享徳の乱、其の壱~西御門邸の変~
平安時代、坂東に平良文という武士がいた。
陸奥守、そして鎮守府将軍を勤めた。
坂東独立を志した平将門に味方している。
彼の子孫には
・三男平忠頼系:千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏
・五男平忠光系:三浦氏、鎌倉氏
といった武家が出る。
更に鎌倉氏から大庭、梶原、長江、長尾、安積、板倉、香川といった武家が出る。
この惣領格である千葉氏は坂東における名族中の名族であった。
享徳三年十二月(1455年)、武田信長は鎌倉公方・足利成氏に招かれる。
娘婿の里見義実も付き従う。
鎌倉の公方屋形には他に何人か呼ばれた武将たちがいた。
其の面々は
・下総の結城成朝
・下総の馬加康胤(千葉胤宣の代理)
・下総の簗田持助
・下総の印東式部
・下野の小山持政
・上野の一色直清
そして
・上野の岩松持国
であった。
総州平氏の惣領格の千葉、頼朝以来の名門・印東、秀郷流の本家筋・小山、新田の惣領・岩松といった面々が集まれば重大事かと疑われるだろう。
これに没落したとはいえ名門の武田、結城、里見、そしてそれよりは軽格の簗田や一色が会するのは解せない。
陰謀を疑われる。
だが、鎌倉の震災復興に対する謝礼の酒宴なら怪しまれずに済む。
更に復興の為という名目があれば、兵を集めていても問題は無い。
後醍醐天皇の無礼講に倣っても良かったが、余りそっくりに真似ては察知されよう。
この席で、足利成氏は挙兵計画を皆に明かす。
一同は静まり返る。
それは忠義とかの問題ではない。
忠義とか、誰に対しても余り有るものではないが、心情として彼等は鎌倉公方寄りではある。
岩松持国や結城成朝のように、成氏が大好きな者もいる。
それとは別に、彼等は頭を働かせる。
(その挙兵は勝算の有るものなのか?)
なにせ関東は、京の軍勢に二度敗れている。
永享の乱と結城合戦である。
この時期、経済力も軍事力も明らかに西高東低であった。
四方弓や、結城合戦で用いられた井楼戦術に、騎馬戦で勇猛な坂東武者は苦杯を飲まされている。
公方の為に戦うのは良いが、負けるのは御免だ。
だが、その辺の心理をまだ数え十七歳の苦労人・成氏は読んでいる。
「今の上方は、永享の頃とは違う」
成氏が語る。
永享の二つの戦役、永享の乱と結城合戦。
この先手を務めた信濃小笠原家が分裂状態なのだ。
信長の親戚・小笠原政康の死後、政康の長男・宗康と畠山持国が支持する小笠原持長との間で家督争いの合戦が起きた。
この戦いに持長が勝利する。
しかし、管領が細川勝元に交代すると、宗康の弟・小笠原政康次男の小笠原光康が信濃守護となる。
その後、再び管領が畠山持国に交代すると、小笠原持長が信濃守護となる。
この京による介入で、小笠原持長と小笠原光康との関係は最悪となっていた。
小笠原家の分裂で、東山道筋の大将は不在となる。
身内の事だけに、信長は頷く。
彼の実家の甲斐武田家も、京による小笠原光康擁立の為に信濃に兵を出したりしていた。
(戦の苦手な兄上から、泣き言の書状が来ておったわい)
次に奥州である。
ここには結城家や小山本家を凌駕して小山党の惣領となりたい白河結城家や、混乱があれば首を突っ込む伊達持宗が居る。
伊達持宗などは永享の乱では京に味方し、結城合戦では京方の篠川公方殺害に関与するといった具合に動向が読みにくい。
「だがここは、先の大地震動により動ける状態ではない」
割と被害が大きかった上野国住人の岩松持国は理解出来た。
続いて越後である。
ここは現守護・上杉房朝と守護代・長尾邦景が組み、父の前守護・上杉頼方を破って国を奪った。
その上杉房朝の死後、養子の房定が後を継いだが、この房定は足利成氏復帰の為に京に働きかけた内の一人である。
成氏を危険視した守護代・長尾邦景を、上杉房朝は捕縛して切腹させた。
この上杉房定は味方と見て良いだろう。
最後に東海道筋である。
ここは先手大将として今川範忠の出陣が予想される。
足利成氏は、今川に対する秘策を持っていたが、それはこの場では明かせない。
種明かしはしない方が良い策であったからだ。
その後方を見ると、こちらは混乱している。
越前・尾張・遠江三国の守護・斯波家で当主の斯波義敏と、守護代・甲斐常治、織田久長、朝倉孝景の家臣団が対立している、
美濃に目を向けると、守護・土岐持益は発狂状態から回復したものの、実権は守護代・斎藤利永が握るようになった。
各地このような感じである。
何個かは、畠山持国と細川勝元の権力争いの結果で国を乱されている。
このような状態で、細川勝元が足利成氏討伐の命を出しても、従う大名は少ないだろう。
これで将軍・足利義政が指導力を発揮すれば、日本全軍が動くかもしれない。
しかし足利義政は、細川勝元と山名持豊が裏で糸を引いていた畠山家の御家騒動に対し、怒り心頭なのである。
細川勝元には被官を切腹させ、山名持豊に対しては討伐命令を出す。
山名持豊の隠居という形で矛を収めたが、京は一枚岩と言える状態ではない。
「然様な状態であるに、坂東武者が勝ち目無しと怖気を振るうや?」
あえて煽ってみる。
勇猛を以て鳴る坂東武士が、こう言われて黙っている訳はない。
「鎌倉殿!
某は兄や父の名を辱めぬ者で御座る。
勝ち負けは問いませぬ。
鎌倉殿に従い、討ち死にしましょうぞ」
結城成朝が真っ先に加担を誓った。
「各々方、しばし聞いてくれぬか」
信長が口を開く。
成氏は、反対されるかと思い、身構える。
だが、信長が言うのは反対意見ではなかった。
「某は、知っての通りかつて鎌倉殿の父君・長春院殿(足利持氏)と争った。
その際は京に身を寄せていた。
また、鎌倉殿復興の為、何度も関東管領の使いとして京に参った。
そのわしが見るに、武将として怖いのは山名の入道殿(山名持豊)だけじゃ。
今の細川殿はそれ程詳しくはないが、管領は武家にして武家に非ず。
あれは公家のようなものじゃ。
斯波武衛家は武将としても強いが、今はそれどころではない。
鎌倉殿の見立て通り、勝算は有ろうぞ」
一同は安心したように息を吐く。
そして信長は続ける。
「わしの元には、西国で使われている弓がある。
それを鶴岡八幡宮の神人に伝え、同じ物を作らせた。
わしの義兄は、鶴岡八幡宮の宮司の娘を娶っておるで、その縁を使われて貰った」
神社では流鏑馬神事や通し矢、破魔矢等の弓に関わる事が多い。
神社は弓の技術者を抱えていたりする。
信長が京の弓の技術を伝え、製法を再現させる事で、これまで京方や関東管領方が使っていた四方弓が量産可能となった。
上方の軍事的優勢の一端が関東のものとなったのだ。
「なるほど。
武田右馬助殿がそう言うなら、京方にも勝てそうじゃな」
「問題は関東管領か」
「上杉家さえ倒せば、何という事もあるまい」
「いやいや、上杉家よりも家宰の長尾や太田であろう」
「如何様、如何様」
どうやら衆議は決したようだ。
「ここに居る者は、須らく公方様の下知に従います。
何なりとお申し付け下され!」
一同平服し、足利成氏に忠誠を誓った。
「それにしても鎌倉殿。
随分と詳しく京の情勢をご存知でしたな。
さては随分と前から……」
「右馬助、皆まで言うな。
わしとて思うところはあったのよ」
この辺り、若いが確かに足利持氏の子であると言えよう。
彼は雌伏しながらも、京に黙って従う気は無かったようだ。
協調路線は取っても、臣従をしない。
その気骨を、ここに居る関東の名だたる武家は喜んだ。
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年の瀬も近い十二月二十七日、関東管領・上杉憲忠は鎌倉公方の西御門邸に呼び出される。
地震の事もあるが、そろそろ正月を迎える。
正月は元旦には関東管領が拝謁、二日は相模守護・安房守護のいずれか、三日は常陸守護・下野守護のいずれか、七日が政所、十日が小侍所・評定奉行・侍所、十二日が勝長寿院、十三日は月輪院・遍照院・一心院、十五日が上総守護・下総守護のいずれか、十六日には鎌倉五山の寺院、十八日は藤沢清浄光寺、十九日以降に奉行衆といった御対面儀礼が決まっている。
この儀礼の間でも、五日に関東管領邸への御行始、十一日に評定始、十七日に的始という年中行事がある。
年が明けてから打ち合わせしても間に合わない。
大晦日までに行事について詰めた話し合いをしておく必要があった。
年末を前に、関東管領は身の危険を感じていなかっただろう。
当たり前のように西御門邸に入る。
そして、暗殺されてしまった。
結城成朝の家臣金子氏家・高経兄弟が上杉憲忠に襲い掛かり、丸腰の関東管領を殺害する。
それと時を同じくして武田信長・里見義実・岩松持国そして印東式部率いる三百余騎が、管領屋敷を襲撃した。
震災復興を名目に兵を呼んでいた為、鎌倉府内に軍勢が居ても気に留めていなかった。
管領屋敷には、長尾景仲に代わって山内上杉家家宰となった長尾実景と、その子・景住が居た。
彼等は一体何が起こったのか、分からないままに完全武装の兵に襲われる。
管領屋敷に居たのは、関東管領の身の回りの世話をする二十二人のみ。
全員が討ち死にし、長尾実景は岩松持国によって首を打たれた。
「管領を、庭に置いてはならぬ」
妙な部分では礼儀を尽くす成氏。
畳を敷かせ、その上に上杉憲忠の首を乗せて実検する。
上杉憲忠を討った金子氏家には、多賀谷の苗字が与えられ、今後は陪臣である彼等も公方と面会出来る、その際畳を敷けるという特権が褒美として与えられた。
「関東管領は討った。
だが長尾左衛門入道(景仲)、上杉弾正(扇谷上杉顕房)、太田道真(資清)が居る。
直ちに兵を発せよ」
後世の歴史区分で言う「戦国時代」。
この幕開けがこの戦乱「享徳の乱」だと言う者も居る。
武田信長は、戦国時代の幕を開けた者の重要な一人であった。
おまけ:
「おお、岩松右京大夫殿とは其処元か!」
武田信長が岩松持国に声を掛ける。
「ええと、武田右馬助殿……でしたな。
わしに何か?」
「いや、なに、岩松家とはちょっとした縁が有りましてな。
弟? 従兄弟? ……の治部大輔殿(岩松長純)とですな」
「………………」
「以前の名は源慶坊、その前は土用松丸……だったかの」
「存じておる……」
(こいつか! どこぞで野垂れ死んだかと思った従兄弟を生かしたのは!)
とはいえ、岩松持国は結城合戦の折、岩松長純の情報提供により合戦を控え、
結果として勢力を維持する事が出来た。
信長が岩松長純を生かしたのは、余計な事だったか、良かった事だったか。
これより後、京に仕えていた時とは逆に武田信長は岩松持国の方と馬を並べて戦う事となる。