鎌倉公方の復活
※千葉氏の一門で馬加氏というのが登場した。
「まくわり」→「まくはり」で幕張一帯を治めていた武将。
政治とは、時に待つものである。
自分の事はさておき、武田信長にはその辺がよく見える。
足利持氏も足利義教も、待つ事は出来たが、それでも気が短かった。
四代足利義持が、じっと待つ事が出来る政治家であった。
晩年は何度か失敗したが、それまでの彼は非常に我慢強かった。
今、鎌倉公方の復活が坂東全土で願われている。
しかし、待たねばならない。
京の公方を差し置いて鎌倉公方が先に立つ逆転を、旧体制復活に好意的な畠山持国ですら許さないだろう。
まずは公方候補・室町殿である三春丸元服を待つ。
政治とは待つ時には待つものであるが、そこでただ待っているのは三流の政治家だ。
表立って動かずとも、密かに動いて、やるべき事はやっておく。
関東管領は機能麻痺状態である。
元管領上杉憲実が推す佐竹実定の山内上杉家継承を、長尾景仲と太田資清が手を組んで阻止した。
そして出家寸前だった上杉憲実の長男・憲忠を強引に山内上杉家当主に据える。
上杉憲忠、まだ十四歳である。
これに上杉憲実は激怒し、我が子と義絶してしまった。
そして関東管領としてはまだ任官していない。
鎌倉府は公方と関東管領の他に、侍所、政所がある。
その内、政所の別当・二階堂氏が執務に専念出来ていない。
二階堂氏の所領のある南奥州は、いまだ結城合戦の混乱が収まっていない。
石川、畠山、安積、白河結城、葦名、そして奥州の面倒事の総本山・伊達が蠢いているのだ。
伊達家当主・持宗は鎌倉府に反抗し、出張所と言える篠川御所と稲村御所を襲撃した事がある。
それは失敗し、奥州畠山氏に攻められたものの、上杉禅秀の乱で鎌倉が多忙となり有耶無耶に。
その後は京に接近し、越後の乱や永享の乱では京方として軍勢を動かしている。
その一方で結城合戦では、上杉氏に味方して結城城を攻めようとした篠川御所・足利満直が奥州諸将に攻められて殺されるという事件が起きたが、その背後には伊達持宗が居たと噂される。
恐らく伊達持宗にしたら、邪魔者の篠川御所(京方)を排除しただけと嘯くだろう。
まこと、伊達家は奥羽の面倒である。
残るは侍所で、別当な千葉氏のほぼ世襲である。
この時の別当は千葉胤将であった。
千葉胤将と大叔父の馬加康胤は鎌倉公方復活派なのだが、父であり先代の千葉胤直はかつて足利持氏と対立、永享の乱で鎌倉公方方敗戦が決定的となる分陪河原の陣からの離脱をした過去から、持氏遺児の復帰を望んでいない。
更に千葉氏は、多くの持氏側近と対立し、乱では戦ったりもした。
「それでわしが動くのか……」
家中の対立が無く、領地的にも安定している上に、表立った役職が無い為警戒されにくい武田信長が、幼少の関東管領と侍所別当、動くに動けない政所別当に代わって、鎌倉府再興の為に水面下で動く事となった。
彼自身も永享の乱、結城合戦では京方で働いた為、関東での評判が良い訳ではない。
だが武勇を好む坂東武士に対して、勇名が轟いている事はそういう細かい不満を吹き飛ばす。
なにせ、鎌倉の大軍を三度に渡って打ち破った男なのだ。
信長は、娘婿となった里見義実も使い、かつての持氏側近の係累を集める。
まず持氏側近・簗田河内守満助の子・持助を探し出す。
次に足利義教によって関東だけでなく三河守護家まで壊滅させられた一色家の直清とも会う。
梶原道景も公方復活後は仕えてくれる事となった。
面倒な大森憲頼との交渉は、土屋景遠が纏める。
足利持氏の有力武将で、武田信長の所領と隣接し、隙有らば押領を行って来る小田原の大森氏だが、持氏遺児擁立には異存が無いとして味方と相互不可侵を約束してくれた。
里見義実は相模国の東半分(主に三浦半島)を勢力圏とする三浦時高と関係改善する。
また、佐竹家に匿われていた結城氏の生き残り、重朝を訪ねる。
結城家当主・持朝は甲斐武田家が討ち取った。
その張本人である信長では、何かと気まずい部分がある。
そこで、元々は結城方であった里見義実に任される。
結城家復興が叶うとあれば、彼も新鎌倉公方に奉公すると約束した。
そして里見義実は、舅の武田信長と結城重朝の手打ちを仲介した。
長兄・持朝の仇であるが、戦場で討ち取られるのは武家の習い、気にはしていない。
むしろ名の有る武将に討ち取られるのは名誉な事である。
ではあるが、武家には体裁というものがある。
父兄の仇にホイホイと会って仲良くするのも、家人に対して示しがつかない。
里見義実の仲立ちという事で両者は会い、結城重朝が水に流すと言って手打ちとなった。
重朝にも見返りはある。
結城家再興において、兄の長朝も名乗りを挙げているのだ。
弟の重朝は、新鎌倉公方や武勇の武田信長の後ろ盾を得て、兄を出し抜いて当主となる野望を持っている。
こうして鎌倉公方復活に向けて下準備がされていくのを、憎々し気に見ている一党がある。
山内上杉家家宰・長尾景仲と扇谷上杉家家宰・太田資清である。
確かに山内上杉憲実は、持氏遺児復帰を待ち望み、山内上杉家は罪人の家として二度と関東管領に就けまいと考えている。
しかし、家政を司る長尾や太田としては、そんな理想論を受け入れる訳にはいかない。
彼等にしたら、上に忠義を尽くすが、上の上は知った事じゃない。
鎌倉公方足利家は関係無く、上杉家が強くなれば家宰である彼等の力も増すというものだ。
正直、公方は京に一人居れば良く、その下で三管領が西日本を、関東管領が東日本を治めれば良い。
関東を統べる者として、その軍事力を強化する必要がある。
しかし、上杉家は京と組んで鎌倉公方を殺した「関東の裏切り者」として、嫌っている武家も多い。
そこで一揆衆を解体し、自分の被官として組み込む事とした。
まず武蔵国の白旗一揆である。
結城合戦において、北一揆が南一揆を攻めたりして、かつてあった一揆衆内の団結が崩れている。
太田資清はそこに付け込む。
彼等は徐々に自立性を失い、扇谷上杉家の被官と化す。
相模東部の三浦時高、西部の大森氏頼(大森憲頼の兄)とも関係を深める。
元々三浦時高は、足利持氏を裏切って上杉方に着いた者だ。
男児の居ない時高に、扇谷上杉持朝の次男・高救を養子として送る。
上杉高救(三浦高救)は三浦時高の養女と結婚し、娘婿という形になった。
この三浦時高の養女は、大森氏頼と時高の姉妹の間に生まれた娘で、姪にあたる。
これをもって上杉家は、足利持氏派として戦い続けた大森氏との関係も改善出来た。
扇谷上杉家による一揆衆の被官化は房総半島にも及ぼうとしていた。
扇谷上杉家の分家である千秋上杉家が、上総守護、安房守護となっている。
ここを介して自立性の強い上総や安房の国人領主を被官化したい。
三浦時高は上総・安房へも影響力を持っている。
三浦半島にある走水から房総へ至る水路は、古くから交易に使われていた。
鎌倉時代、三浦の分家が安房国和田を領有し、それが鎌倉幕府侍所別当・和田義盛となった。
それくらい房総と縁の深い三浦を味方にした事も、上杉家の政略上の成功であった。
しかし海を渡った先であり、間接的な政治工作でもあった為、思うようには進捗しない。
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文安六年(1449年)四月、ついに京で三春丸が元服した。
帝より名を与えられるという、朝廷の下風に立つものだったが、まずは鎌倉公方復活への第一歩である。
三春丸は、帝より賜った「義成」に名を改める。
そして同じく四月二十九日に将軍宣下、すぐに宮中に参内した。
この年、鎌倉府再興が承認される。
万寿王丸は大井持光に守られて信濃から鎌倉に帰還する。
そして元服はまだ先だが、鎌倉公方への就任が認められた。
と、同時に山内上杉家の憲忠が関東管領に就任する。
長尾景仲の京への働き掛けが実った。
鎌倉府再興を支持した前管領・畠山持国が、公方と管領の両立を望んでいる為でもあった。
こうして八年ぶりに、京で公方と管領、関東で鎌倉公方と関東管領という体制が整い、空位が解消される事になる。
鎌倉では足利万寿王丸の鎌倉公方就任の祝賀の宴が開かれる。
その席で、元関東管領上杉憲実は
「不忠の我々のせいで、父君や兄君を失われ、御苦労をお掛けいたしました。
誠に、誠に申し訳ございませんでした。
申し開きも出来よう筈が御座りませんが、上杉家は決して足利家に仇成すつもりはありませんでした」
そう言って泣く。
扇谷上杉持朝も
「我等、決して長春院様(持氏)を害する気は有りませんでした。
なれど、我等のせいで御一門が討たれた事、相済まなく思うております。
新公方様がこうして鎌倉に御帰還出来た事、某の肩の荷が下りた心地に御座います。
某は永享の乱の責を負い、出家致したく公方様のお許しを頂きたく存じます」
と頭を下げる。
山内上杉家も扇谷上杉家も、入間川流足利家を凌駕する意思が丸で無かった証左であろう。
まだ下剋上の時代には早い。
心ならずも上に仇為した事を、上杉の当主は悔やみ続けていたのだった。
だが、家宰たちは違う。
山内上杉家家宰長尾景仲、扇谷上杉家家宰太田資清は共に
(何を言っておられるやら)
と冷ややかな目で当主を眺めている。
(これではいけない。
若殿はもっと上杉の為となるようお育てせねば)
彼等は鎌倉公方は屁とも思っていないが、上杉家の事は大事に考えていた。
下剋上の気風がありつつ、いまだ古き忠義の形が残っている。
黙って頭を垂れる上杉家当主たちの謝罪を聞いている万寿王丸。
黙って、長尾・太田の刺すような視線を浴びている万寿王丸。
やがて世間は知る。
万寿王丸は紛う事無き、足利持氏の息子である、と。
その性質を受け継ぎつつ、苦労を重ねたせいで隠していただけだった、と。
おまけ:
岩松長純は山名持豊に接近した。
仕方がない。
前管領の畠山持国は復古派、足利義教によって取り立てられた者を排除し、退けられた者を優遇する。
新田岩松についても、同じ名前の従兄弟・岩松持国を贔屓にしている。
岩松持国が早くから永寿王丸を支持していた事も、畠山持国には好印象なようだ。
岩松長純としては、その対抗勢力に期待するしかない。
細川勝元となるが、伝手に乏しい。
そこで同じ新田氏族である山名持豊を頼る。
山名持豊は侍所頭人で、細川勝元とは縁戚。
細川・山名連合で畠山持国追い落としを狙っていたのである。
この新田の同族を介し、細川勝元に近づく事が出来た。
「上様(足利義教)が生きていて下されば……」
岩松長純は、梟雄蠢く京でしばらく雌伏の時を生きる。