江ノ島合戦
文安元年七月、彗星が見える。
文安五年、近畿にて大雨、洪水、瀬田の橋が落ちる。
文安六年四月、京都で地震、仙洞御所、東寺、清涼寺破損。
さらに文安年間には洛中で疫病も発生し、多くの死者を出した。
これらが理由で宝徳と改元される。
万寿王丸は宝徳元年(1449年)、元服した。
慣例通り京の将軍・足利義成から一字拝領し、入間川流の通字と合わせ、足利成氏と名乗りを改めた。
そして従五位下左馬頭に叙任される。
鎌倉公方足利成氏、関東管領上杉憲忠という正副の支配者がやっと揃った。
だが、この体制はまだ危うい。
足利成氏は十二歳、上杉憲忠も十七歳という若年指導者である。
それぞれ後見人、執事が補佐する。
この補佐役同士が対立関係にあった。
更に、関東管領山内上杉家の有力分家・扇谷上杉家も代替わりし、上杉顕房が当主となったが、この者もまだ十五歳である。
このような状態なのに、調整役として最適の元関東管領上杉憲実は、実子・憲忠を義絶し、本人は出奔してしまった。
諸国漫遊の旅に出ているという。
足利成氏の周囲には、父や兄の死に関わる者が多数いる。
彼等を全員恨んでいては、関東の統治は出来ない。
武田信長という、鎌倉公方復興のお膳立てをしてくれた男は、父・持氏とは犬猿の仲だったという。
軍事的に支えてくれる侍所の千葉胤将の父親は、持氏の陣に居ながら決定的な場面で裏切りを演じた。
やはり有力武将の小山持政も、永享の乱や結城合戦で、持氏に味方をした結城家と戦った。
小山本家と同じ下野国の名門・宇都宮家の当主・等綱も、家督争いの関係で持氏派の宇都宮家綱と戦い、その関係で持氏とは敵対した。
これらの将は、状況が変わった今、熱心に成氏を応援している。
一方で、終始一貫した持氏派もいる。
上野国の名門・新田岩松持国は、成氏を匿った信濃の大井持光と共に、持氏派として行動していた。
中立だったり、途中離脱は有ったが、敵対は一度もしていない。
結城合戦で安王丸・春王丸を担いだ結城家も持氏派だ。
その生き残りである結城重朝は、成氏の公方就任に合わせて名を成朝に改めた。
また、武田信長の娘婿で、その推挙により近侍する事となった里見義実も、永享の乱、結城合戦共に持氏派として戦った里見家の一員である。
そして上杉家の勢力がある。
この藤原氏勧修寺流の武家は、藤原氏らしく婚姻や養子縁組で関東に勢力を広げていた。
三浦、大森、佐竹、今川といった武家と縁者となった。
もっとも、この上杉家の婚姻政策の為、上杉禅秀の乱の時は縁者の武田、新田岩松、那須、千葉といった武家は巻き込まれ、いい迷惑となったのだが。
常陸の小田持家も、上杉禅秀の乱に巻き込まれて足利持氏に所領を没収され、永享の乱と結城合戦では持氏派を亡ぼす為に戦ったりした。
だが今、小田持家は成氏に忠誠を誓っている。
こういった呉越同舟の坂東武士だったが、「鎌倉公方という神輿が必要」「京による一元管理は嫌だ」「関東の事は関東でしたい」という点で一致していた。
恐らくは誇りの問題なのだろう。
古くは平将門を討った平貞盛の子孫ながら、坂東か
ら伊勢に拠点を移した伊勢平氏、つまりは「平家」を「坂東から逃げ出した弱虫」と馬鹿にし、その命を受ける事を好まず、源頼朝を熱心に担いだりもした。
京の公方直属である京都扶持衆ですら、足利本家直属で鎌倉公方の命令の範囲外という特権を持ちながらも、地域の纏め役や寺社公家との交渉役に鎌倉殿という頼朝以来の坂東武士代表が居て欲しかった。
宗教の影響や、一族郎党分家庶家への体面が大きなこの時代、権威の代表として取り仕切ってくれる存在も有難い。
そういう意味で、鎌倉公方を気にしていないのは、直接の上にのみ忠誠を誓う陪臣だっただろう。
長尾、太田という上杉家の家宰にとって大事なのは上杉家だけなのだ。
とは言え、長尾、太田両氏にしても関東管領家の執事という半公的な立場がある。
全く鎌倉公方を無視出来た訳ではない。
だから、なるべく扱いやすい公方でいて欲しかった。
そんな長尾景仲が激怒する事件が起こる。
鎌倉公方の側近・簗田持助が相模国長尾荘を押領したのだ。
簗田は公方の命令だと言う。
長尾荘は、その名の通り長尾氏発祥の地である。
長尾景仲は成氏に抗議し、返還を求めるも応じない。
史書は「父を殺された成氏による、上杉氏一党への意趣返し」とする。
だが成氏の周囲には、上杉氏並に父や兄の死に関わる者が侍っている。
まだ若い成氏は、勢力争い、派閥争いを制御出来なかっただけだろう。
身に覚えがある方は、穿った見方をする。
「これは公方が、父の死に関わる我等上杉家に対して敵意を持っているのだ」
こう考えた長尾景仲は太田資清と組んで、鎌倉に強訴に出る。
五百騎の軍が鎌倉の足利御所襲撃の為に出陣する。
この挙を関東管領は知らない。
脅しつけて所領返還に応じさせ、以降は上杉家に断りなく勝手な事をさせないよう釘を打つつもりだったのかもしれない。
しかし、成氏周辺はそう思わなかった。
今まで父を殺され、命の危機があった中で成長したのだ。
軍勢が集まっている事を察知した時点で、成氏周辺は江ノ島に避難する。
そして小山持政、千葉胤将、小田持家、宇都宮等綱が成氏の為に出陣した。
彼等は全員、父の足利持氏とは戦い、子の足利成氏には忠誠を誓う者たちであった。
かくして、かつて足利持氏と戦った者同士がぶつかり合う。
長尾・太田勢が腰越に向かったところを、小山持政が七里ヶ浜で迎撃する。
この戦いは長尾・太田勢が勝つ。
下野国から駆け付けた小山勢は少数で、かつ疲労していた。
八十人程郎党を失い、小山持政も負傷した。
だが、時間は稼げた。
七里ヶ浜の合戦で一日時間を費やしている内に、千葉・小田・宇都宮各隊は由比ヶ浜に布陣を終えていた。
この時点で関東管領上杉憲忠の元に急報が入る。
入った内容は「鎌倉御所が何者かに襲われている」というものだった。
上杉憲忠は、側近たちを成氏の護衛の為に派遣する。
羽続、小幡、小宮山といった者の他に、長尾の苗字の者も含まれていた。
要は長尾景仲・太田資清の挙兵(強訴?)を、全く知らなかった故の混乱である。
同じ長尾一族の中ですら、情報共有はされていなかったのだ。
由比ヶ浜の合戦は、千葉・小田・宇都宮連合が四百余騎とやや少ないが、大体同数でぶつかり合う。
前日の合戦の疲労もあったのか、小山勢によって消耗させられていたのか、長尾・太田勢は百二十人程を討ち取られる惨敗を喫する。
長尾景仲と太田資清は、糟谷荘(後の伊勢原)に敗走した。
この相模国糟谷荘には、扇谷上杉家前当主・上杉持朝が隠居していた。
「お主ら、上にも内密に何をしておるのか!!」
上杉持朝は家宰たちを叱責するが、こうなってしまっては致し方無い。
持朝が知らぬと言ったところで、当時の武士に聞く耳等無い。
戦となれば、味方でないなら討ち取って、その所領を奪うまで。
防ぐには軍事力しか無い。
扇谷上杉家は手勢を集結させ、糟谷荘に立て籠もる。
関東管領上杉憲忠も事情を把握した。
そして若い彼も、誅殺される恐れを抱き、事態収拾ではなく上杉持朝に合流する方を選ぶ。
かくして図らずも、鎌倉公方対関東管領という図式が出来上がってしまった。
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「御無事で何よりです」
武田信長が江ノ島の足利成氏の元に馳せ参じた。
「右馬助、大儀である」
「はっ」
「それでじゃが、その方に頼みたい事がある」
「何なりと」
「右京亮(上杉憲忠)を帰参させて欲しい」
「何故、某が?
合戦じゃないのですか?」
「いや、その勇猛さは頼もしいが、今は事を荒立てたくない。
というのも、右京亮はわしに援軍を送って来た。
あの者は何も知らなかったようじゃ。
罰するべきは長尾左衛門尉(景仲)と太田道真(資清)じゃ。
この者を罰するよう、京に使者は送った。
わしとしては、ケジメさえつけてくれたら、それ以上は不問とする」
父・足利持氏と違うのはこの辺だろう。
持氏は謝罪だけでは許さなかった。
必ず所領没収や斬首を行い、それが関東に幾多の戦乱を引き起こした。
成氏は、自前の戦力や側近が少ないのもあり、目の前にいる武田信長のように、父の死に関わった者でも重用しないとならない。
実際のところ、学ぶに連れて父・持氏はやり過ぎていたと成氏は思う。
関東管領が形だけでも謝罪をすれば、それ以上は処罰しない。
ただし張本人(主犯)は許さん、という訳だ。
信長は自分の任ではないと思いつつも、成氏側近の一色直清と共に糟谷荘に赴く。
結論として、上杉憲忠は謝罪要求に応じた。
彼自身は七沢(厚木)に暫く謹慎する事となった。
七沢は武田信長の領地に隣接する。
信長が暫くは取次役として、公方と関東管領連署の時は書類を届ける事になった。
こういう取次役は本来強力な権力を持つのだが、信長は魅力を感じていないようだった。
(わしは奉行をするより、領土が欲しいからな)
一方で上杉憲忠は、主犯二人の処罰に関しては拒否を続ける。
上杉憲忠も若い。
長尾景仲他、長尾一族の補佐が無ければ関東管領の職務をやりにくい。
扇谷上杉の現当主・上杉顕房も事情は全く同じだ。
太田氏の補佐が無いと当主は勤まらない。
両者譲らない。
京には鎌倉公方、関東管領両方から顛末書を送っている。
これを読んだ管領・畠山持国(昨年、細川勝元と交代した)は、その守旧的な政治方針から成氏寄りの判定をしつつ、長尾・太田両家宰も
「許してやれ」
という態度を取る。
足利成氏が求める長尾・太田討伐の将軍御教書は発給されなかった。
結局、元関東管領上杉憲実の弟で出家している道悦入道(上杉重方)が説得し、
・長尾景仲は責任を負って家宰を辞し、従兄弟の長尾実景に職を譲る
・太田資清も責任を負い謹慎し、家宰職は嫡男・太田資長が代行する
・両家宰の謹慎をもって、山内上杉家、扇谷上杉家ともに赦免
という形でまとまった。
公的な謝罪や処罰でなく、上杉家家中に対する責任の取り方として、長尾景仲、太田資清の誇りは守られた。
一応はこれで、鎌倉公方と関東管領は手打ちとなる。
だが、このような曖昧な決着は、火種を残すだけであったと後日判る。
せめて長尾・太田は処罰し、その所領を没収すべきだったかもしれない。
恩賞代わりとして、成氏方の武士が長尾・太田の所領を押領し出し、長尾・太田もそれに対抗して争いが生じる。
鎌倉公方が足利成氏に代替わりしても戦乱は収まらない。
むしろこれから始まるのであった。
おまけ:
甲斐で信長の兄・武田信重が死んだ。
穴山伊豆守に殺害されたのだ。
穴山伊豆守は、前の甲斐守護・武田信元の実子である。
父の勘気を被って追放されていた。
信元が死ぬ時に許され、武田宗家継承は無理だったが、穴山家継承は許されていた。
武田信重は周囲が馬鹿にする程甘い男では無かった。
確かに軍事面では実力が無い。
それ故に政治的にならざるを得ない。
跡部家が甲斐の政治を牛耳る中、少しずつ武田宗家の被官衆を整備していく。
後の武田家が頼りとする譜代の家臣団は、信重が作り始めた。
そして分家対策にかかる。
穴山家に、次男の信介を送り込んで乗っ取った。
それを恨んだ伊豆守が信重を殺害したものだった。
甲斐を武田のものとして奪い返す政治は、子の信守に委ねられた。




