桓武平氏武田家??
享徳五年/康正二年(1456年)、古河公方足利成氏は内大臣三条実量と管領細川勝元に宛て、書状を送る。
三条実量にはこう書いていた。
『上杉方は鎌倉勝長寿院の成潤を勝手に日光に移動させた。
こういう事があったから、自分は戦乱を起こすに至った。
自分は京都(朝廷・幕府)の管理する土地には手をつけていない。
朝廷は自分の意を汲んで、平和の為に尽力して欲しい。』
一方の細川勝元にはこう書く。
『何回も関東の問題点について書状を送ったよな?
返事もろくにしなかったのは、どこのどいつだ?
上杉が専横し、寺社領とかを勝手に一揆衆に与え、自分の部下にしている。
おかしいだろ?
だから戦乱を起こした。
自分は間違ってないから、将軍動かしてさっさと停戦させろ!』
細川勝元はこれを徹底無視する事にした。
既に述べたように、上総国はかつては源頼朝挙兵時に従った上総広常が強い影響力を持っていた。
この上総広常は、平良文流嫡流に近いのを自慢とし、誇りが高過ぎた。
頼朝の時代の事を記した歴史書『吾妻鏡』には、上総広常の傲慢な振る舞いが残されている。
頼朝が岡崎義実に恩賞として自身の水干(衣服)を与えようとした時、広常もそれを欲し、岡崎と殴り合いの喧嘩に及ぼうとした。
頼朝の前で御家人たちは下馬の礼を取るが、広常は「自分は(頼朝の祖父から)三代の間、そのような礼を取らずにいた」と言って、頼朝の前でも乗馬したままであった。
京の後白河法皇と駆け引きを行う頼朝に対し
「上方の事は放っておきなされ、坂東こそが大事なのです」
と繰り返し説教する。
これらの傲慢さは、出自の良さに加え、配下の中で飛び抜けて大兵力を持っている事から来ていた。
頼朝はついに、同じ平良文流の梶原景時に命じ、広常を双六の席で暗殺する。
そして広常の勢力を分割し、嫡流を千葉氏に替えた。
だが上総氏は滅亡しても、その係累が全て絶えた訳ではない。
広常の弟に金田頼次という男がいた。
その孫の金田成常は、鎌倉幕府の内戦・宝治合戦で没落し、成常の子・胤泰は叔父の鏑木胤定の養子となって血筋を残す。
当代においては、蕪木常信が上総広常の係累の最高位であった。
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武田信長は他所者である。
上総の国人領主たちは、足利持氏を嫌い、扇谷上杉家を嫌った。
今は扇谷上杉家や、京より派遣された東常縁に対する神輿として武田信長に従っている。
しかし、何時裏切るか分かったものではない。
信長が東金を攻めた時のように、大軍であれば味方する。
という事は、敵が更に大軍なら、簡単にこちらから寝返る事が予想された。
何時裏切るか分からない相手に対し、簡単な対処方法は恐怖政治である。
先代の鎌倉公方・足利持氏はそれをやった。
現将軍の父・足利義教もそれをやった。
その二人の末路を武田信長は見て来ている。
同じ轍は踏むまい、そう感じていた。
そこで武田信長は上総に土着する事に決めた。
彼自身が上総の国人と化すのだ。
幸いにも……とは言い難いが、彼が相模に持っていた所領は、全て今川範忠によって奪われてしまった。
本拠地を持たない信長にしたら、この地に居着く事に何の躊躇いも無い。
だが……
「それだけでは不足じゃ」
「じゃな」
「うむ……」
信長、土屋景遠、加藤梵玄が語らう。
確かに土着すれば、他所者として廃除される事は無くなる。
だが、上総を支配する正統性が無い。
現在の信長は、古河に移った鎌倉殿・足利持氏によって任命された上総守護である。
しかし、当の足利成氏が朝廷によって朝敵とされ、官位も剥奪されている。
源頼朝も官位剥奪状態があったから、成氏もそこは気にしていない。
しかし、成氏によって任じられた信長の正統性は、今の所無いに等しい。
これで朝廷が上総国司である上総介を任じたり、京の将軍・足利義政が新たに上総守護を任じたなら、正統性というものはそちらの方が強くなる。
あとは「どちらが有利か」で他に国人たちは天秤にかけた後、勝つ方に味方する。
「鎌倉殿の任命に頼り過ぎない、上総をわしが治めて当然という空気を作りたい」
そう信長は思う。
「難しい事を言うのお。
せめて相模国なら、まだ嘘も吐きようがあったのにな」
甲斐源氏武田家は、何度か相模に領土を持っていた事があった。
結城合戦の後に武田信長が足利義教によって与えられた領土も、そういった武田家の旧領であった。
その恩賞もあったように、武田信長は足利義教に信頼されていた。
であるから、相模国であれば
「亡き普広院様(足利義教)は、わしを相模守護にする腹積もりであった」
とでも言える。
それを言えるだけの関りは有った。
だが、上総にはそういう出まかせを言えるネタが無い。
千葉胤将と仲が良かったと言っても、千葉氏は下総の名族で、上総には影響力が有るのみ。
まして、上手く騙して上総の千葉郎党を部下に組み込んでしまったのを、現在の千葉の当主である馬加康胤も面白くは思っていないだろう。
だが、下総の事情はまたしても転換する。
匝瑳郡にに逃れていた東常縁が勢力を回復した。
正月十九日に市河城で敗れた時、彼は計画的に敗走する。
勝てないと見た東常縁は、出来るだけ損害を少なくし、脱落者を出さないように撤退したのだ。
その結果、一月たらずで態勢を立て直す。
二月七日には老尾神社で戦勝祈願をして出陣、すぐ馬加城を囲む。
馬加康胤とその子・胤持は馬加城で籠城戦に入り、上総の事に口出し出来る状態ではない。
「どうして東野洲(常縁)はこんなに早く息を吹き返したと思う?」
信長の問いに
「傷少なく兵を退いたのも見事だったが、それ以上に将軍奉公衆の名じゃな。
千葉の分家で、宗家を亡ぼす馬加殿や原殿より、東殿に、ひいては室町殿に着く方が気が休まるのであろう」
「謀反人には従いたくないか」
「適度に従い、貰える物を貰ったら、大義名分のある者に靡くまでじゃ。
謀反人は勢いを失ったら、もう終わりじゃろう」
この時期、下剋上はまだまだ無いようなものだ。
長尾景仲や太田資清が足利成氏に戦いを挑んだのも、鎌倉公方の権威を否定したものでも、自分が取って変わろうとしたのでもなく、ただ主君である上杉家の為の行動だった。
それ故、馬加康胤が千葉本家を滅亡させた事は人倫に反する事で、「千葉本家復興」という大義名分を掲げる者に下総の武士を走らせるものであった。
「やはり正統性は大事じゃのお」
信長は上総に在ってそう思う。
下総が不安定になると、上総の信長と下総古河に居る足利成氏との連絡が遮断される。
別に援軍を求める気も無いが、上総の事は自分の力量で何とかせねば、と思う。
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「今帰ったぞ!」
何処かへ出掛けていた加藤梵玄が、足音高く入室する。
「鏑木城主、蕪木常信という者が居る。
この者、小身ではあるが、何とあの上総介広常の後裔に当たる」
「上総介広常?
源頼朝公に味方し、討たれた、あの?」
「その上総介じゃよ、悪八郎殿。
まあ正しくは、広常の弟の金田小太夫(頼次)の末じゃが」
「ほお、あの上総介広常の血筋が残っていましたか。
それで、その蕪木殿が如何なされた?」
「悪八郎殿にしては鈍いのお。
この上総国は、古くは上総介広常の治める地であった。
千葉介が影響力を持ったのも、上総介広常の同族であったからじゃ。
その上総介広常の末裔が居るという事は……」
「理解した!
その者の養子となれば良いのじゃな!
そうすれば、わしは上総介信長としてこの地を治めるに足る正統性を得られる」
「おい、爺ぃ!
上総介信長って、何か聞き覚えのある響きではあるが、年を考えろ!
加藤殿、蕪木殿のお年は?」
「うむ、悪八郎殿よりも年下じゃ」
「どこの世界に、年下の者の養子に入る爺ぃが居る?
別な手立てを考えよ」
「まあ、わしも土屋殿の言われる事に賛成じゃ。
別に蕪木殿の養子になれ等、わしは言ってないしな。
蕪木殿を、上総介広常を思い出すように『金田』姓に復し、担ぐのが良いと思ったのじゃが」
「それでは駄目じゃ。
既にわしは鎌倉殿を担いでおる。
その上、また誰かを上に持つ気等無い。
わしが上に立たねばならぬ」
「グワッハハハ、相変わらずじゃのお、悪八郎殿は。
じゃが、どんな手立てがある?」
「わしで駄目なら、伊豆千代丸じゃな」
「おい!
とっくに元服しておるのに幼名で呼びなさるな!
それに六郎殿は其方の後継ではないか!
甲斐源氏である事を捨てると言うのか?」
「捨てる!」
「なんと!?」
「新羅三郎義光に始まる甲斐源氏は、兄上や甥殿のものじゃ。
わしは甲斐を捨てて、上総に骨を埋めると決めた。
甲斐源氏などという名等要らぬわ」
「グワッハハハ、上総を欲する故、甲斐源氏の名を捨てるか。
実に思い切りが良い。
よし、協力するぞ。
わしは蕪木殿を説いて来る。
土屋殿は公方様(成氏)や千葉介殿(馬加康胤)を説いて来て下され。
それで悪八郎殿」
「む?」
「悪八郎殿は息子殿を説く事じゃな。
勝手に決めたが、六郎殿は何も知らないではないか。
六郎殿がうんと言わねば、この話、纏まらぬぞ」
「……忘れておった」
「おい!
うちの妹の忘れ形見を粗略に扱うな!」
「何を言われる、義兄上。
伏の事はこの上無く大事に思っておりますぞ」
「娘じゃなく、息子の方も大事にしろ!!」
紆余曲折があったが、その方向で物事は動く。
まずは足利成氏の意向を受け、籠城戦でそれどころではない馬加康胤の名を勝手に使った上で、千葉家執事・原胤房が、蕪木常信に対し「金田復姓」の許可を出す。
何が何やら分からない「金田」常信を、加藤梵玄が訪れる。
事情を聞いた常信は
「は……????」
と唖然とする。
後に伊勢という京の将軍に奉行として仕える者の一族が、関東で勢力を築く際に、坂東武士に馴染みが深い「北条」と苗字を改めたり、とある百姓の倅が摂関近衛家の猶子となって関白になろうとする。
それと同じ事だが、いきなり言われた者は中々理解出来ない。
理解した時、金田常信は溜息を吐いた。
「なるほど、わしのような小身の者が、急に名誉の金田復姓を許されたのは、そういう事か。
わしは武田殿の嫡男に、金田の名跡を継がせる為に、金田に復姓したという訳じゃな」
「細かい事を気にされるな。
用が済んだ後に蕪木に戻せ等とは言わぬ。
ずっと金田を名乗り続けて良いのじゃぞ」
「……代わりに頼次公以来の金田家当主の座は譲る事になる、か。
まあ、良い。
金田の当主の座は、今のわしには重い。
武田の若殿を、喜んで猶子として迎えましょうぞ」
かくして武田六郎信高は、金田上総介信高となる。
金田は言わずと知れや桓武平氏良文流である。
信高は新羅三郎義光流源氏から桓武平氏へと変わったのだ。
信高に否やは無い。
……否とも是とも言わせて貰えなかったのだが。
こうして武田信長は再び「上総介信高の父」という微妙な立場で上総に君臨する事となった。
おまけ:
安房国には以下の四郡が存在する。
・長狭郡:勝浦周辺
・朝夷郡:白浜周辺
・平郡:館山周辺
・安房郡:鋸南周辺
里見義実は、まず安房郡に入った。
この地には神余、沼、安東、安西と言った武家が存在する。
その内の神余氏において下剋上が発生した。
神余家臣の山下作左衛門景胤が主君・神余光孝を攻めて滅亡させるに至る。
いよいよ世は乱れて来た。
だが、里見義実は「鎌倉の公方様の下、秩序を回復させる」と唱え、神余氏の生き残りを立てて山下氏を討伐する。
舅・武田信長譲りの新型弓や戦法は、安房の片田舎の山下氏を圧倒した。
かくして里見義実は安房に最初の地歩を築いたのである。