房総の事情
康正二年(1456年)、備中伊勢氏の伊勢盛定と、室町幕府政所執事伊勢貞国の娘との間に子が産まれた。
その子は長じて、伊勢新九郎盛時と名乗るようになる。
またの名を「早雲庵宗瑞」とも言う。
ずっと後年の事ではあるが。
上総国には代表する大きな武家がいない。
故に中小の武家が連合し、揆を一にした上総本一揆として権力に対抗して来た。
この権力とは、鎌倉公方・足利持氏であった。
であるなら、上総国は反鎌倉公方派、親関東管領派な筈である。
しかし事情は複雑である。
確かに足利持氏は、自身を危機に追い込んだ上杉禅秀と関係が深い上総国を攻め、多くの者を殺した。
そしてその所領を鎌倉公方直轄地・御料所とした。
この御料所を、功の有った者に治めさせる。
それから時間が経ち、かつての敵味方であった上総本一揆の衆と、鎌倉府御料所を治める者は、共に上総の武家として、扇谷上杉家とその分家・小山田上杉家による被官化に抗う事となった。
古くから上総武士は独立心が強い。
まず、上総に渡るには海上からの方が、下総経由の陸路よりも近い。
下総は下総で、江戸川や利根川、その下流の湿地や江戸湾の干潟等で交通の難所である。
上総は半分、陸の孤島であった。
そして上総国の地理は、山がちで、小領主が点在する。
平安時代末期、この地を苗字とした有力武将に上総権介・平広常こと上総広常がいる。
彼の居館は布施村(いすみ市下布施・上布施、御宿町上布施)辺り、つまり外房に在ったとされる。
上総国府は内房の国分寺台(市原)だったので、同じ上総国内でも中央権力から更に遠い場所に居た。
そして上総広常と言いながら、下総の方にも所領があり、そちらの方が多かった。
上総国中央部、及び内房には広常に従うものの、基本的には自立した武家が多かった。
このような地であり、総州平氏棟梁の座を上総広常から引き継いだ下総千葉氏を盟主に、各地好き勝手な生活をしていたのだ。
上杉家による被官化は望まない。
どうせ組織化されるなら、上総国ゆかりの者に、上総武士の為のものとして貰いたい。
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下総千葉氏の争いは激化していた。
京の将軍・足利義政が派遣した奉公衆・東常縁の支援を得た本家の千葉実胤が勢力を盛り返す。
東常縁と副将・浜春利、酒井定隆は、千葉庶家の馬加康胤と原胤房を圧迫する。
軍事的に西高東低の時期で、下総土着の武士たちは将軍奉公衆に歯が立たない。
馬加康胤は平山城に、原胤房は小弓城に追い込まれた。
千葉諸家の国分・大須賀・相馬といった家が東常縁に帰順する。
千葉家の影響下に在った上総にも混乱が波及する。
そこで古河の足利成氏は、側近の簗田持助と、武田信長・里見義実を下総に送る事とした。
成氏の新拠点・古河は、上野・下野・武蔵・下総という四国の国境付近に在る。
更に常陸国にも近い。
利根川の東側を完全に抑えた上で、西側にいる上杉勢と対峙したい。
よって、後方にあたる房総を安定化させたいところだ。
「それで河内守殿(簗田持助)如何する?」
「右馬助殿(信長)には存念有りと見える。
それを伺いたいものじゃ」
「では申す。
東野州(下野守東常縁)を追うのではなく、千葉七郎(千葉実胤)を囲みましょう」
「なるほど、『囲魏救趙』の計じゃな。
味方を救うには、それを攻める敵を追うのではなく、敵の本拠地を衝く。
さすれば敵軍は本拠地を守る為に兵を退く。
味方は救われ、駆け付けて来た敵軍を迎え撃てる。
此度は千葉の倅を囲む事で、後詰め(援軍)に来る野洲奴を討つというわけじゃな」
「左様。
河内守殿も同じ考えでは無かったかな?」
「まあ、そういう事にしておこうか」
「ではわしと左馬頭(里見義実)は市河城を囲む陣地を築き申そう。
恐らく野洲は陣が出来る前に駆け付けて参ろう。
その後に河内守殿は野州を打ちのめして下され」
この時期、里見義実は大隅守から左馬頭に名乗りを改めていた。
「心得た。
では抜かりなく」
市河城は国府台辺りに在った城である。
武田・里見勢は城を囲む陣を築く。
仰々しく音曲で人足を囃し、近隣よる丸太を集め、高櫓を立て始める。
賑々しさとは裏腹に、工事は遅々としている。
「しかし、結城合戦の折は、見事な井楼を早々に何基も建てたと聞き及び申すが」
里見義実が言うと、土屋景遠が溜息混じりに返す。
「天下の大軍勢と比較せんで欲しい。
あの時は小笠原殿を始め、大身の武家が何家も連なって城を巻いていたのだ。
それに引き換え、今は我等しか居らぬ。
その我等は元の所領を失った根なし草に過ぎぬ」
「ですが、それでもこれ見よがしな櫓や陣を作るのですな」
「これ見よがしなのが理由よ」
「殿!」
「こうも人目に触れる作事を行えば、東野洲の耳にも市河城の窮状が耳に入ろう。
そうと知れたら、東野洲も駆け付けて来ざるを得まい。
でないと、室町殿に千葉の援軍を任された意味を成さぬ」
千葉本家を援けない京の軍勢では、ただの外者でしかない。
将軍の帰順要請に応えた武家が、成氏方に潰されていく。
これを見殺しにしたら、今後将軍の帰順要請に応えるものは居なくなろう。
東常縁、浜春利、酒井定隆の京都奉公衆は千葉実胤救援の為、包囲陣が完成する前に市河城に入城する。
下総の各戦線は放置され、押し込まれていた馬加康胤、原胤房は救われた。
目論んでいた「囲魏救趙」が成功した。
そして簗田持助、南図書頭の成氏の奉公衆千数百騎は市河城を総攻めする。
市河城の守備兵は城主の千葉実胤、大将・東常縁、浜春利、酒井定隆の五百騎程。
東常縁らの兵約三百騎は急行して来た為疲労していた。
兵力が倍で、かつ成氏直属軍には武田信長が京よりもたらした四方弓が行き渡り出して武器の優劣は無い。
「前左典厩(官位を剥奪された左馬頭足利成氏)に従う奉公衆は、まだこんなに居ったのか?
寄せ手の他に、陣を守る兵力を考えると、市河方面には二千騎から三千騎も来ているのか!?」
東常縁は焦る。
東常縁は武将であると共に歌人である。
教養豊かで、猪武者の類ではない。
どうやら最初から勝てないと判断したようで、折り合いを見て敗走する。
東、浜、酒井はそれぞれ別々にまとまった兵を率いて市河城より落ちていった。
そして市河城主の千葉実胤も城に火をかけて脱出、武蔵の上杉氏勢力圏に逃れる。
実のところ、簗田持助の軍には、武田信長・里見義実の軍勢も合流していた。
つまり、市河城を囲んでいるのは陣に兵は無く、兵力は全て寄せ手に集約されている。
一見大軍で市河城を囲み、その半分程度で攻め寄せて来たように見えるが、実際は簗田の部隊がこの方面の全軍であった。
故に東常縁に勝る大軍とする事が出来て市河城の士気を挫き、楽に城を落とせた。
一方で僅か十四歳の千葉実胤が歴戦の武田信長に捕らわれる事もなくあっさりと逃げ出す事が出来たのも、取り囲む陣に全く兵が居なかった為である。
ともあれ市河城の合戦は成氏方の勝利に終わり、享徳五年(京では康正二年)も幸先良い出だしとなった。
下総の大半は成氏の勢力圏に戻る。
ただ関東管領方の戦力が失われた訳ではない。
市河を脱出した東常縁は下総国匝瑳郡に、浜春利は上総国山辺郡東金、千葉実胤は武蔵国石浜に拠って反撃の機会を伺っている。
勝っても負けても千葉氏の勢力は減衰した。
簗田持助は市河城を落とすとそれを自領とし、そのまま関宿(野田)辺りまでを押領した。
そして武田信長と里見義実である。
千葉の裏庭である上総と安房に彼等が入る。
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「では婿殿、抜かりなくやられよ」
「はっ、舅殿も御達者で」
「伏を、娘と懇ろにな」
「お任せあれ。
義兄上(武田信高)もご壮健で」
「……まあ、何とかするさ。
あのじゃじゃ馬を頼むぞ」
里見義実ら一行は馬加(幕張)の浜から船で、海路安房国を目指す。
一方武田信長・信高父子は陸路、上総国に向かう。
湿地や山が多い陸路より海路の方が早いかもしれない。
武田信長はまず、東金の浜春利を攻めた。
それに先立ち信長は、同じく上総国山辺郡の小西に入る。
ここで上総に居る千葉の郎党に集結をかけた。
そしてこう言った。
「わしは鎌倉殿の名代・武田右馬助信長である。
鎌倉殿より上総の守護に任ずると下命された。
この地は千葉介の領土である事は百も承知じゃ。
じゃが、わしは亡き先代千葉介殿(十七代当主千葉胤将)からこの地を託された。
其方たちを決して粗略には扱わぬ。
どうかわしに力を貸して欲しい」
(大した大噓つきだな)
土屋景遠はそう思う。
あの悪八郎も随分とずる賢くなったものだ。
十六代当主千葉胤直は反足利持氏派で、その流れで当代の足利成氏にも逆らった。
十七代当主千葉胤将は成氏派だったが、乱が起こる前の享徳三年に急死した。
その弟が十八代当主千葉胤宣である。
幼少の胤宣は、最初は成氏派の大叔父・馬加康胤に補佐されていたが、乱勃発後に父の胤直が実権を奪い返し、そのまま父の命に従う。
そして千葉胤直、千葉胤宣は共に成氏方に攻められ自刃した。
そんな千葉党が、素直に成氏派の信長に従うとも思えない。
そこで信長は、殊更に成氏派だった十七代目・胤将との仲を語った。
千葉家本来の意志は鎌倉公方に従う事で、先々代がそれを捻じ曲げたのだ、と説く。
その上で、自分は何かあったら千葉の事を頼むと遺言された、と嘘を吐いた。
千葉の郎党にしたら、実は庶流の馬加康胤や、執事という家臣、即ち同格であった原胤房の下風に立つのを快しとしない。
それだったら、全く違う武田右馬助を戴いた方がマシだ。
武田右馬助は甲斐守護武田家の出で、鎌倉府や室町にも仕えた経歴を持つ。
どこぞの馬の骨とは言えない名門出であった。
十七代当主とどのような付き合いが有ったか等、上総に居た者に知りようも無い。
だが、嘘だとしても名分が整った。
かくして信長は、上総の千葉党を全て自分の麾下兵力にする事に成功する。
これで一定数の軍勢を確保した信長は、上総各地に書状を送る。
「東金攻めに参加せよ。
大した合戦にはならないだろうが、恩賞は出す。
敵は少数なり」
これで日和見していた上総の一揆衆が信長の下に集結した。
この大軍をもって、東金に圧力をかける。
市河城を大軍で脅し、士気を挫いたのと同じ戦法である。
浜春利は敵中に孤立する事を恐れ、東金より脱出、東常縁に合流すべく下総に向かった。
同じように東常縁や千葉実胤、更には扇谷上杉家、小山田上杉家に味方していた者が逃げ出し、多くの地が自落した。
その地を信長は接収し、鎌倉府御料所とする事を宣言した。
宣言の後、自分に従った千葉の郎党や上総の地侍に恩賞として管理を任せた。
かくして武田信長の上総での第一歩は、戦わずして成功を収めたものとなった。
おまけ:
岩松礼部家の岩松長純は、関東の争乱にやきもきしていた。
自分も下向し、岩松家を我が物としたい。
同じ新田氏族の山名持豊を通じ、その願いを伝えていたが返答が無い。
その代わりに、彼は管領・細川勝元に呼び出される。
「この者は武蔵横山党の者で、小野信濃守殿とその倅殿じゃ」
「小野信濃守貞国と申します。
良順とも名乗っております」
「貞国が子、新六郎国繁と申します」
「これはご丁寧に。
新田治部大輔、岩松長純と申します」
「挨拶は済んだようじゃな。
で、礼部殿、この小野殿をそこもとの郎党として貰いたい」
「は?
小野殿に不満は御座らぬが、某が小身、領土も小さく賄い切れませぬ。
小野殿にしてももっと大身の家の方が良いのでないでしょうか?」
細川勝元の表情は全く読めない。
口に扇を当てながら呟いた。
「関東に下向したいのなら、郎党は多いに越した事は無かろうて」
意図を理解した岩松長純は、小野貞国・国繫を家臣とした。
後に横瀬と苗字を改める者たちとの縁の始まりであった。