甲斐の一揆と上総の一揆
この時代を遡る事三百年、嘉承元年(1106年)、常陸国。
八幡太郎源義家の弟・新羅三郎義光と、義家の四男・源義国(新田・足利氏の祖)が争う。
常陸合戦である。
義光の勢力は、義光の子・源義業、源義業の子(義光の子)源昌義、源義業の岳父・大掾重幹。
源昌義が佐竹寺で吉兆を得て、姓を佐竹に改めた。
佐竹氏の始まりである。
戦いは義光が勝ち、義光流は常陸に勢力に広げる。
義光の三男・義清も常陸国那珂郡武田郷を得る。
武田氏の始まりである。
武田義清とその子・清光は佐竹・大掾氏と争い、甲斐に追放される。
甲斐武田氏の始まりである。
清光は甲斐国逸見荘に進出し、逸見清光を名乗る。
武田清光であり、逸見清光である。
清光の子は双子で、兄が逸見光長、弟が武田信義と名乗る。
要は武田でも逸見でもどっちでも良いのだ。
逸見の姓は武田の分家がしばしば名乗る為、「誰の子孫の逸見か?」となる。
なお、逸見が本家の姓になっていないのは、源平合戦の時に武田信義が兄の逸見光長を暗殺し、武田が本家となったからである。
甲斐国は昔からこんな感じである。
京と坂東の距離は遠い。
京の将軍・足利義持の元には、坂東の争乱の報が何度も入る。
同じ事が時間差で二度来ているのに、違う事として考えられたりと混乱している。
足利義持の信任が厚く、僧ながら多くの幕政に関与して、「黒衣の宰相」と呼ばれた醍醐寺座主・満済は日記に
「甲斐国では地下一族蜂起」
と、この時期の事が記載されていた。
武田信元・信長連合と逸見家、そして跡部家の対立。
武田の中でも信元の穴山家と信長の関係は良くない。
国人領主の間でも輪宝一揆と日一揆が対立状態。
こうした中、迷惑を被ったのが小山田家である。
郡内の半独立勢力である小山田家には、味方をせよと各勢力が迫る。
「我々に同心せよ。
さもなくば滅亡するか?
どちらも嫌なら今年の年貢の半分を寄越せ」
それに応じて事態を収める方法もあるが、何度もそんな事をしていると家人や領民に愛想を尽かされる。
「寝言は寝てから言うが良い。
小山田の地を冒す者には弓矢を馳走してやろう!」
数十から数百の小競り合いだが、面倒臭くはある。
一度族滅した小山田はナメられてもいるから、村落から略奪をしようと中小の武士が現れる。
武士団なのか、野武士なのか、さらには野盗なのか知れたものではない。
武田宗家の三男・信泰を庇護した理由には、こういう事への対策もある。
「悪八郎殿、加藤殿、なんとかして頂きたい」
日一揆に属する武士は信長の縁で抑える。
逸見派、つまり鎌倉派の武士は、旧主上杉家の縁で抑える。
それでも統制に従わない連中は多い。
そういう奴の方が多い。
うんざりしながらも対処し続ける。
小山田家の場合、彼等が半分以上中立で居たいのに、とばっちりを受けている形だ。
直接の当事者同士だと、もっと酷い事になる。
「殿! 我が方の村が焼き討ちされました」
「よし、仕返しに川の堰を切って、あの村に水を入れないようにせよ」
こういう事が村落単位で行われている。
「おい、隣村のぉ。
あまりナメた真似しとると、逸見の殿様が黙ってないずら」
「おまんこそ、ナメた事すっと、うらの後ろ盾の武田の若殿が何すっか分からんぞ」
「はぁ~?
どこのどいつよ、それはよぉ?」
「分家筋の尻に引っ付いてるたばけに言われとおねえの」
「なんだこら、やるか?
「おう、殺ってやんぞ、おら!」
甲斐は大体こんな感じであった。
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一方、鎌倉の足利持氏も一揆との戦いに没頭していた。
上総国は犬懸上杉家、つまり敗死した上杉禅秀の本拠地であった。
それだけに足利持氏は、容赦なく禅秀の被官たちの所領を没収する。
すると、上総国に持氏に味方した者が居ないだけに、国全体が反持氏で結束する。
上杉禅秀の執事だった埴谷重氏を中心にした国人一揆「上総本一揆」が出来上がった。
この上総本一揆が応永二十五年(1418年)四月に蜂起。
穏便な処置を求めるも、足利持氏は拒否。
一揆勢は平三城に籠る。
持氏は街道を封鎖して対応するが、地元で自給自足出来る一揆勢には堪えない。
結局五月、持氏は家臣の一色左近将監に命じて追討軍を出撃させた。
この時代の軍事は、まず大将を決め、大将が大名に呼び掛けて兵を集める。
持氏は大将に一色左近将監を任命した。
繰り返すが、上杉家には山内、扇谷、宅間そして越後上杉家という流派があるのだ。
事態を穏便に済ますなら、犬懸上杉家の旧領の争乱を鎮める為には、同族の上杉家、特に関東管領の山内家・上杉憲基が大将を勤めただろう。
だが上杉憲基はこの年の一月に死去し、死後養子の上杉憲実が十歳で関東管領を継いだ。
十歳の少年に大将は勤まらない。
では、憲実の実父である越後上杉家・上杉房方はどうか?
上杉禅秀の乱を鎮圧した越後上杉家の房方だったが、この時期は越後に勢力を広げるのに忙しかった。
扇谷家当主の上杉持定はまだ十六歳で、やはり大将に任じるには若過ぎた。
扇谷上杉家は駿河今川家と婚姻関係にあり、上杉持定を大将とすると、後見人に今川範政が出て来るだろう。
駿河今川家は京の将軍家の臣であり、鎌倉府の家臣ではない。
京の影響力を排除したい持氏にしたら、何度も関東に介入して欲しくはない。
宅間上杉家の上杉憲直は年齢的にも持氏との仲も良かった。
だが、結局持氏は母の家系である一色家を頼む事にした。
鎌倉公方に対する関東管領は上杉家である。
他は?
軍事を司る侍所の執事は千葉家で、前当主の千葉満胤が上杉禅秀に味方した為、立場を弱めていた。
政治を司る政所の執事・二階堂家と問注所の町野家はこういう時は指名されない。
一色家は足利一門であり、家格としても悪いわけではない。
今回の人事は、他に適任者がいないから一色左近将監で良かったのだろう。
だが持氏はこの後も、上杉家ではなく一色家を、上杉氏でも山内家でなく宅間家を優遇する。
京と主従関係のある大名を潰そうとする。
この現状を自分色に塗り替えようとする行為は、やがて京の将軍・足利義持と対立を深める。
先の事はおいて、一色左近将監は常陸国の武士・鹿島憲幹、烟田胤幹、田山幹國、佐治妥女等をを招集する。
上総八幡に集結した常陸国鹿島神社の武士団は、各地で上総本一揆の武士たちと戦いを始める。
そして上総本一揆の拠点となった平三城を攻撃し、陥落させた。
だが、埴谷重氏を始め、ほとんどの一揆勢は落ち延びてしまい、鎮圧という点では失敗する。
幾つかの地侍を倒した為、持氏はその領地を没収して鶴岡八幡宮へ寄付した。
足利持氏は間違いを犯している。
領地を没収すればする程、上総国の武士たちは鎌倉府に対し反攻するのだ。
「何故、奴等は痛めつけても屈服せぬのか?」
絶滅させる以外、彼に恨みを持つ武士が残るというのに、気づかない。
こうして持氏に反抗する上総国の武士に武田七郎三郎や武田源次郎といった者たちが居た。
いつの頃からか、誰の系統かは分からないが、上総国にも甲斐源氏武田氏は既に入っていたようだ。
彼等と武田信長の運命は、やがて交わる。
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「悪八郎殿、よろしいか?」
武田信元が信長を招いた。
甲斐国に戻った武田信元だが、どうも甲府盆地にある石和館で政務を振るえずにいた。
甲府盆地は鎌倉派の逸見有直と輪宝一揆の衆が抑えている。
信元は元の養子先、河内地方の穴山家に守られ、そこで守護としての政務を行っていた。
……言う事を聞く国人領主も少ないが。
「どうだろう、お主、わしと手を組まぬか?
同じ武田宗家の出ではないか」
「ハハハ」
信長は笑う。
「叔父上はわしではなく、郡内の加藤家と日一揆衆の加勢が欲しいのだろう?」
「正直そうじゃ。
京の公方様に言われて守護になったものの、わしに力は無くてなあ」
(この叔父は素直に過ぎる……)
父の信満にも、兄の信重にも言えるが、乱世の大名としては性質が大人し過ぎる。
周りを切り従えるくらいの押しの強さ、我の強さが欲しい。
我の強過ぎる人物といえば、鎌倉公方の足利持氏で、自分に従わない者は容赦なく殺し、自分の息のかかる者を贔屓する。
(この叔父では、鎌倉殿には敵わないだろう。
当然、その後押しを受ける逸見のオッサンにもな。
だからこそ京の公方も叔父上を、良く命令に従う手駒として使おうと思ったのだろう)
信長は少し考えて言った。
「だったら、わしを養子にせよ」
武田信元の子は早逝し、後継ぎが居ない。
その後継ぎに自分を充てろと信長は言う。
「よし、分かった。
そのように手続きをしよう!」
信元は即答する。
これで何もかもが上手くいくかに思えた。
だが、数ヶ月に信元は信長に頭を下げていた。
「京に届け出出したら、駄目だって……。
反乱に与した悪八郎殿を、そこまで許した訳ではない、との事で。
どうしよう?」
「……馬鹿正直に届け出出したんかいな?」
叔父の捻りの無さに呆れる思いがする。
そこで信長は代案を出す。
「では、わしの息子、伊豆千代丸を養子にしていただきたい」
「おお、それは名案!
じゃが、乳児はいつ死ぬか分からぬから、公方様の許しは出ぬかもしれんぞ」
「伊豆千代丸はもう三歳ですぞ」
「は????
確か、去年産まれたばかりでは??」
「(数え)三歳ずら!
去年産まれたのではなく、応永二十三年(1416年)の産まれずらよ」
「てことは、お主が十四か十五歳の頃に仕込んだ子かの??
無理あるじゃろうが」
「その辺、馬鹿正直に捉えなさるな、芸が無い!!」
かくして信長が伊豆亡命中に産まれた子は、産まれてすぐに三歳の子という事になり、甲斐守護との養子縁組が成されたのであった。
おまけ:
「何故わしは家を追われたのじゃろう?」
旧名岩松土用松丸、現在の名・源慶は供の者と秩父山中を彷徨いながら尋ねる。
出家したなら出家したで、長楽寺に居させてくれても良いのに。
原因は、鎌倉公方足利持氏の追い込みの激しさにあった。
祖父の岩松満国が突っ張ってみせたが、それでも遠隔地である上総にあった岩松領は押領された。
亡き父・岩松満純の所領の完全没収は免れたが、五十年間成氏の預かりとされた。
これ以上足利持氏に付け込まれたくない。
十歳の子坊主は
「お前がいると災難だから」
と新田荘を追われ、僅かに付けられた供に守られて秩父山中を彷徨っているのだった。
この少年の問いかけに、小者たちは答えられない。
彼等とてよく分かっていない。
「で、わしは一体どこに行くのか?」
それについては答えがあった。
長楽寺から紹介状を貰っている。
彼等は秩父を抜け、甲斐に入る。
「恵林寺にようこそ参られた」
源慶少年の甲斐での生活が始まる。