享徳の乱、其の伍~鎌倉陥落~
小栗城主・小栗助重は、足利成氏に居城を奪われた後、再起する事も無くどこぞへ落ちて行った。
そして出家し、名を宗湛と改める。
宗湛は京の相国寺に入り、画僧周文に水墨画を学ぶ。
どうやら彼は、武家であるより画家であるのが天職だったようだ。
やがて彼は足利義政にその画才を認められ、将軍家の御用絵師となる。
享徳四年五月、天下最強の軍とは足利成氏の軍であっただろう。
だが六月になり、月が代わるとツキも変わる。
京を発した上杉房顕が、山内上杉家本拠地・平井城に現れる。
意表をつき、信濃国からの東山道を通っての到着である。
そして越後守護・上杉房定の本隊も到着。
山内・越後両上杉家の軍勢は、武蔵国まで攻め入っている足利成氏の背後を襲う。
足利成氏はこれに対し、やはり猛攻を仕掛ける。
だが、この軍はもう疲れていた。
無理も無い、小栗城攻略以降、弱みを見せたくない成氏が攻め達磨となっていた為、戦い詰めだったのだ。
六月五日、上野国三宮原の合戦でついに足利成氏は敗退した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「舅殿、やはり某は相模に戻ろうと思います」
里見義実が武田信長に訴える。
「上方の軍勢の事か?」
「左様。
公方様はああ仰せだが、むざむざ相模を明け渡す事もありますまい」
信長は考える。
どうも公方は計算をして鎌倉を手薄にしているように思える。
それを台無しにしかねないか?
「婿殿、箱根の事、鎌倉殿には鎌倉殿の算段が有ろう。
それを乱す事になりはせぬかの?」
「それは某も重々承知しております。
おそらく公方様は鎌倉にこだわってはおりますまい。
なれど、公方様はそうでも我等にとっては武家の都です。
何もせずにくれてやるわけには参りません」
「分かっていて、参ると申すか」
「左様」
「死ぬる覚悟か?」
「まさか。
御息女・伏を嫁にしていただいた。
残して死ぬ気等微塵も御座らぬ。
ただ坂東武者の意地を見せる、それだけで御座る」
「そうか……」
しばし考え、
「義兄上、加藤殿」
土屋景遠と加藤梵玄を呼ぶ。
「里見殿を援け、相模に赴いて下さらぬか。
そして、里見殿を決して死なさぬよう、お頼み申す」
「心得た」
「グワッハハハ!
承知。
場所は足柄で良いな」
かくして里見義実を大将に、武田党の一部は相模防衛に戻る。
足利成氏の陣でも、同様に申し出る者が居た。
「宮内大輔(一色直清)、わしの傍に仕える其方が、わしの思いを分からぬか?」
「いえ、分かります。
分かった上で申し上げます。
鎌倉を棄てる事、至極御尤も。
なれど武家は合理のみにて動くものに非ず。
公方様が武家の都を惜しむ事無く棄てたとあらば、坂東の武家は失望しましょう。
形だけでも鎌倉を守る御意思を示した方が良いのです」
「そのような意地、何の役にも立たぬ」
「いいえ、立ちます。
御父上、長春院様(足利持氏)は武家の御心に鈍感で有らせられました。
負けた者を容赦無く潰す。
なれど、負けた者にも意地が御座います。
それが積もり積もれば……」
「良い、分かった。
其方の申す通りじゃ。
行くが良い。
ただし、わしはまだ戦い続ける。
死ぬるを許さんぞ」
「はっ! 有難き幸せ!」
こうして一色直清も相模防衛に戻る。
相模の西、箱根・足柄、ここに鎌倉公方軍は防衛線を展開する。
守るは大森憲頼、一色直清、里見義実、印東下野守、木戸左近将監といった将。
小田原の大森家は、どちらに味方するか一致しなかった。
しかし大森憲頼と弟の箱根権現別当実雄は、鎌倉公方への忠義を崩さない。
身内に上杉家に味方しようとする大森氏頼を残しながら、兄弟は箱根を守る。
六月十一日、ついに今川範忠率いる七千騎が箱根・足柄に現れる。
今川範忠は道々で参陣する武士たちを糾合し、大軍となってから坂東に押し寄せて来た。
味方は大森勢の五百騎が最大で、他は各三百騎程度で合計しても二千騎に満たない。
永享の乱、結城合戦に次いで三度、今川勢は箱根・足柄を越えんとする。
地の利を生かし、関東方が防戦を行う。
武田信長がもたらした四方弓がある程度普及するも、坂東の全軍に行き渡るには数が足りず、武器の利はいまだ上方軍にある。
さらに今川範忠は、最早箱根の地理を熟知していた。
「領地に隣接し、しかも此度で三度目である。
最早箱根、足柄の両峠は我が庭と思うべし」
今川勢の侵攻は順調であった。
関東の入り口・箱根と京の玄関口・宇治瀬田は、共に過大評価された防衛線かもしれない。
瀬田という宇治川の渡し場は、過去に一体何度突破された事だろう。
箱根にしても防衛に成功した例として、足利尊氏が新田義貞を破った箱根竹ノ下の戦いがある。
この時、「太平記」の記述では足利軍は二十四万、新田軍は七万七千と防衛側が大軍であった。
それ以外で、後世に山中城の戦いというのがあるが、上方の大軍に一日で攻略されている。
承久の乱の時、箱根で上皇軍を迎え撃とうとした北条義時を、北条政子と大江広元は一喝した。
さっさと京へ攻め上れ、と。
遥か後年、薩摩・長州の兵を中心とした軍を、箱根で迎え撃ったが、これも敗れた。
今川範忠も過去に箱根の防衛線を突破しているし、障壁なのは確かだが、過度の期待は厳禁な場所なのかもしれない。
今回も今川範忠は箱根を突破した。
大森勢は小田原城に籠り、他の一色・里見・印東・木戸勢は後退しながら鎌倉を守るべく戦う。
しかし今川勢は止まらない。
嫡男・彦五郎氏忠が父に代わって大将とし、鎌倉を攻める。
十九歳の嫡男が先陣に立ち、士気上がる今川勢は成氏方の防衛線を次々と破り、破竹の進撃をする。
そしてついに六月十六日、彦五郎の先手隊は最終防衛線を打ち破り、鎌倉市内に突入した。
「話には聞いておったが、惨憺たる有り様じゃ……」
今川範忠は入府した鎌倉を見て、思わず零した。
享徳の鎌倉大地震動、この復興の為に各大名は兵を送った。
しかし、その兵を復興半ばにして上杉討伐に振り向けた。
その結果、鎌倉はいまだ被災して傷ついたままであったのだ。
「政所、侍所、問注所、評定所、奉公衆・奉行人詰め所、いずれもがもぬけの殻でありました」
先に入府していた倅・彦五郎からの報告で、今川範忠は気づかざるを得ない。
足利成氏は、古河に陣を移した時点で「鎌倉」というものを棄てていたのだ。
「そんな事があるだろうか……」
事実として鎌倉を棄てたのだろうが、その決断力に恐怖を感じる。
鎌倉は武家の都である。
いわば聖地。
そこを抑えていれば、坂東政権の正統性を主張出来る。
にも関わらず、惜しむ事無く棄てるというのは、想像の外だった。
(鎌倉公方、先代以上に手強い相手かもしれん)
そう唇を噛む今川範忠の元に、耳の痛い報告が届く。
「大殿! 若殿! 陣借りの者どもが府内で狼藉を働いております」
「陣借りの者どもが寺や屋敷に火を放っております」
「鶴岡八幡宮に押し入り、略奪を働いております」
「父上、直ちにあの者たちを止めて参ります!」
「戯け!
あの者どもは、これが目当てで参ったのじゃ。
それを止めだてする者があるか!」
「それでは、如何に致しましょうや?」
「奴等に宝物を持ち去られる前に、我等が先んじるのだ!」
今川範忠は急ぎ、重要な寺社から宝物を奪って来るように命じる。
戦と見て手柄を立てに武士たちが推参するのは仕方ない。
彼等の略奪・放火・婦女誘拐を止める事も出来ない。
だったら、彼等の手に渡る前に貴重な物は先に略奪してしまえ!
これが当代の武家の常識である。
今川父子は鎌倉の重要文化財を根こそぎ奪う。
そして範忠は直卒の今川家の部隊だけで鎌倉に残り、他は彦五郎が率いて駿河へ引き返す。
その前に京に「鎌倉陥落」の報を送った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
報を受けた将軍・足利義政は手を打って喜ぶ。
父・足利義教は数ヶ月で鎌倉公方を打ち亡ぼした。
今回も同じように、あっという間に戦は終わるだろう。
鎌倉一番乗りの今川彦五郎氏忠には、自身ではなく、足利将軍家の一字を与え、今川治部大輔義忠と名を改めさせた。
そして義政は、動揺する関東諸将に御教書を出し、成氏討伐を呼び掛ける。
父の時は御教書を出すと、即座に千葉・三浦が裏切って足利持氏は追い込まれた。
今回もきっと同様だろう。
もう勝ったも同然だ。
だが、戦場の人でない足利義政は気づいていない。
管領・細川勝元も気づいていないだろう。
それは本拠地が鎌倉だった場合である。
鎌倉を守ろうとしたから、北の防衛線・分倍河原の守りを千葉が放棄し、東から三浦が攻め寄せて万事休すとなった。
既に足利成氏は本拠地を古河に移している。
鎌倉府の政府機能を三月の時点で丸ごと移設し、ここで行政を行うべく御所造営の命も出していた。
足利成氏は、鎌倉の防御に疑念を抱いていたのだ。
確かに三方を山、南を海に面した鎌倉は守りが固い。
しかし、これまでにもう何度落とされた事だろう。
和田義盛に攻められて市街戦となり、新田義貞には焼かれ、北畠顕家にも落とされ、永享の折は三浦時高に制圧された。
鎌倉の守りなんてものは、過度に期待出来るようなものではない。
そして鎌倉は敵地に近過ぎる。
西に駿河の今川、北に武蔵の扇谷上杉家、東に三浦半島の三浦、その対岸の上総と安房には扇谷上杉の分家の小山田上杉が居る。
それよりは結城・小山・岩松といった有力な味方の居城に近い古河が良い。
古河を抑える事は、坂東の河川流通も抑える事が出来て、長期に渡る戦争が出来る。
初期に鎌倉を入れない形で盤石の態勢を築いていた為、足利成氏は個々の敗戦に動揺しなかった。
今川軍主力が去った後も、日和見から関東管領方についた者たちが、鎌倉公方軍の一色・里見・印東・木戸勢を追撃する。
しかし、どうやら足利成氏は既にそれも予期していたようだ。
武蔵府中には既に簗田持助の軍勢が到着している。
簗田勢は調子に乗って押し寄せる諸軍を撃退し、落ち延びて来た諸将を収容すると古河に引き上げた。
「里見殿、無事で何より。
義兄上、加藤殿、ようお守り下された」
再会を喜ぶ武田党。
そこに使い番がやって来る。
「武田右馬助殿。
公方様の使者が参られております。
里見大隅守殿も同様に御座る。
衣服を改めて、仮の侍所までお出まし頂きたい」
「ふむ……、命令を無視して里見殿を相模に遣った事をお怒りかな?」
そう思わず言った信長だったが、足利成氏の名代が読み上げたのは意外な辞令であった。
「武田右馬助を上総守護代に任ず。
また里見大隅守を左馬頭に改め、安房守護代に任ず」
舅と婿は思わず顔を見合わせていた。
おまけ:
小栗城の戦いを終えた岩松党は、再び上野国の戦いに戻る。
いや、戦いとは言えないかもしれない。
上野一揆の荒牧下総入道、茂呂の郷北一揆衆、上野国とは隣接する武蔵国新開(新会)の新開加賀守の所領を奪い、それらを恩賞として成氏に求めた。
引き続き成氏は承認し、岩松領は拡大する。
武士の本分は一所懸命。
岩松家は所領拡大と忠義とで、足利成氏陣営の重要な武将として京にも知られるようになっていった。