帰ってきた信長
甲斐国は四郡:山梨郡・八代郡・巨摩郡・都留郡
・山梨郡は現在の山梨県を東西中に三分した中部の北側
・八代郡は現在の山梨県を東西中に三分した中部の南側(富士川以東)
・巨摩郡は現在の山梨県を東西中に三分した西部
ここまでが国中地方。
・都留郡は現在の山梨県を東西中に三分した東部
ここが郡内地方となる。
「グワハハハハ、武田の御曹司、よう戻られた!」
武田信長を出迎えた巨漢・加藤梵玄入道が豪傑らしく豪快に笑う。
坂東は武家の本場で、色々古い家系だらけだ。
この加藤梵玄も、源頼朝に仕えた加藤景廉の子孫である。
源頼朝が甲斐源氏粛清を行った時、加藤景廉は梶原景時と組んで、遠江守安田義定(武田信義の弟)を討った。
安田義定の所領を恩賞で得たが、後に仲の良かった梶原景時が失脚。
連座して加藤景廉は地位を失うも、次の比企能員の変で復活。
現在は甲斐国東部、郡内地方と呼ばれる場所に拠点を持っている。
ちなみに子孫には、後世に入れ墨奉行で有名になる遠山景元や伊予の大名加藤嘉明などが出る。
「まあ、わしが復帰した以上、武田は甦るさ!」
「良く言われた!
それでこそ悪八郎殿だ!
グワッハハハハ!」
(なんか、そこはかとない不安しか感じられない……)
土屋景遠は頭が痛い。
味方は?
敵の勢力は?
政治的状況は?
国内の状況は?
聞くべき話が山ほど有るではないか!
「悪八郎殿の弟御はどうなされた?」
「ああ、弟御なら同じ郡内の小山田殿が匿っておられる!」
「む? 小山田殿は生きておられたか?」
信長が驚いたのも無理は無い。
甲斐国東部、武蔵国や相模国に繋がる郡内を治める小山田一族もまた、木賊山の戦いで敗亡したのだから。
小山田氏は甲斐源氏ではない。
源頼朝が甲斐源氏を粛清した時期に、武蔵国から移住して来た桓武平氏(秩父平氏)なのだ。
大きな勢力を持ち、この武田信長の母親も小山田氏から来ている。
信長たち兄弟の母方の祖父・小山田弥次郎と、従兄弟の出羽守朝信は、木賊山の戦いに敗れ、信長の父・武田信満、土屋景遠の父・土屋氏遠らと共に腹を切った。
小山田家もまた滅亡したのだ。
だが小山田氏の中には、関東管領上杉家に仕えていた者もいる。
その上杉の家臣だった備中守信美が小山田の当主として復活する。
だが、上杉派、ひいては京の将軍派である小山田信美は、敵対した武田宗家の者を保護していた。
信長の下の弟は小山田氏の庇護の下で元服し、信泰と名乗りを改める。
「彼等の助力は期待出来るのか?」
「とりあえず敵にはならぬだろう」
土屋景遠の問いに梵玄入道が答える。
小山田家もまた、自立心の強い国人領主ではあるが、名門だけに「武田の分家風情に従うくらいなら、本家に味方する」という気風があった。
「これで叔父上が養子に入った穴山家、小山田家、そしてわしの力で甲斐は取り返したも同然じゃ!」
「まったくじゃ、グワッハハハハ!」
「いやいや、根拠も無く自信だけ持ちなさるな……」
景遠にしたら、ツッコミを入れる相手が二人に増えて疲れも倍増である。
能天気な言動をしているが、果たして相手が何もせずにいるだろうか?
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その敵対者・逸見中務丞有直は、鎌倉公方・足利持氏との関係を深めていた。
持氏の寵臣・二階堂三河守は逸見の縁者である。
二階堂一族は鎌倉幕府の昔から鎌倉府の政所執事を勤めている。
そして二階堂氏は甲斐、逸見の領土の近くに所領を持っていた。
逸見有直は二階堂三河守を介し鎌倉公方の権威を得て、甲斐における地歩を固めていた。
甲斐の国人は独立心が強い。
南北朝の動乱以降、各国の守護は国人統率を強めていた。
逸見有直の国人勧誘は、この流れの逆をいくものである。
「今更武田本家でもないだろう」
「甲斐は我々、国人たちの持つ国で良い」
「鎌倉殿が所領と家督を安堵する、それで良い、それ以上は要らない」
「京の息がかかった守護大名は不要」
源頼朝が守護に認めた権限は
・京都大番役や鎌倉警固の仕事の順番だぞ!という催促
・謀反人はおらんか~?
・殺人事件の裁判するぞ!
という三つだけであった。
南北朝時代に入り、南朝方の武将と戦う為に、あるいは南朝方の武将を懐柔する必要もある為、
・勝手に敵の田を刈り取ったら取り締まる権利
・没収した敵の所領を与える権利
・土地裁判の結果を強制執行する権利
が加わり、さらに
「これから戦争するから集まるように」
と命令出来るようになった。
こういうのは小領主たちからしたら面白くない。
「戦争は勝つ方に味方するよ!」
「敵の田から稲を刈って何が悪いのか?」
「分捕った敵の領土は、自分のものだろ!」
「裁判の結果は、自分に有利なら従うけど、不利なら従う義理はねえなあ」
これが当時の武士の中でも、まとも方である。
もっと酷い武士になると
「戦争なんか参加しないけど、恩賞はよこせ」
「没収した領土? 理由とかどうでも良いからわしによこせ」
「裁判? 裁く権利がお前にあると言うのか?
とりあえず相手は潰して所領は奪う」
なのだ。
こういう武士にとって、強い守護など邪魔でしかない。
そして東国にはこういう武士が多い。
信濃国守護の小笠原氏が負けたのも、こういう武士の集合体「国人一揆」の大文字一揆であった。
甲斐国も小さな領主、武士がまとまって支配者に対抗する気風が強い為
「京に任命された強権的な守護なんて要らない、まだ鎌倉幕府的な守護の方が良いだろ」
という呼びかけは効果があるだろう。
そして、この呼びかけに於曽家、板垣家、三枝家といった領主たちが靡く。
逸見の縁者である飯富家、今井家、溝口家という領主も有直に従う。
いわば、甲府盆地の有力領主たちは皆、鎌倉公方と逸見家に着いた。
彼等はやがて輪宝一揆と呼ばれるようになる。
一方、武田信長に従う者たちも居た。
従うというより、大将として担ごうとする者たち。
甲府盆地より北西に在る巨摩郡、ここの信濃国との国境を守る武士たちを武川衆と言った。
柳沢、牧原、山寺、青木、教来石、山高、白州といった小身の領主たちである。
彼等は盆地に住まう大領主たちと違い、国を守る為に強い指導力を求めていた。
信長は彼等の期待に応えるべく、日ノ出城に拠点を移した。
日ノ出城は、三之蔵沢が塩川に合流する地点の北の断崖の上に築かれた要害である。
この日ノ出城に集った信長派の武士たちのまとまりは、後に日一揆と呼ばれる。
甲斐は四つの盆地と多くの山地から成る。
この内、甲府盆地は逸見派が制覇した。
北西部の国中地方(韮崎市周辺)は信長の支配領域である。
他の二つの内、東部の郡内地方は独立勢力に近い加藤氏と小山田氏の力が強い。
駿河に通じる河内地方は、新守護・武田信元が養子に入っていた穴山氏の勢力圏である。
この四勢力に、信濃国佐久を拠点とした跡部氏が小笠原氏の後ろ盾で甲斐に浸透し始める。
甲斐は混沌とし始めた。
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甲斐が混沌としているのを、鎌倉公方・足利持氏はニヤニヤと眺めている。
確かに自分に従う逸見有直が守護となれば最上だ。
そうでなくても、混乱しているならそれで問題無い。
鎌倉府が担当する関八州と伊豆・甲斐・陸奥・出羽の十二ヶ国。
これらの国で、常陸国の佐竹家、下野国の小山家、下総国の千葉家、そして甲斐国の武田家は代々の守護である。
平安時代末期からその地の顔であり、鎌倉府も中々手出し出来ない。
その中で佐竹と武田という遠い親戚(新羅三郎源義光の子孫)は京の足利将軍家の家臣であり、鎌倉府には与力的に付けられているだけだ。
だから、代々の守護で、かつ京都と主従関係である武田を支離滅裂に出来たら十分だ。
「目障りな武田め、ざまを見よ!」
持氏は武田の次に佐竹氏に目をつけていた。
佐竹一門の山入与義を追い詰めている。
佐竹家の当主・佐竹義憲は、足利義持が上杉憲定の次男を養子として無理やり押し込んだ為、鎌倉派である。
これに対し、分家衆は反発している。
稲木、長倉、額田といった反持氏派を束ねているのが山入与義であった。
武田については宗家を潰し、分家を味方につける。
佐竹については宗家を乗っ取り、分家を潰しにかかっている。
足利持氏はまこと、敵対者には容赦しない。
そんな足利持氏の足元を掬う急使が到着した。
「申し上げます。
上総国で反乱が発生しました!
上総国のほぼ全ての武士が蜂起いたしました!」
持氏はこの上総本一揆に悩まされ、武田や佐竹どころではなくなるのだった。
おまけ:
新田岩松家の嫡男・土用松丸、この時九歳は突如屈強な武士たちに囲まれる。
「御祖父様、これはどうした事ですか?」
「悪いが其方は廃嫡じゃ、出家して貰う」
「へ?」
「もう準備してあるから」
「あの、父上はなんと?」
「そんなひといないよ、なにもうしておるのやら」
「御祖父様、こちらを見て話して下さい!!」
「どうでも良いから、さっさと連れていけ」
こうして新田岩松家・岩松満純の嫡男土用松丸は復帰して当主になった祖父の命で、世良田荘にある長楽寺で出家させられた。
出家後の名前は源慶。
そしてこの源慶は、上野国も追放され、幼少ながら放浪生活を強いられる。
武田信長同様、故郷を追放されて各国を放浪し、復活を目指す人生が始まった。