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享徳の乱、其の弐~長尾景仲の復帰~

※享徳三年は西暦にすると、十二月十二日までが1454年、十二月十三日が1455年1月1日となります。

 西御門邸の変で関東管領が討たれ、自分の義兄弟・長尾実景が死んだ時、前の山内上杉家家宰・長尾景仲は長尾郷の御霊宮に泊りがけで参詣していた。

 変事を聞くと、景仲は直ちに命を下す。

「直ちに鎌倉に人をやり、北の方様(憲忠の正室・扇谷上杉持朝の娘)を糟谷館に落ち延びさせよ!」

「管領屋敷に火を放て!」

「糟谷館の道朝様(扇谷上杉持朝)、弾正様(顕房)、道真殿(太田資清)に変を知らせよ。

 そして館の守りを固めるよう申し伝えよ」

「平井城に人をやれ。

 直ちに兵を集めよ」

「京に使者を立てる。

 祐筆を呼べ。

 これよりわしが申す事を筆記せよ」


 矢継ぎ早に命令を出しながら、景仲は心の中で泣いていた。

(殿、相済みませぬ。

 公方奴の企みに気づく事すら出来ませなんだ。

 上杉家と公方との不仲を見るに、気づいて然るべきでしたものを……)


 悔やんでも悔やみ切れない。

 だが、それを表情に現さず、景仲は周囲に告げた。

「公方の命等反故にする。

 わしが家宰に復帰する。

 不服のある者は申し出よ」

 誰も文句は無い。

 山内上杉家家宰として長尾景仲が復帰した。


 長尾景仲は政治的に動く。

 真っ先に京に「鎌倉公方御謀反」と報告を送る。

 そして足利成氏の弟・勝寿門院成潤を調略する。

 成潤は密かに反成氏の神輿となる事を約束してくれた。

(兄弟相討つとなれば、鎌倉公方の戦の正統性も疑問に思われるだろう)

 景仲はそう計算する。


 一方、鎌倉公方陣営は軍事的に動く。

 かなり素早い。

 関東管領を討ったその日、享徳三年(1455年)十二月二十八日すぐに、総大将・足利成氏は簗田持助を先陣に鎌倉を出陣する。

 同時に武田信長、里見義実、一色直清の軍勢約三百騎も別動隊として出撃した。


 扇谷上杉家の拠点・糟谷館(伊勢原)には既に急報が届いていた。

 家宰・太田資清は被官衆を集め、落ち延びて来た山内上杉家の衆を糾合している。

 山内・扇谷両家合わせておよそ千騎。

 糟谷館の守りを固める一方で、鎌倉を攻めるにも守るにも丁度良い島河原(平塚)まで兵を進めていた。


 明けて享徳四年正月六日。

 島河原の陣の総大将は扇谷上杉持朝だが、兵を指揮するのは家宰たちである。

「太田殿、此度は御助成痛み入る」

 山内上杉家家宰・長尾景仲が扇谷上杉家家宰・太田資清に挨拶する。

「なんの。

 我等上杉家は一蓮托生。

 困った時はお互い様じゃ。

 今も武蔵国、上野国から被官衆が集結しておる。

 大軍を揃えたら、鎌倉に逆撃を掛けようぞ」

「おお、頼もしい。

 しかし、返す返すも江ノ島を落とし、公方奴を挿げ替えておくべきだったと悔やまれてならぬ」

「長尾殿、過ぎた事を申しても仕方が無い。

 これからの事よ。

 すぐにでも新しい関東管領を立てねばなりませぬな」

「それは抜かりなく進めております。

 亡き殿の弟御、八郎様(上杉房顕)を次の管領にと、京へ既に使者を送っており申す」

「八郎様は京の室町殿(足利義政)にお仕えしているのでしたな」

「左様。

 それ故、京の公方様には話を通しておかねばなりませぬ」

「そして次の鎌倉公方には、今の公方の弟の勝寿門院を据える、か」

「いや、あの者は単なる公方への当て馬よ。

 室町殿の弟君を下向させて新たな鎌倉公方に、これが京の意向じゃ」

「ううむ……、それではこの地の者がどう思いますやら。

 関東は代々、入間川殿(足利基氏)の子孫を奉じて来ましたからなあ」

「入間川殿の系統はもう駄目よ。

 気性が荒く、我等の手に負えぬ。

 京と争うか、京の言いなりになるかで、わしは言いなりの方がマシじゃと思うがの」

「それはまあ、人それぞれであるのお。

……それにしても陣が騒がしいな、何事じゃ」

 長尾景仲と太田資清が話している本陣に、物見の者が駆け込んで来る。


「鎌倉より軍勢が押し寄せて参りました」

「なに!?

 早過ぎるぞ。

 奴等はもう兵を揃えたというのか!」

「……先日の鎌倉を襲った大地震動」

「む……、そうか、町を立て直す名目で集めた兵をそのまま出して来たのか」

「だが、それにしてもいまだ二十歳にもならぬ公方の考えた事ではあるまい。

 もっと戦慣れした者じゃろう」

「武田右馬助、結城中務、千葉下総の大叔父・馬加某辺りであろう」

「今は戦いに利非ず。

 退け! 退けぃ!

 全軍後退じゃ!」


 奇襲は成功する。

 武田信長を先陣に三百騎程の公方軍は、優勢な筈の千騎余の上杉軍を圧倒する。

 信長は里見義実に右側面を、一色直清に左側面を攻撃させ、三方より包囲した。

 こうする事で実数よりも多いように錯覚させる。


 島河原の上杉軍を撃破すると、信長はそのまま糟谷館を落とすべく兵を進める。

 そこに信長出陣の報を聞いた嫡男・信高、土屋景遠、加藤梵玄が兵を率いて合流する。


「悪八郎殿!

 これは一体何とした事じゃ」

「見ての通りじゃが」

「いや、鎌倉で関東管領を討った事は聞いた。

 だが、余りにもせわしない。

 兵を集めるにも時が要るのじゃぞ」

「そんな悠長な事を言っていたら、上杉が大軍を揃えてしまう。

 ここは上杉の支度が整う前に、攻めて、攻めて、攻めまくるのじゃ」

「グワッハハハ!

 戦についてはその通りじゃろう。

 我等は右馬助殿の下知に従うまで。

 それはそれとして、聞いて良いかの?」

「何か?」

「何故鎌倉公方に与力された?

 右馬助殿は上杉殿に遺恨は無いし、京とも関わりを持っているではないか。

 永享の時のように、鎌倉公方と敵対する事も出来たであろうに」

「その事か」

 信長は語る。


「わしは鎌倉と京の両方の公方に仕えた。

 そして鎌倉と京の両方の管領を見て来た。

 関東は真実、飢えた野獣たちの住まう地よ。

 畜生界、修羅界と言うに相応しい。

 じゃが、京は魔界じゃ。

 魑魅魍魎が跋扈しておる。

 天魔王であられた普広院様(足利義教)は恐ろしく、わしは好きじゃった。

 じゃが、管領たちは違う。

 怖くは無い。

 じゃが油断も隙もならぬ。

 普広院様が居られぬなら、わしは京よりこの修羅界・関東の方が好きじゃの。

 この狂気と暴力と真っ直ぐな野望の蔓延る地こそ武家の地よ。

 そこがそこらしくある為に、わしは上杉殿を討つ事にした」


 これは、関東の武家には多少なりとも共有されている感情であろう。

 古来、京の事情で振り回されるのを関東の武家は好んでいない。

 平安時代末期に、摂関家と寺社に加え、院や平家という権力が出現し土地所有について混乱した。

 源頼朝の出現は、混乱した土地所有を整理し、複雑な京の納税先との取引窓口として代行する存在が好ましかったからだ。

 かつて、どの権力についていれば安泰か分からず、寄進先が没落すると簡単に土地を奪われたり、平家による恣意的な嫡流変更という介入があり、それが「鎌倉」という武家政権誕生に繋がった。

 今、かつての院・摂関家・寺社・平家と同じような事を管領がやっている。

 「鎌倉」は再び求められるのだ。


 一方で関東の武家にとって、京は取引相手でもある。

 組合の代表である「鎌倉殿」は、ちゃんと交渉してくれたら良い。

 交渉の材料として武力を用いるのは良いが、本気で京と手切れになられても困る。

 平将門のような坂東独立を図った者は、英雄としては祭り上げるが、現実に着いていくかどうかは分からない。

 そんな中、信長は京に喧嘩を売る道を選択したようだった。


「グワッハハハ、右馬殿らしい答えよ。

 もう一つ聞きたい。

 同じような事を考えた先代の公方には逆らい、今の公方には従う。

 これは如何なる理由じゃ?」

「知れた事。

 長春院殿(足利持氏)は気に食わぬ。

 今の公方は気に入っておる。

 それだけの事よ」

「グワッハハハ!

 ならば良し!

 ではわしも、気に入っている其方の為に、老骨に鞭打ってまだまだ働かせて貰おう!」

 



 信長の所領・曽比と千津島(足柄)は糟谷館を鎌倉と挟撃する位置に在る。

 信長がこの方面の大将を任されたのは、それもあっただろう。

 信長隊は糟谷館にも攻め寄せる。

 ここの当主・扇谷上杉顕房は、公方勢の盛んな相模での防戦を断念し、武蔵国に一族郎党を引き上げる。

 信長は難なく糟谷館を手中に収めた。


 一方、総大将たる鎌倉公方・足利成氏は信長の島河原合戦前日、一月五日に関東の重要拠点・武蔵府中を占領していた。

 成氏本人は高安寺に入り、そこに本陣を置く。

 兵力はおよそ千騎。

 武田信長は、糟谷館占領後、すぐに兵を武蔵府中に向ける。


 相模・武蔵と先手を取られっぱなしの上杉方は、上野国にて巻き返しを図る。

 山内上杉家本拠地・平井城にはやがて、鎌倉公方軍本隊の倍の約二千騎が集結した。


「よし、我等はこれより府中の奪還を行う。

 公方の首を挙げよ!」

 大将・扇谷上杉顕房、先鋒は犬懸上杉憲秋、部将として長尾景仲、太田資清・資長父子、大石房重、小山田上杉藤朝といった陣容である。


 上杉軍は一月二十一日には府中に程近い、分倍河原に着陣した。

 ここはかつて、新田義貞が鎌倉を攻撃する際に、迎撃に出た北条家の軍勢を打ち破った古戦場でもある。


 足利成氏は命を下した。

「これより打って出る。

 我に続け!」

おまけ:

西御門邸で手柄を立てた岩松持国であったが、同時に負傷もしていた。

襲撃の翌日、十二月二十九日に足利成氏から感状を貰う。

「だが、しばらくはわしではなく、身内の者を陣代に立てた方が良いな」

岩松持国は分家の里見、世良田の衆を成氏に付ける。

成氏もこれを認め

「しばらくは上州一揆に対する慰撫を行うように」

と、政治向きな仕事を命じたのであった。


……一方、同じように襲撃に関わり負傷していた結城成朝は、

「戦場こそ生きる場よ!」

と怪我を押して出陣していった。

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