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享徳の乱、其の参~分倍河原の合戦~

分倍河原では、鎌倉時代末期に合戦があった。

後醍醐天皇に味方した新田義貞が、鎌倉幕府の北条泰家・貞国と戦ったものである。

この新田義貞に従った新田一族の名は

脇屋義助、大舘宗氏、堀口貞満、岩松経家、里見義胤、江田行義、桃井尚義

等である。

岩松経家は岩松持国・岩松長純の祖にあたる。

 鎌倉公方の軍勢は高安寺にいる約千騎である。

 上杉軍の半分に過ぎない。

 後詰めとして駆け付ける武田信長や結城成朝の軍勢も三百騎程。

 合わせても劣勢である事に変わりない。

 そこで足利成氏は、島河原合戦の武田信長に倣い、奇襲に出る事とした。

 簗田持助に高安寺を守らせ、自ら半数の五百騎を率いて密かに出陣する。


 上杉軍先鋒、犬懸上杉憲秋は武蔵府中手前の立河原(立川)に布陣していた。

 この先鋒部隊に成氏の奇襲部隊が襲い掛かる。

 兵力に劣る鎌倉公方軍は、ここで先鋒だけでも潰しておかねばと猛攻を加える。

 その様子は火のつくようであったという。


 ついに犬懸上杉憲秋勢は崩され、敗走を始める。

 犬懸上杉憲秋は成氏軍の攻撃で致命傷を負うも、家臣に救われた。

 しかし、それは敵に首を取られるのを防ぐ意味しかなかった。

 犬懸上杉憲秋は高幡不動に隠れる。

 そして、最早これまでと自害して果てた。


 一月二十一日の合戦は、こうして鎌倉公方軍の勝利となる。

 しかし激戦だった為、鎌倉公方軍でも一色(一色直清の一族)、石堂といった武将を含む百五十人ばかりが討ち死にした。

 上杉軍はまだ千五百騎程が大将・扇谷上杉顕房に率いられて健在であった。

 上杉顕房は、上杉憲秋自害の報を受けて激怒している。

 立河原の前哨戦が起きた翌日、一月二十二日には大石房重を新たに先鋒に命じ、分倍河原から高安寺に向けて進軍を開始した。


「申し上げます。

 関東管領方が押し寄せて参ります」

「全軍か?」

「はっ。

 前軍と本隊に分かれております」

「よし、出陣じゃ!

 先陣だけでもここに居る兵で潰すのじゃ!」

 成氏は二十歳にもならない若さである。

 合戦経験も少ない。

 これは危険ではないか?

「公方様。

 ここは武田右馬助殿や結城中務殿の後詰め到着を待った方が良いのでありませぬか?」

 簗田持助が諫める。

「ならぬ。

 我等は敵よりも劣勢なのじゃ。

 ここで気後れしては兵の士気に関わる。

 敵よりも常に先を取り、敵の気を呑むのじゃ」

 そして小声で耳打ちする。

「戦はこの武蔵府中だけではないぞ。

 わしの振る舞いを坂東の武家はつぶさに見て、値踏みしておるのよ」


 関東の武家は、必ずしも鎌倉公方に加担するとは限らない。

 鎌倉殿は必要だが、弱かったり独裁的過ぎたら用は無い。

 担ぐに足る神輿でなければ、いくら京の束縛を嫌う彼等であっても、簡単に鎌倉公方を売り渡す。

 足利成氏は優れた神輿でなければならない。


 簗田持助は理解した。

「公方様の仰せ、ごもっともに御座います。

 なれば申し上げます。

 御自身の出陣はなりませぬ。

 どうか、(それがし)にお命じ下さい。

 既に昨日、公方様は勇を示されました。

 これ以上自ら戦うと、匹夫の勇と見られ、鼎の軽重を問われましょう。

 ここは総大将らしく、落ち着いて家臣どもにお命じあれ。

 自ら戦われるのは、家臣が負けてからで十分に御座います」


 成氏はこの諫言は受け入れた。

 昨日戦った負傷兵と共に自らは高安寺に留まり、簗田持助が将として打って出る。

 そして分倍河原を進む上杉軍先鋒約五百騎に奇襲を掛けた。

 ほぼ同数の五百騎同士の合戦となったが、やはり攻撃を仕掛ける側の優勢であった。

 簗田勢は上杉軍先鋒の将・大石房重を討ち取る。


 だが、そこに扇谷上杉顕房率いる本隊約千騎が襲来した。


「何たる事よ。

 大石が討ち取られ、先陣は散り散りとなっているではないか」

「殿、合戦は気後れした方が負けに御座います。

 敵は疲れております。

 一気に押し出しましょうぞ」

「気後れ等しておらぬ。

 者ども、押し出せ!!」

 上杉軍本隊が攻撃を開始する。


「ここが死に場所よ!

 迎え撃て!!」

 簗田持助隊は退かず、連戦に出た。


「里見殿、お討ち死に!」

「世良田殿、お討ち死に!」

 里見、世良田という新田一門の者は、負傷してこの場に居ない新田宗家・岩松持国が代理で送った身内の者である(里見義実とは別系統)。

 鎌倉公方軍にも犠牲が出始める。


 だが、持ち堪えていて正解であった。


「見よ!

 既に合戦が始まっておる!」

 武田信長隊が分倍河原に到着した。


「遅参とは恥ずかしい。

 直ちに参戦しましょうぞ」

 結城成朝が訴える。


 この部隊は、信濃の村上政清、下野の小山持政との合流を行っていた為、到着に時間が掛かった。

 だが当初の三百騎よりも大分増えて、千騎近くになっている。

 その状態で、止めても聞く事はあるまい。

 大体、信長にも止める気はさらさら無い。


「よし、皆の者、敵は竹に雀の上杉、九曜巴の長尾、丸に桔梗の太田じゃぞ!

 間違うなよ。

 よし、押し出せ!!」

 武田信長・信高父子、土屋景遠、加藤梵玄、里見義実、結城成朝、多賀谷氏家・高経兄弟、小山持政、村上政清といった武将が馬腹を蹴り、長巻や槍をしごいて突撃する。

 この側面からの猛攻に、上杉軍中軍は劣勢に陥る。

 上杉の部将の一人・羽続某が討ち取られ、やがて崩れ出す。


「ぐぬぬ……。

 押し負けるな、押し返せ!

 それでも上杉の者か!」

 扇谷上杉顕房が吠える。

 しかし大勢は決したようだ。


「殿、ここは引き際です」

「黙れ! 気後れした方が負けと言ったではないか!」

「時と場合によります。

 こうも総崩れを起こしてしまっては、兵を留める事は出来ませぬ」

「臆病者に用は無い!

 わし一騎でも踏み止まって戦ってみせようぞ!」

 足利成氏は二十歳にもならない若造だが、扇谷上杉顕房も二十一歳の世間知らずである。

 まして足利成氏がして来たような苦労も経験が無い。

 誇り高く、血気盛んな彼は、結局逃げ遅れてしまった。


「あれなるは大将首じゃ!

 討ち取って手柄にせよ!」

「首じゃ首じゃ!

 首置いてけ!」

「上杉弾正だと言う事が分かれば、腕でも良いぞ!」

「とにかく、死んでわしの手柄となれ!」

 猛獣たちが群がる。

 上杉顕房の近習は皆討ち取られる。

 上杉顕房自身も深手を負うが、そこは若い肉体、どうにか群がる敵を振り払い、落ち延びる事に成功する。


「殿が手傷を負われました」

「何?

 して、まさか討ち取られたのではあるまいな?」

「供回りが死を賭して、殿を落ち延びさせた由」

「そうか。

 左衛門(太田資長)よ、我等の戦もこれまでじゃ。

 お主は血気に流行って無理をするなよ」

 太田資清は、嫡男に向かってそう言う。

「はい、父上。

 ここらが潮時ですな」

 後の名将・太田道灌はこの時二十三歳、若さに似合わぬ冷静さを持っていた。

 太田父子は戦場を離脱する。


 小山田上杉藤朝も戦場を脱し、本家の上杉顕房に合流する。

 小山田上杉家の手勢が、傷ついた上杉顕房を守りながら落ちていく。


 こうして二十二日の合戦は、鎌倉公方軍の勝利に終わった。

 戦闘開始時に戦場に居なかった結城成朝は口惜しく感じていた。

 結城勢は公方への挨拶もそこそこに、翌日、翌々日も追撃を続ける。

 南の相模方面は武田信長が制圧した。

 北には足利成氏の居る高安寺が在り、そこには成氏本隊と、勝ち馬に乗る周辺の武家が集まっていた。

 逃げる先は西側になろう。

 太田父子だけは、あえて敵中突破に近い事をして東方に離脱していった。

 そして一月二十四日、武蔵国夜瀬(三鷹)にて。


「やあやあ上杉弾正殿、小山田安房殿(小山田上杉藤朝)、疾う出会い給え。

 (それがし)は結城中務少輔が家人・多賀谷祥賀(氏家)なり。

 名門の当主らしく、潔い御最期を!」


 ついに結城勢に見つかり、包囲されてしまう。

 執拗な追撃に、顕房・藤朝を守る兵士も疎らであった。


「結城の者よ、今更見苦しき真似はせぬ。

 それ故、髪を梳く時をしばしくれぬか?」

 彼等は何を意味するか察した。


「分かり申した。

 ここに僅かですが竹に入った水があります。

 よく汚れを洗い落として下され」

(かたじけな)い」


 上杉顕房・上杉藤朝は泥の着いた顔を洗い、櫛で髪を梳かせた。

 そして持ち合わせていた香を焚き、最後に脇差を水で濡らす。

「武運が無かったな」

「はい、公方は思うた以上に強う御座いました」

「心残りは倅の事じゃ。

 まだ五歳になったばかりじゃ」

「致し方有りませぬ。

 御先代様(扇谷上杉持朝)にお任せしましょう」

「そうじゃな。

 父上、先に参ります、お許しあれ」

 そうして上杉顕房・上杉藤朝は自害して果てた。


 ここに山内上杉家、扇谷上杉家は共に当主を失う。

 これで足利成氏の勝利は確実だと思われた。

 坂東の多くの武家も、ここまで完璧な勝利を見たのは初めてであろう。

 あとは鎌倉公方が京に勝利報告をし、関東管領を別な家に換えて終えてくれる事を期待した。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「まだじゃ、まだ終わらぬよ」

 当主不在の山内上杉家の実権は、この長尾景仲にあった。

「左様、我々の戦はこれからじゃ」

 当主不在の扇谷上杉家だが、家宰の太田資清と先代・上杉持朝がまだ健在であった。

「京の管領殿には既に書状を送ったのだったな」

「御意」

 政治的な手は先に打っていた。

 これから成氏がどう報告をしても、先に届いた報告の方が優先されるだろう。


 享徳の乱は、まだ始まったばかりであった。

おまけ:

鎌倉・西御門邸の変で手柄を立て、足利成氏から感状を受けた岩松持国は、負傷を押して本領に戻った。

そして上杉方に味方する上州一揆を討つか、降して味方とすべく動き出した。

まず茂呂(伊勢崎)に陣を張る。

享徳四年三月二十四日、那波掃部助を攻めてこれを降す。

岩松持国の嫡男は三郎成兼(しげかね)といった。

「成」は足利成氏から一字拝領したものである。

この岩松成兼率いる軍勢が富塚城に小柴刑部左衛門尉を攻め、これを討ち取る。

このような岩松一族の活躍で、上野国東部は足利成氏陣営の手に落ちていた。

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