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それぞれの結城合戦

永享の乱、結城合戦を理由に足利義教は粛清を行う。

侍所頭人の若狭守護・一色義貫と伊勢守護・土岐持頼は、鎌倉公方・足利持氏との共謀が疑われる弟・大覚寺門跡義昭に味方した越智家を討伐せよとの命を受ける。

だが彼等二人は大和国三輪で、義教の密命を受けた長野、中尾、雲林院といった武将の攻撃を受け、討ち取られてしまった。

これを知った同じ侍所頭人を勤める有力守護・赤松満祐は出仕を止める。

それを待っていた義教は、赤松満祐の侍所頭人の職を罷免した。

粛清人事は続く。

 永享十二年(1440年)四月、京より関東管領代行・上杉清方への援軍が出陣した。

 今川範忠、小笠原政康、上杉持房が援軍を率い、仙波常陸介が軍監を勤める。

 上杉持房は永享の乱の時も京の軍を率いた、上杉禅秀の遺児である。

 今川、小笠原両名は血縁の者が結城陣営に居る為、疑いを払拭した後も名誉回復の思いで必死であった。

 この援軍の中に、武田信重・信長兄弟も参加していた。

 援軍は東海道を進む。


 その間にも関東では各地で合戦が相次ぐ。

 上野守護代の大石憲重が、高橋城に籠る結城方を討つべく、上州白旗一揆に加勢を呼び掛けたが、日和見を決められてしまった。

 そこで手勢を持って高橋城を攻めると、上州白旗一揆の衆は大石に加勢する。

 高橋城の加藤伊豆守は気を呑まれ、城を退去した。

 城に残った国府野美濃守は、大石によって討たれ、高橋城は落城した。


 四月十七日、結城方の岩松持国・桃井憲義・結城氏朝の軍勢が、京方の小山本家の城・宿城を攻撃する。

 小山持政は籠城に入った。


 四月二十日、三浦時高が兵を率いて鎌倉に入り、守備を担当する。

 この三浦参陣の報を受け、前日には大将たる関東管領代行・上杉清方と管領補佐・扇谷上杉持朝が結城討伐に鎌倉より出陣する。

 五月一日、京よりの援軍が鎌倉到着。

 戦線は既に広域になっていた為、京に味方する諸将に局地戦は一任し、主力は全軍集結と越後の長尾邦景が北から攻めるのと呼応し、結城城を攻める事とした。





 里見家の現在の当主は家基である。

 常陸国は、結城持朝に娘を嫁がせた佐竹義人、その三男で大掾家を継いだ大掾憲国が味方で、佐竹分家の山入祐義(持氏に殺された山入与義の子)、小栗助重(持氏に殺された小栗満重の子)、小田持家(持氏に所領を没収された)等が敵である。

 敵味方が複雑に入り組んだ常陸の中で、小原城は土塁も低く、今一つ頼り無かった。

 そこで里見家兼は居城を捨て、結城城に籠って戦う事とした。

(この戦、上手くいくまい)

 美濃からやって来て里見宗家の家人となった里見義実には、持氏への恩はほとんど無い。

 彼は里見家の面々が結城城に入る頃、行方を晦ます。





「其方を還俗させて置いた余の目は確かじゃった」

 足利義教は岩松長純を呼んでそう言う。

「新田宗家は余に背いた。

 其方に新田を返してやろう。

 励むが良い」

 岩松長純には近江の鳥羽上(後の長浜)が領土として与えられ、三万匹(三十万文)の銭も支給され、近江の住人・廣瀬党が家臣として付けられる。

 こうして準備を整えた岩松長純は、土岐持益の部隊に加わって関東下向をする。


 かつて追放した岩松土用松丸が、上方の武将となって戻って来る。

 本人からその旨が、現・新田岩松家の陣に届けられた。

 現当主の持国は、戦乱に対し消極的になる。

 小山持政の籠る小山宿城を攻め続けたものの、結局落とす事が出来なかった。

 その上、京と関東管領の連合軍は鎌倉を発し、奥州の二階堂、越後の長尾の軍勢も南下している。

 勝ち目が薄く、下手を打てば戻って来た従兄弟に家を奪われかねない。

 岩松持国は、結城城での籠城には加わらず、下総・下野辺りで日和見を決め込むようになる。


「上手く収められたようですな」

 書状を届け、更に上方の軍の情報を敢えて岩松持国に伝える役を任された、長楽寺の僧・真西堂松陰軒が岩松家純と語らう。

「兵は凶事なり。

 戦わずして勝つが上策。

 わしは手柄を挙げるつもりじゃが、それを実家相手にはしとうない。

 従兄弟殿が兵を退けば上々じゃ」

「左様、貴方様が継ぐ御家を傷つけてもいけませぬしな」

「御坊、声が大きう御座います。

 御家は従兄弟殿が継いでおられるし、わしは美濃に所領を持っております故」

「これは迂闊でした。

 (はかりごと)は密なるを以て良しとしますな」

 恵林寺や瑞巌寺で兵法を学んだ長純と、唐の兵法書「李衛公問対」を嗜む松陰はニヤリと笑う。

「それでは拙僧はここらで失礼致します。

 三河守様お戻りに折は、是非にお仕えさせていただきたく……」

 還俗間もない長純だったが、この時は既に足利義教によって三河守に任じられていた。

 彼は生涯「公方様は大恩人」と語り続ける。




 六月二十四日、持氏の叔父ながら京派である奥州の篠川公方・足利満直が、結城家に味方する石川持光、畠山盛宗、安積氏祐等に攻められて殺害される。

 奥州最大の不安要素・伊達家の持宗も、表向き京方ながら、篠川公方殺害に関与している疑いがある。

 満直の命で結城攻めに向かう途上の二階堂盛秀、白河結城家、葦名家の軍勢は引き返し、自領防衛に当たる。

 混乱した奥羽諸侯は結城城攻防戦には参加出来なくなる。




 結城合戦と呼ばれる一連の戦役で、最も大きな合戦は村岡の合戦であっただろう。

 七月一日、一色伊予守と武蔵北白旗一揆の衆は、武蔵南白旗一揆に属する須賀土佐守を攻める。

 須賀の衆は悉く討ち死にした。

 七月三日、上杉憲信(庁鼻和(こばなわ)上杉家)と長尾景仲の軍が到着。

 一色勢と上杉勢は衝突し、終日激戦を繰り広げた。

 七月四日に両軍に援軍が到着する。

 これは一色勢には多く、上杉勢には少なかった。

 勝てると踏んだ一色伊予守は荒川を渡って村岡川原に押し寄せた。

 少数の上杉憲信・長尾景仲は、到着した新手の部隊を先頭に、魚鱗の陣となって一色勢に突撃する。

 油断をし、陣形が整っていないまま急進した一色勢を、上杉勢は中央突破に成功する。

「取って返して、再度敵陣を駆けよ!」

 上杉勢は再度一色勢に突入。

 これを何度も繰り返し、ついに一色勢は四分五裂となり、収拾がつかなくなった。

 一色伊予守は具足を捨てて小江山まで這う這うの体で退却した。

 この時、結城持朝が出した援軍が到着したのだが、一色勢が敗れたのを見て、何もせずに後退する。

 敵に数で勝る軍勢が打ち破られた事で結城方は士気阻喪し、城に籠るようになる。

 既に小山宿城を攻め落とせなかった軍から岩松持国が離れ、残った部隊も結城城に撤退していた。

 結城方の野戦部隊の活動は低調となり、七月下旬には城を京・関東管領方に包囲されるようになる。


 それでも持氏派の信濃国人・大井持光が結城方増援に出たという報が入り、上杉重方(越後上杉家)が防衛の為に上野国分に陣を敷き、同じく持氏派の大森憲頼の襲撃に備えて今川範忠も平塚に陣を敷く等、予断を許さない。

 結城城攻囲軍は管領代行・上杉清方、扇谷上杉持朝、小笠原政康、逆襲に出た小山持政が指揮する事となった。

 この攻囲軍において、武田信重・信長は南東を、岩松長純は南面を任せられる。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「これが最新の兵法か……」

 武田信長は空を見上げる。

 そこには巨大な井楼(せいろう)が聳え立っていた。


 井楼は、従来防御用に使われる。

 材木を井桁に組んだ臨時構築の物見台で、高見より敵の動向を観測する。

 敵が来たならば、その高さを活かして矢を射る。


 だが、結城攻囲の陣の井楼は単なる物見台ではない。

 十丈(30メートル)という高さで、城と補給路を断つように何基も建てられた。

 その周囲には二重に空堀が掘られ、逆茂木を植えて防御壁としている。

 敵城を攻囲する城、「付城」「陣城」と呼ばれるものの走りである。


「結城家は頼朝公の御世より勇猛な事で知られている。

 急いで攻め寄せて味方に死人や手負いが多く出れば、外の結城与党を勢い付けてしまう。

 取り囲んで兵糧攻めにするが上策でありましょう」


 こうして城を攻めるに城を築いて当たる。

 陣外で活動する部隊は、死兵と化して打って出た結城勢に大概敗北した。

 しかし、彼等はすぐに陣城に入り、井楼を中心とした防御施設を使って結城兵を撃退する。

 それを繰り返した。


 結城には後詰(援軍)もやって来る。

 そういった手合いも、陣城で撃退する。

 かつて武田信長と甲斐を巡って争い、先年足利持氏と運命を共にした逸見有直の残党も、結城城に入城しようと駆け付けて来た。


「ほれ、兄上!

 適度な相手です!」

 こういう少数を相手に実戦を重ねさせ、兄を鍛える信長であった。


 だが、この時期の付城・陣城戦術は、武田信長と同名の後代の武将がするそれに比べ、まだまだ未熟である。

 軍監・仙波常陸介が

「上様より、城内に兵糧が運ばれている為、警戒を怠ってはいかんと叱責され申した」

 と諸軍に注意を促しているように、夜陰に紛れたり、強行突破したりで城内に補給がされていた。

 足利義教は予想以上に手こずる戦況にイライラしつつも、我慢をして京より指揮を執る。

 結城一門の山河氏義が寝返るも、結城党はいまだ抗戦を諦めない。

 戦は年を越してしまった。


 長い攻防戦だったが、ついに終了する日が来る。

 持氏遺児の一人、神輿として担がれている春王丸が籠った小栗城が、常陸・下総諸将の攻撃で陥落した。

 これを聞いた関東管領代行・上杉清方は

「何時までもこうして対陣しては居られぬ。

 京の公方様も御怒りの事であろう。

 このままでは、末代までの恥辱となってしまう。

 明日は吉日なので、総攻めにする」

 と言って、総攻撃の命を出した。


 四月十六日辰の刻、総攻め。

 これに対し、結城勢は城を打って出て、攻囲軍に突撃を掛けた。

 南東方面、小笠原・武田の陣には結城父子の子の方、結城持朝が押し寄せる。


「兄上!

 あれなるは敵の総大将が一角。

 さあ、戦わん!」

「いや、お主がやれ」

「この期に及んで……。

 仕方なし、わしが出る!」

 戦には消極的な武田信重に代わり、信長が長巻を持って迎え撃つ。


「やあやあ、我こそ武田刑部少輔信重なり!

 結城七郎殿とお見受けする。

 掛かって来られよ!」

「おい、お主は武田右馬助信長であろう!

 共に鎌倉に仕えたわしを謀れると思うな!」

「……共に鎌倉に仕えたお主だから言うが、兄の名代なのだ。

 兄の手柄にしたくてな……」

「事情は分かったが、手柄になるかどうかは、お主の腕次第。

 いざ、参る!」

「応っ!」

 別に一騎打ちではない。

 手勢を引き連れて集団戦となる。

 武田方には剛勇の加藤梵玄が居る上に、やはり兵糧攻めが効いていた結城勢は次第に衰える。

 数を減らしていく郎党を見て、結城持朝は大声で叫ぶ。

「これは良い死に場所じゃ!

 剛勇の名高い入道よ、いざ組まん!」

 敢えて加藤梵玄という豪傑に向かって組み打ちに行く持朝。

「結城殿ともあろう方を、鉄棒で撃ち殺すに忍びない。

 これなるは頼朝公より祖先が拝領した義行の長刀なり。

 これにてお相手致さん」

「おお、何という幸せよ!

 入道、馳走になるぞ」

 打ち合いの末、結城持朝は討ち取られた。


 それを確認し、武田信長が味方に対し叫んだ。

「武田刑部少輔、敵将中務大夫結城七郎殿を討ち取ったり!!」

おまけ:

岩松持国は、鎌倉公方足利持氏が好きだった。

……俗な理由だと、彼が岩松満純を倒したから自分に家督が回って来たからなのだが。

それを差し置いても、味方に対しては寛大な持氏は、岩松持国と養父・岩松満長を可愛がった。

故に、祖父が永享の乱において不戦を宣言した時は不満であった。


その祖父も昨年死亡した。


岩松持国は、持氏の遺児を担ぐ結城氏朝に与し、京に反旗を翻す。

そして戦ってみて気づいた。


(祖父は正しかった)


恩や好悪で行動を決めてはならない。

京の大軍の前に、折角の新田岩松家は奪われてしまうかもしれない。

追放された筈の土用松丸が、京の公方の肝煎りで坂東に来ている。

家督を奪われてはならない。


かくして戦いの中で御家存続の難しさを学んだ岩松持国は、結城党から脱落したのであった。

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