色々と仕切り直し
日本酒は米を麹菌で発酵させて醸造する。
酒屋は麹屋から麹を購入し、酒を造っていた。
しかし酒屋自身が麹を作ろうとし、麹屋の組合・麹座と対立する。
酒屋には寺社、特に比叡山延暦寺が味方した。
麴座は足利将軍に献金し、味方につける。
特に足利義持は飲酒を嫌い、酒屋よりも麴座を庇護した。
しかし状況は変わる。
足利義教が暗殺され、将軍の権威は失墜した。
延暦寺の強訴に屈し、麹座の麹独占を解除してしまう。
これに反発した麴座の者が立て籠もる北野社を、管領畠山持国は焼き払った。
麹座の没落と共に、幕府が寺社に逆らえない事を示す一件となった。
暦は文安元年(1444年)に革まった。
何も無くても「甲子の年」に当たる為、改元となった。
ただ「嘉吉」は余りにも多くの事が起こり過ぎた為、「凶を払いたい」という気も有っただろう。
武田信長は相模土屋荘近くの自領・曽比に居た。
傍らには倅・信高と女性が……。
「甲斐に行った時、いつぞやわしを攻めた詫びとして貰って来た」
という小山田家からの女性である。
若き日に娶った土屋景遠の妹は既に亡くなった為、後添えである。
義兄・土屋景遠との縁が切れたかと思いきや……
「妹は悪八郎殿に苦労をかけられて早死にしたのではない。
土屋荘に暮らし、流行り病にかかるまで穏やかに暮らした。
わしは、やはり悪八郎殿を弟と思い、最後まで付き従おう」
そう言っている。
「それに、わしの倅の事もある」
土屋景遠の息子も元服した。
名を土屋傳左衛門勝遠と言う。
信長一党が鎌倉公方に仕えていた頃、土屋景遠は鶴岡八幡宮神主・大伴時連の娘を娶った。
その後、土屋荘で子が産まれた。
信長一党は鎌倉を出奔し、甲斐で戦い、駿河に亡命し、京で公方に仕える流浪の生活をする。
産まれた子は土屋荘で、母方の実家の威光に守られながら生き延びた。
文安元年のこの年、十七歳になろうとしている。
この若者を、守護として甲斐入りした武田信重が望んだ。
信重が国入りした嘉吉元年(1441年)に共に甲斐に入り、信重の元で元服する。
そして京に使者を送り、七代将軍・足利義勝の一字を拝領する。
義勝は嘉吉三年には急死する為、二年程の間に一字拝領した者の一人というわけだ。
この土屋勝遠は甲斐に根を下ろす。
武田の譜代家臣土屋氏の祖となる。
(ただし、後の土屋氏と血は繋がっていない。
直系は駿河に移動する事になる)
子の仕官も叶った事だし、父親の景遠は腐れ縁の信長と生涯を共にする事とした。
似たような者が加藤梵玄入道で、加藤家も既に一族の者が継いでいるし、信長の野望の行く末を見届けたいと思って、相模まで着いて来ている。
「そんなに、あの親父殿が良いのですかね?」
守護職を伯父に交代させられた信高がボヤく。
実権は全く無かったが、仮にも守護という扱いを受けていたのだ。
父と伯父の妥協により、その座を追われてしまい、今はこうして一武将として相模に居る。
「幾ら生まれてから放って置かれたとは言え、恨みを持つとは狭量ですぞ。
伯父・大膳大夫様(信重)も、父・悪八郎殿も武田家が滅び、生き残る事に懸命だったのです」
甥を土屋景遠が窘める。
「別にその事を恨みには思っておらぬ」
「では何か?」
「父上の後添え……わしが狙っておったのに……」
「グワッハハハ!
まさか守護として居った方が、夜這いも掛けられませぬしのお。
守護代の威光の下、あえて若殿と縁を持とうとする国人も居らぬし、居ても邪魔されましたろう。
これは気の毒じゃ!」
「気の毒に思っているのか!?」
加藤梵玄が豪快に笑い飛ばし、信高は相当不機嫌であった。
まあ小山田の娘も、お飾りとして守護の座に居た信高より、野性味溢れる父の方が好みのようである。
早速、信長の子を宿している。
「兄上、女々しいですぞ。
嫁女が欲しければ、上杉殿にでも、長尾殿にでも頼めばよろしいでしょうに」
そう言うのは信高の妹に当たる伏姫である。
信長が鎌倉に仕えていた時、妻である土屋景遠の妹との間に産まれた。
信高とは父母を同じくする妹である。
「姫!
人前でそのような態度、はしたないですぞ!」
「いやいや伯父上様、土を耕し、馬にも乗る東国の武家の娘にそのような事を言われましても。
土屋の里では山野を駆け巡っておったので、このような館住まいは窮屈でなりませぬ」
「今からでも直しなさい!
京の姫様方は、もっと慎ましやかでしたぞ!」
「京とは違いましょう。
慎ましやかなら、兄上で十分ではありませんか?」
「わしが慎ましやかじゃと?」
「お飾りとして守護に担がれ、何もしなかったのでしょうに」
「黙れ!
言って良い事と悪い事が有るぞ!
どれ、成敗して……」
「男子とは言え、館で御付きの者に世話を焼かれていたような白い腕の者に、
山野を駆け巡った妾が遅れを取る事も無い!」
扇子で強かに殴打された挙句、逃げ失せた姫を見て
(早く真っ当な男を見つけ、嫁がせてやらねば!
このままでは巴御前や板額御前のような者に育ってしまう……)
と思う景遠であった。
そして
(若殿は鍛え直さねば……)
加藤梵玄の下で武芸くらいは覚えさせねば、そう思う。
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この頃、京と鎌倉では復古政策を取ろうとしていた。
天下の為政者が悪政を行えば、大火や水害、地震、彗星の飛来等をもたらし、善政を行えば瑞獣の出現等の吉兆が現れると言う。
「普広院様(足利義教)も長春院様(足利持氏)も、他人に対して惨過ぎた。
それが自らを亡ぼしただけでなく、子の不幸、そして土一揆や戦乱を招いたのじゃ」
そういう天譴思想のような考えの元、少なくとも足利義持の時代に世の在り方を戻そうという事になった。
つまり、京の公方と鎌倉の公方という東西公方制度。
坊門流(足利義詮の子孫)と入間川流(足利基氏の子孫)の両足利家による支配。
このような事は、直接話し合われてはいない。
だが、京の管領・畠山持国と関東管領・上杉清方はそう考えていた。
清方の兄で、先代関東管領の上杉憲実の意思もそうである。
だが、そうは言っても中々簡単には進まなかった。
まず、次期公方である三春丸がまだ八歳であった。
将軍が暗殺された影響を振り払うべく、急に元服した兄・足利義勝の時と違い
「無理する事もあるまい。
それに、道理に合わぬ事をすると、また同じような凶事に見舞われかねない」
と、特に朝廷から言われている。
権威失墜中の武家政権は、朝廷の意向に逆らえず、三春丸の元服は数年を待つ事となった。
京の公方が元服していない以上、鎌倉の公方も元服出来ない。
足利持氏の忘れ形見・万寿王丸は三春丸よりも更に年下の六歳に過ぎない。
「将軍の一字を拝領し、鎌倉公方は名を改める。
長春院様(足利持氏)がそれをしなかった為、永享の戦が起きた。
室町殿(三春丸)の元服まで待つのじゃ」
前関東管領はそう言明する。
だが、待っている間にまた凶事が起こった。
現関東管領・上杉清方が急死したのである。
「不忠の家、山内上杉から二度と関東管領は出さぬ。
佐竹家から六郎殿(佐竹実定)を猶子とし、関東管領とする」
足利持氏父子を死なせ、結城合戦まで起こしてしまった事を悔いる上杉憲実は、そのような事を言っている。
佐竹家当主・義人は山内上杉家からの養子であり、その子・六郎実定は血の繋がりがある。
その上、佐竹家は先に結城合戦で上杉及び京方と戦っていた為、関係修復の意味も込めて佐竹家から猶子を迎えて一切を譲るのも良いだろう。
このような事を、山内上杉家の家宰・長尾景仲が認める訳も無い。
長尾忠政の後を継いだ景仲は、有力分家である扇谷上杉家の当主・上杉持朝及び家宰・太田資清と組んで、佐竹実成の関東管領就任を妨害した。
関東管領が後継者争いを起こしている中、京の管領も後継者争いをあちこちで起こす。
自身が足利義教によって家督を弟の持永に譲らされていた事もあり、彼は義教によって家督を追われた者を助け、義教によって引き立てられた者を排除する。
それだけなら「まだしも」問題は無かった。
しかし畠山持国は足利義教と同じ過ちを犯す。
性急過ぎるし、敵対者に容赦し無さ過ぎた。
自身の弟・持永を討ち取る。
義教の弓馬指南役だった小笠原政康の後継に介入し、政康の子ではなく、その従兄の小笠原持長を擁立する。
足利義教を恐れて逃げた富樫教家を助け、義教によって当主となった富樫泰高と戦わせる。
大和国では、義教によって没落した越智氏や義教の弟・前大乗院門跡経覚を復権させ、幕府側だった筒井氏から支配権を奪い、争いを誘発する。
と言った具合である。
家督問題は、やがて畠山持国自身にも牙を剥くが、今はまだその兆候は無い。
武田信長は、相模守護を期待していたが、結局成れなかった。
その相模守護・扇谷上杉持朝の依頼を受け、畠山持国と信濃の相続問題を話し合いに京・鎌倉を往復していた。
畠山・上杉、東西両管領は万寿王丸の鎌倉公方就任で協力関係にある。
その連絡役でもあり、今では上杉一門で一番面倒臭い男となってしまった元管領・上杉憲実への対抗上協力を仰ぐ必要もあり、更に鎌倉府の統治国に隣接する信濃の問題を穏便に済ませたいという事もあって、京と鎌倉双方に仕えた信長は連絡役として打ってつけであった。
信濃には大井持光に保護された
なお、甲斐武田家は亡き小笠原政康からの頼みもあって、政康の子を助ける立場にある。
「わしは武門であり、こういう交渉事を頼むのは間違っておるのだが……」
文句を言いながらも、政治家としての能力を磨かれた事や家格の高さも有って、京・関東の往復をさせられる信長であった。
更に彼は信濃にも派遣される。
次期鎌倉公方である永寿王丸との連絡であった。
武田信長は、足利持氏には一時期仕えたものの、長きに渡って逆らい続け、最後は京方として戦い、その死に関係した。
更に持氏の子・春王丸、安王丸を死に追いやる結城合戦でも京方で戦っている。
万寿王丸にとっても敵に当たる。
しかし、度々顔を会わせ、言葉を交わす内に双方の感情は変化して来た。
万寿王丸は足利持氏の子である。
やがてその意味を、京も関東も知る事になる。
その一方で、かつて似た者同士であるが故に敵対した足利持氏と武田信長。
万寿王丸と武田信長との関係は、父親との関係とはまるで違ったものとなる。
おまけ:
里見義実は途方に暮れている。
「さて、どうしたら良いかのお?」
常陸小原城には戻れない。
関東に居場所が無くなった義実は美濃に戻ろうかと考える。
常陸国から美濃に帰るに、東山道(上野~信濃~美濃)は険しくて物騒だ。
信濃国は守護・小笠原家の家督問題で争乱が起きているのだ。
東海道(武蔵~相模~駿河~遠江~三河~尾張~美濃)の方が良さげである。
幸い、武蔵と相模を治める上杉家は、残党狩りはせず穏便にしようとしている。
とりあえず相模国まで来たが、そこで困った情報に接する。
美濃国で、守護代の富島氏と斎藤氏が、その座を巡って争乱を起こしたのだ。
「守護の、土岐美濃守殿は如何した?」
「発狂されたとの事」
「…………何という事だ」
美濃も安住の地にはなれそうも無い。
「しばらくは相模の地にでも潜伏するか……」
この相模で、里見義実は運命の出会いをする。