武田信長と里見義実
分かったかもしれませんが、
伏姫は「南総里見八犬伝」から取りました。
当時、史料に女性の真名なんか書いてないもので。
京から戻って来た武田信長は、愛娘の顔に痣が有るのを見て、激怒した。
「この軟弱者がぁぁぁ!!」
ガッ!!
「いきなり何をなさいますか?」
有無を言わさず撲られた信高が聞き返す。
「お主はそれでも兄か?
伏の顔の痣、あれは撲られた痕じゃぞ!
お主、言い負かされて撲りおったな!」
「父上、妾が兄上如きに負ける訳がありません。
これは別な理由です」
ガッ!!
「重ね重ね、何をなさいますか?」
「お主は、妹にこのように言われて悔しくはないのか!?」
「悪八郎殿……、事情を聞くより先に手を出すのはやめにせい。
普広院様(足利義教)や長春院様(足利持氏)という悪例を見て
『慈悲の心も必要じゃ。
相手の言い分も聞かずに手を下すと、後で取り返しがつかぬ事になろう。
例え己が正しいとしても、相手には相手の言い分がある』
そう言っていたではないか」
「それは政治の時じゃ。
家の事では違う」
「違わん違わん。
六郎殿の言い分も聞いてやれ」
「伯父上様、妾から話します。
これは曲者との争いでついた傷で御座います」
甲斐と相模の境には、逸見の残党や結城合戦で没落した武士が、野武士となって潜伏している。
そういう輩は、百姓家を襲い、寺社仏閣から供え物を盗み、道行く者を殺す。
伏姫は土屋荘を訪れていた時、その手の輩と遭遇したのだ。
「危ない事をしたらいけませんって、あれほど言ったじゃないですか!
年頃の女の子が何をやってるんですか。
駄目ですよ、メッ!」
(なにこの格差)
娘には甘い信長と、その分理不尽な目に遭わされている信高であった。
「それで、その曲者をどうした?
伊豆千代丸、まさか逃がしては居らぬじゃろうの?
お主は武家の子、この右馬助信長の嫡男ぞ」
「それが……」
「六郎殿の手勢が駆け付けた時は、既に曲者どもは始末されておりました」
「伏、まさかお前がやったのかい?」
「違いますわ。
旅の武家が加勢して下さいました」
「旅の武家じゃと?」
「お会いになりますか?
客人として馳走しております」
土屋景遠の館にその者たちは居るという。
「よし、会って礼を申そう」
里見義実にしたら、女性が野武士に襲われているのを助けるつもりだった。
(まさか、襲っている方が女子だったとは……)
よく見たら、女性の方が太刀を持っていた……。
「里見殿」
この館の主人である土屋景遠が声を掛ける。
「我が殿が貴殿に会って礼を言いたいと申しておられる。
良いだろうか?」
「貴殿の主人というと、武田右馬助殿であったな。
是非に」
客間で信長と里見義実は会う。
「武田右馬助信長に御座る。
此度は娘の急を助けていただき忝い。
この通り、礼を申します」
「御礼痛み入ります。
里見太郎義実に御座います。
勇名名高き右馬助様とこのようにお会い出来て、我が身の幸せに存じます」
そして酒宴となる。
「里見殿は常陸の里見殿と関わり有るのですか?」
「惣領家に御座います。
結城の戦まで、惣領家に仕えておりました」
「では、貴殿も新田一門で御座ろう?」
「左様」
「ほおほお。
わしは京で新田の惣領、岩松家の若殿と面識が有りましてな。
新田一門とは何か縁が有りますのお」
「岩松の若殿?
もしや、美濃の瑞巌寺に居られた源慶坊殿か?」
「ご存知で有られたか?
左様。
昔の名は源慶であった。
今は岩松治部大輔長純と名を改めておられる。
結城合戦の折は三河守じゃったの」
「では、岩松三河という武将は、あの源慶坊殿であられたか!
上州、野州の多くの武家を調略していたと聞き及んでおります」
上野国新田荘の岩松家は、長純の礼部家(官位治部大輔より)と持国の京兆家(官位右京大夫より)が分立している。
数年前までは長純が、将軍足利義教の後ろ盾を得て有利であった。
結城城攻囲戦で目立った首を取っていないにも関わらず、武田信重や小笠原政康と並ぶ評価を受けているのは、新田宗家の名を使った上野・下野両国の調略が評価されての事だ。
しかし足利義教が嘉吉の乱で死亡し、足利持氏・足利義教両公方の「やり過ぎ」を反省した復古意識に京と鎌倉が染まった後、京兆家の方に天秤が戻る。
なにせ、既に本領を継承している。
敢えてここを無理に持国から長純に代える無理をしなくて良い。
少なくとも京の管領・畠山持国と元関東管領・上杉憲実はそう考えている。
更に岩松持国が「足利持氏の支持者」である事が効いて来る。
持国は、義教の遺児で次期鎌倉公方の万寿王丸を保護する信濃の大井持光と連絡を取っている。
結城合戦が終わり、まだ足利義教が生きていた頃から、万寿王丸の復帰運動をしていた事が、今となって畠山・上杉両管領から評価されるようになったのだ。
「それで、治部大輔(長純)殿は如何されてます?」
里見義実が尋ねる。
「畠山殿ではなく、細川殿と組んでおるよ。
細川の若殿が、先頃管領に成られたのでな」
「細川の若殿」こと細川勝元は文安二年(1445年)、畠山持国と交代で管領の地位に就く。
まだ十六歳である。
管領は足利家の執事という私的な役職が、公的な役職になってしまったものだ。
元々は高師直、仁木頼章、細川清氏といった者が足利尊氏の管領であった。
しかし、足利一門の内輪揉め・観応の擾乱で高一族は壊滅、仁木氏は南朝に降る。
代わって尾張足利家から管領を迎えるが、この時
「尾張足利家は足利本家と同格。
それを本家の執事になれと言うのか!」
と揉めた。
尾張足利家こと斯波家を宥める為にも、管領の地位を執事から将軍の宰相級に格上げする。
だが、誇り高い斯波家と、度々政治中枢で権勢を振るう細川家は、何度も失脚を繰り返しては復権する。
そこに畠山家も加わって「三管領家」となった。
畠山持国が強引な手法で、足利義教に失脚させられた大名を復帰させたのは、一番の新参管領家である為、大名たちの支持を得たかったという事もあっただろう。
なお、畠山氏は元々は関東管領の家柄であった。
関東管領は高師直、上杉憲顕、斯波家長そして畠山国清という面々から始まったが、斯波家長は南朝との戦いで戦死、高師冬は観応の擾乱の際に自害、畠山国清は乱を起こし、畠山氏は許された後は京都に転出した。
結果、現在関東管領は上杉氏内での持ち回りとなっている。
足利義勝の管領となった畠山持国は、義勝死後に出家していた。
そして折り合いを見て細川勝元に交代。
京の管領も関東管領も、公方との関係に苦労したり、周囲から疎まれる事が多い。
それもあってか、適度な時期に交代する傾向にある。
今回の細川勝元への交代は、畠山持国が隠居したいから、という訳ではなく、いずれ本格的に交代する前に交代要員を現場育成する意味合いが大きい。
実際、十六歳の勝元は、叔父である四十二歳の細川持賢が補佐し、勝元は見習いのような立場であった。
にも関わらず、管領補佐の細川持賢は前管領畠山持国の大名への肩入れと同じ事を、真逆の立場で行う。
細川家は、足利義教によって引き立てられ、畠山持国によって追いやられた者を支援した。
管領が畠山か細川かで政治が変わる。
鎌倉公方復帰に対しても、積極的だった畠山持国に対し、細川勝元・持賢の方は読めない。
「斯波家はどうなっているのです?」
三管領家の内、名が出ない家について里見義実が尋ねる。
「当主は千代徳丸君。
十歳だったかな……。
元服もしてないぞ」
斯波家は不幸が続いている。
先代の斯波義郷は二十七歳で死亡、その前の斯波義淳も三十七歳で死亡と当主早逝が相次いでいる。
親族の後見があるとは言え、元服を終えた細川勝元のように管領につける訳にもいかない。
「そう言えば、関東管領も高岩入道(上杉憲実)が再任を固辞しているとか。
京に公方様が不在、鎌倉公方も不在。
関東管領が不在で、京の管領は今は見習い状態。
これは、世が荒れるのではないでしょうか?」
「ふむ……」
信長も同意見である。
政治に責任者が居ない。
影響力を持っているのは畠山持国と上杉憲実だが、両人とも出家の身。
京では現職と前任で方針が真逆。
関東では現職不在で、その人事を巡って上杉憲実と家宰とで方針が異なる。
世間の大名家の家督争いは混乱するだけだった。
「里見殿は如何に考える?
世はどうなっていくと思われる?」
その信長の問いに、義実は
「世の事は知った事では有りません。
自分の手が届く範囲であるならば、まずは武力を蓄え、如何なる事態にも対応出来るようにする事が肝要かと」
「そうよのお」
おもむろに考えると、信長は義実に思いがけない事を言った。
「里見殿、わしの娘を貰ってくれぬか?」
「は????」
「わしの娘の命を救ってくれた。
貴殿が居なければ、娘の命は無かったかもしれぬ。
であれば、娘は貴殿のものだ」
「いや、あの、その……」
「わしとしては、貴殿を婿に迎えられたら、貴殿の言う乱れる世でも生き抜けると思う。
どうじゃ、手を組まぬか?
貴殿にとっても悪くは無いと思うぞ」
(それはそうじゃ)
里見義実に、現在寄る辺は無い。
里見惣領家は結城合戦で壊滅、先祖が美濃に持っていた領地はとっくに無いし、今美濃は戦乱の真っ只中。
京・鎌倉双方に顔が利く甲斐守護の弟の婿になって悪い事は無さそうだ。
「申し出、有難くお受けいたします」
かくして武田信長の娘が里見義実に嫁ぎ、両者は縁者となったのだった。
おまけ:
上野国新田荘の主・岩松持国は新田宗家として影響力は高い。
彼は陸奥国の石川氏に対し
「万寿王丸様が軍勢を出すよう求めている」
「鎌倉に対し忠節を尽くすように」
という書状を送っていた。
「お館様は万寿王丸様を擁立し、京と一戦交える覚悟で御座いますか?」
岩松の動向次第で上野国は大きく揺らぐ。
真意を確かめねばなるまい。
「いや、わしはそれ程血の気が多くはないぞ」
持国は言う。
「では?」
「こうして書状を送る事で、万寿王丸様の名が世に知られる事になる。
長春院様(足利持氏)のお血筋健在を示さねばなるまい」
石川氏の近隣には二階堂氏や白河結城氏が居る。
彼等にも足利万寿王丸の名は知られ、やがて鎌倉公方の最有力候補として誰もが認識するようになるのだった。