅かしていた。
そこで、この街道を守る形で防御陣地を構築する事とした。
五十子の陣は、本体である五十子城だけを見れば左程でも無い。
だが、元々この地を領していた本庄信明が、五十子城を守る為に築いた東本庄館や、北西にある鵜森浅間神社への続く長大な土塁、西に離れた台地の上に築かれた東五十子城(西に在るがこの名前)と連携した防御線となっていて、総合的に巨大なものとなっている。
五十子陣は人員収容施設としても有用だ。
これまで各地の要害に築かれた城で戦って来たが、少数の兵であると成氏にはかなわない。
そこで山内上杉家と家宰の長尾家、扇谷上杉家、庁鼻和上杉家、越後上杉家、その他上杉家に味方する諸将をこの陣地に収容する。
やって来た諸将の陣地も、防御線の一部とする。
こうして人が増えれば増える程、構造的な防御力も増す。
五十子陣にはやがて、上杉軍七千騎が入る事になる。
この防御陣地に籠る大軍の前に、足利成氏は手も足も出せなくなってしまった。
享徳の乱は、前年までの攻撃力重視の戦役から一転、陣地戦・防御戦に移行する。
古河と五十子との陣地戦は長期化の様相を見せ始めた。
足利成氏は戦闘行動を抑え、古河の御所で公方としての仕事を行う。
こうする事で、関東の実際の支配者は自分であると喧伝するのだ。
それに対抗する関東管領の陣営で、公方が死んだのだ。
長尾景仲などは
「公方が居なくても、関東管領が居れば、関東の政治は成り立つ」
と考えるが、肝心の管領・上杉顕房がこれまでの枠組みを越えられない。
彼は、上に公方を戴いていないと安心出来ないのだ。
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関東管領からの要請を受けた足利義政は、亡き父の悲願を果たす時が来たと喜ぶ。
彼の父・足利義教は子の一人を鎌倉公方とし、関東も自分の血筋に治めさせる計画だった。
そこで義政は、出家している兄を呼び出す。
この兄、天龍寺香厳院主清久は足利義教の庶子であり、母親が日野家の女性である義政より年長だが、公式には弟とされていた。
この清久を呼び出し、還俗させる。
康正三年は、畿内で干ばつが起こったとされる。
これを理由に長禄に改元された。
戦乱を収める為の康正改元、これは結局何の意味も為さなかった。
だが改元をした朝廷や将軍の手前、同じ理由で再度の改元は出来ない。
天災怪異に対する長禄改元だったが、この改元を機に関東の兵乱を今度こそ鎮めてみよう。
足利義政はそう決意し、還俗した兄に自分の名を一文字与え「政知」と改めさせた。
そして新たな関東執事として渋川義鏡と上杉教朝を付けて関東に送り込む。
この足利政知の下向軍の中には、岩松長純改め岩松家純が加わっていた。
関東に二人の公方が出来ようとしている。
おまけ:
里見義実が、下剋上を起こした神余家臣の山下氏を討った時、彼単独ではやっていない。
安房郡平松城の安西氏、朝夷郡丸御厨の丸氏の助力も得ている。
この安西、丸両家が神余旧領の配分を巡って対立する。
安西氏は里見義実に呼びかけ、丸氏との戦いに参加させた。
丸氏は安西・里見、そして長挟郡の豪族・東条氏にまで攻められ滅亡寸前に追い込まれる。
だが、里見義実は丸氏を滅亡させはしなかった。
丸氏を降伏させ、これも彼の被官とする。
こうして里見義実は、安西氏の勢力を上回ろうとしていた。