享徳の大地震
上杉憲実が関東管領であった時の話である。
彼は鎌倉円覚寺の僧快元を能化(校長)として、廃れていた足利学校を再興する。
この足利学校では三註、四書、六経、列子、荘子、史記、文選を教えた。
主な学問は儒学である。
そして儒学には天人相関説がある。
天と人とに密接な関係があり、相互に影響を与え合う。
人君の政治が乱れると天地の陰陽も乱れて災異が生じるという。
そんな視点で享徳三年を見ると……。
享徳三年十二月十日(1454年)、相模国曽比に居た武田信長は、突然の大きな揺れに驚かされる。
「なんじゃ、今のは?」
「地揺れに決まっており申そう」
「随分と大きい……」
「悪八郎殿!
ボーっとしていなされるな!
誰かある?
領内を見回り、領民、配下の地侍に被害が無いか調べて参れ。
それと手の空いておるものは、屋形の後片付けじゃ!
愚図愚図するな!」
土屋景遠が、啞然としている信長に代わり、曽比・千津島における地震の実態調査と事後処理の指揮を執る。
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これより十七日前、享徳三年十一月二十三日に奥州にて大地震発生。
地震動そのものの被害が大きかったのは、会津、上州、そして上総国であった。
会津近くの南奥州の諸大名は多かれ少なかれ被害を被った。
陸奥国は鎌倉府の管轄である。
震災報告が鎌倉府に届く。
この地震で海岸線百里に渡り津波が押し寄せたという。
津波は山の奥にまで到達し、引き波により多くの人が沖へと流された。
余りの被害の大きさに、大名たちは他者からの干渉を嫌う普段の態度を改め、関わりの深い鎌倉府からの支援を求めて使者を送る。
上野国新田荘の岩松持国も、領内に大きな被害こそ無かったが、人心安定の為に世良田神社に祈祷を頼む。
大名たちは鎌倉殿による神社への参詣と、災害復旧の為の財政出動を求めた。
鎌倉府は広大な直轄地を持つ。
農産地よりも、鎌倉街道の要所や、河川や海の重要港湾を持つ。
六羅(金沢)、神奈川、品川等を持ち、そこに入港する船から帆別銭(帆の大きさに応じた税)を徴収する。
利根川、渡良瀬川、鬼怒川、江戸川といった水系の上流に位置する古河もまた、直轄領・鎌倉御料所の一つであった。
京の公方が南朝対策の一環で、朝廷より寺社に発給する免許の利権を奪ったのと似ているが、鎌倉府もまた寺社の造営や修理の権利を握っていた。
そして上記税の徴収を寺社に代行させる。
こうして鎌倉府は東国一の経済力を持っていた。
この経済を使った財政出動をどうするかについて、公方・足利成氏と管領・上杉憲忠、実際は執事である長尾・太田・扇谷上杉家が対立する。
地震の後、これ以上の災害を防ぐべく天に祈る為、鶴岡八幡宮や箱根権現へと参詣し、願文を収め、金銭を奉納した。
また鎌倉五山と呼ばれる寺院他、各地の寺に加持祈祷を命じる。
ここまでは問題無かった。
だが、大名への財政出動には上杉家が承諾を出さない。
入間川流足利家のみならず坊門流足利家にとっても聖地である下野国足利荘、鎌倉街道の最重要拠点武蔵府中、更にかつて執権北条氏が所有していた相模国の重要荘園・愛甲荘といった重要拠点は、公方にとっての執事である関東管領が代理で管理している。
宗教行事に銭を出さないような非常識はしないが、各地への財政出動となれば話が違う。
鎌倉府運営の為の資金である。
もっと本音を言えば、上杉家の為の資金である。
どうして他所の為に出す事が出来ようか。
それに、鎌倉公方右馬頭足利成氏の名で見舞金等出せば、公方の声望が高まるではないか。
あくまでも公方は神輿、公方の名を使うにしても実施者は関東管領でなければならない。
享徳大地震の被害は上総国にも及んでいる。
上総国は、扇谷上杉家が管理しようとしている。
関東管領は、この上総国には資金供出を行った。
復帰した太田資清が上総国に渡り、津波被害の調査と、壊れた寺社仏閣の修繕費用を算出する。
それについてはあっさりと通る。
「里見大隅守(義実)、安房国の地震被害を調べよ。
三浦介(三浦時高)は里見大隅の渡海を手助けせよ」
鎌倉公方がこう命じる。
それに対し、太田資清が猛抗議を行う。
安房国も扇谷上杉家が影響を及ぼそうとしている。
他者に、公方の側近等に入り込まれても困るのだ。
そして、困った事に京の管領細川勝元は
「関東管領の添え状無き命令は無効である」
と通達して来ている。
政略のみの怪物・細川勝元には地震被害等知った事ではない。
自分に従う上杉家を大事にし、独立勢力である鎌倉公方の権威が失墜するなら、被災地が苦しんでも気にも留めない。
大体、京の勝元からしたら、奥州・北坂東の地震など、実感の伴わない他人事でしかなかった。
朝廷にも天災を理由とした改元を申し出る者が居ない。
こうして寺社参拝、加持祈祷、願文奉納以外に具体的な事は何も出来ないまま、十七日後に今度は南関東・鎌倉一帯で大きな地震が起こったのである。
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「地震は天災でなく、怪異である。
火神、水神、龍神、金翅鳥、天王(帝釈天)いずれかの仕業である」
これは陰陽師の解釈である。
凶事が起こる前兆とされる。
「釈迦が会衆に囲まれて説法し、瞑想に入ると、花の大雨が降り注ぎ、全土で地震が起きる」
これは法華経序品に記載されている。
これに対し儒学の地震に対する解釈はこうである。
「地震は、人君の政治が乱れた時、天地の陰陽も乱れて起こるもの」
天災とは為政者の不徳によるもの。
故に天が為政者を譴責して地震が起こる。
この天譴思想は陰陽道や仏教の地震に対する解釈と混ざり合う。
関東で大地震が起こった。
鎌倉で都市が損壊する被害が出る。
既に奥州で津波を伴う地震が起こったのに、またしても地震である。
足利成氏には思うところがあった。
「これは、わしが為すべき事を為さぬから、天がわしを譴責したのだ。
だが、わしは為すべき事をしようとしなかったのではない。
させて貰えなかったのじゃ。
為すべき事をさせなかったのは関東管領と、その家宰どもである。
ではあっても、天はわしに対して怒っておるのじゃ」
さらにこうも思う。
「今、京の管領は関東に干渉している。
さらに各地の家督の事をかき乱し、地を乱している。
分を弁えるという言葉があるが、管領は職分に於いて上下の分を弁えず、京と関東の境も冒しておる。
大地震動は斯様な乱れた行いが理由だろう」
関東では足利学校で儒学が教えられている。
朱子学ではなく、易経・易学や孟子を習う。
凶兆を予測し、大義名分にそれを求める。
となると「正しい政治をしていないから地震が起こる」という結論に繋がる。
それは足利成氏にしたら自分のせいではない。
関東で邪魔をする上杉や、京で介入を繰り返す細川のせいなのだ。
「だが、わしの責とされ、公方の座を追われかねない……」
鎌倉に被害が出る地震、宣伝次第では「鎌倉公方に徳が無いから天災が起こった」とも言われかねない。
すると彼は交代させられるだろう。
鎌倉に摂家将軍や宮将軍が居た頃、家人である執権が将軍の首を挿げ替えた前例もある。
武田信長から伝え聞くに、「万人恐怖」足利義教とて先代鎌倉公方・足利持氏とその一族を滅亡させたものの、鎌倉府そのものを潰すつもりは無かったという。
自分の子の一人を鎌倉公方として下向させ、足利基氏以来の入間川流から自分の系統に乗っ取ってしまおうと考えていたという。
当時、まだ子供たちが幼かった事と、入間川足利家に忠誠を誓う当時の関東管領上杉憲実の反対で実現しないまま、足利義教は赤松満祐によって暗殺される。
その後は畠山持国による復古政策で、入間川流の足利成氏が亡き父の後を継ぐ事が出来た。
しかしそれがいつまでも安泰とは限らない。
既に畠山持国は失脚した。
上杉憲実は放浪の旅に出て、その子世代は若い。
若い上杉家当主を補佐する家宰たちは、自分を廃したがっている。
鎌倉幕府においては「在任期間が長い」という理由だけで、執権が将軍を京に送還したりもした。
関東管領が、いつ鎌倉幕府執権に倣うか知れたものではない。
それを細川勝元が支援するかもしれない。
京において細川勝元に恩を売られ、関東において山内家宰長尾・扇谷家宰太田が実際には差配する上杉家に補佐される鎌倉公方。
細川勝元にしたら自分に従う地域や家が増えて嬉しいし、長尾・太田にはその気は無いかもしれないが、管領の下の執事が力を持てば管領上杉家の力も削ぐ事が出来て万々歳だ。
(わしは極めて危うい)
そう思ってしまう。
(細川右京兆(勝元)という男、厄介な男よ)
足利義持は、古き建武体制への復帰と維持を目指していた。
足利義教は自分による統一統治を志向していた。
畠山持国はその義教路線を徹底的に否定し、その前の状態に戻そうとした。
それらに対し、細川勝元は何がしたいのか分からない。
反畠山持国で動いていたのだが、それとて権力掌握の為の方便に過ぎない。
なりふり構わずに権力を得る為に仕掛けて来る相手。
それに対するには自分もなりふり構っていられない。
覚悟をする足利成氏。
だが、どうすれば良いか?
兵を集めたりすると、上杉家に察知され先手を打たれかねない。
「公方様に申し上げます。
武田右馬助殿、里見大隅守殿、兵を引き連れて鎌倉に向かっております。
侍所への届け出によると、鎌倉の町を立て直す手伝いに参るそうです」
一色直清が注進する。
「そうか!」
成氏は何かに気づく。
「小山下野守(持政)殿、多数の家人を引き連れ、お手伝いに参りました」
「新田右京大夫殿(岩松持国)、人足を連れて若宮大路の修復作業に取り掛かりました」
「結城中務大輔殿(成朝)、一族郎党を引き連れて御所を直しておられます」
簗田持助や一色直清が、鎌倉公方の為に馳せ参じた武将たちの名を告げる。
侍所の千葉胤宣と若年の当主を補佐する大叔父・馬加康胤が、それらの武将たちに入府許可を出し、復興作業を行わせていた。
「そうじゃ。
わしには、わしを求める者たちが居った。
それに、鎌倉の町や屋形や八幡宮の修繕であれば、兵を動かしても怪しくは無い」
足利成氏は一色直清と簗田持助に命じる。
「今、関東管領ではなく、わしの為に働く者を見極めよ。
そして、酒宴に招くのじゃ。
礼の席という事でな。
じゃが、分かるであろう?
それは単なる宴席ではない」
皆まで聞かねば理解出来ないような者では、鎌倉公方の側近等勤まらない。
彼等二人は、信頼がおける者を見定める。
そして武田信長と里見義実は、足利成氏から鎌倉復興作業への礼という名目の酒宴に招待された。
おまけ:
津波がもたらした砂等から推定すると、享徳大地震は貞観地震、後の慶長三陸地震、明治三陸地震、そして東日本大地震に匹敵する津波被害を出している。
そこから推測されるマグニチュードは最小で8.4とされている。




