結城合戦勃発
権中納言飛鳥井雅世、尭孝僧侶、前摂政・一条兼良は帝に召される。
何事であろうか?
若干十五歳ながら詩歌管弦の造詣が深い帝はのたまった。
「源前左府(足利義教)より奏上あり。
卿ら、勅撰和歌集を編纂するべし」
これが最後の勅撰和歌集となる「新続古今和歌集」であった。
武家政権設立の立役者・源頼朝。
坂東ではこの名は神聖なものである。
その頼朝を支えた坂東の名門武士団の中に、下野小山党がある。
頼朝の乳母・寒河尼は小山光政の後添えで、その子・結城朝光は頼朝の乳兄弟であった。
小山家と結城家は親しい親族として続いて来たが、ある時立場が逆転する。
十一代目小山家当主・小山義政が二代目鎌倉公方・足利氏満と対立し、乱を起こす。
この小山義政の乱において、結城家は鎌倉公方に味方する。
結果、小山家旧領と下野守護職は結城家に移り、小山本家は結城基光の次男・泰朝が再興させる。
しかし、結城基光の嫡男・満広は早逝する。
この為、小山本家から養子・氏朝を迎えて結城家を相続させた。
ここまでは小山本家と結城家は親密な関係であった。
小山泰朝(結城泰朝)の長男が小山本家を継ぎ、次男が結城家を継いだ後から関係は拗れ始める。
本家であり兄である小山持政は、庶家である結城家の下に在るのを好ましく思っていない。
その為、先日の永享の乱において、終始鎌倉府の味方であった結城家に対し、小山本家は京の公方に味方する。
結城家にも分家が存在する。
白河結城家である。
結城家の祖・結城朝光の結城祐広から別れる家で、つい最近養子を交換し合った小山本家よりも結城家からは遠い親族になる。
この白河結城家は、後醍醐天皇による鎌倉幕府討伐時には新田義貞について戦い、その後は奥州鎮守府将軍北畠顕家の下で働いた「南朝」の武家であった。
足利氏、北朝に着いた小山本家、下総結城家とも争う。
最終的には北朝に鞍替えし、家を残している。
永享の乱において、鎌倉府関係者には過酷な処罰を行った将軍・足利義教だが、鎌倉府側の勢力が強い北関東は放置する。
ただの放置ではなく、結城家は小山本家や白河結城家によって監視される事になる。
下野の鎌倉府側武家と言えば、那須家もある。
源義経と屋島の戦いに参戦した那須与一で有名だが、その兄たちは平家方であった。
与一の系統が続いた那須氏であったが、つい最近、応永二十一年(1414年)に分裂する。
兄の那須資之が「兄より優秀な弟は居ねえ!」とばかり、器量に優れる弟・資重を排斥する。
このままならただの兄による弟イジメなのだが、二年後に勃発した上杉禅秀の乱で立場が逆転する。
那須資之は上杉禅秀の婿だった為、鎌倉公方・足利持氏の討伐を受ける。
代わって弟の那須資重の方が優勢となった。
後に兄の系統を上那須家、弟の系統を下那須家と呼ぶ。
那須資重の子・那須資持は足利持氏に与し、小山本家の居城・祇園城を攻略したりした。
ここに対しても足利義教は、攻めるのではなく、上那須家の那須氏資を使って牽制する。
こうして力の均衡で安定させようとした北関東だが、そう上手くはいかなかった。
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関東管領が機能しなくなった。
上杉憲実は
「わしは公方様を殺す気等無かった。
反省してくれたら、それで良かったのだ」
と言い、出家をしてしまう。
それだけでなく、亡き持氏の御影の前で焼香念仏し、涙を流しながら、
「心中に不義の無いことを御照覧あれ」
と言って腹に脇差を突き立てた。
供侍の高山越後守と那波内匠介が、腹を切ってしまう前に脇差を取り上げた為、死にはしなかったが、こうも情緒不安定では関東管領の責務はこなせまい。
上杉憲実は伊豆国名越の国清寺に引き籠もってしまう。
上杉憲実は佐竹実定(山内上杉家から佐竹家に養子に入った佐竹義人の子)を後継者とし、京の義教に届け出る。
しかし、足利義教は関東管領辞任を認めなかった。
義教だけではない。
山内上杉家の家宰・長尾忠政及び武蔵守護代・長尾景仲も困り果てている。
とりあえず憲実の弟・清方を山内上杉家当主とし、関東管領代行とする事で京都と山内上杉家との間で落着した。
義教はここで、後の混乱の種を撒く。
上杉清方の力量に不安を覚えた為、分家である扇谷上杉家・上杉持朝に清方の補佐を命じた。
犬懸上杉家は上杉禅秀の乱で没落、宅間上杉家も先日の永享の乱で没落。
有力庶家は他に越後上杉家があるが、ここは守護代・長尾邦景に実権を握られている。
扇谷上杉家はこの時期より飛躍を始め、やがて山内上杉家に匹敵する。
その扇谷上杉家の家宰・太田資清は張り切っていた。
持氏派だった一色直兼の子・一色伊予守が相模国今泉に居る事が知れると、兵を率いて押し寄せた。
しかし持氏は坂東からの支持は篤かったようだ。
確かに過酷に処遇した京都と繋がりのある家からは憎まれていたが、一方で味方であった者には限りなく親切であった為、死んだ後でも慕う者が多い。
更に、しつこいようだが足利持氏と足利義教は似た者同士である。
持氏が敵対者から恨まれていたのと同じ事が、義教にも起きている。
つまり、持氏の一党を過酷に処罰した事により、親持氏派から相当に恨まれてしまった。
結果、太田資清が兵を出した時には、一色伊予守は周囲よりの報せで逃げおおせていた。
そこで太田資清は、同じく持氏派で隠れていた舞木持広を
「管領の元に出仕すれば本領は安堵する」
と言って呼び寄せ、そこで暗殺する。
こうしたやり様は坂東に広まり、反義教、反関東管領、鎌倉公方復活の気運が高まってしまう。
足利持氏の遺児・春王丸、安王丸は、鎌倉陥落時持氏派の者によって逃がされていた。
その後、日光の近くで潜伏していた。
日光は下野国であり、ここは持氏派が圧倒的に強い。
永享十二年(1440年)三月四日、やはり持氏派の強い常陸国の木所城で足利春王丸・安王丸は近習に支えられて挙兵した。
この挙兵に、常陸の筑波一族が従う。
この鎌倉公方復活気運の高まりを受け、結城氏朝はこの春王丸・安王丸を迎え、自分たちも挙兵する事を決めた。
そして坂東各地に檄を飛ばす。
戦争目的は鎌倉公方復活である。
坂東から多くの武家がこれに賛同し、挙兵した。
永享の乱よりも大がかりな戦、結城合戦の始まりであった。
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既に語ったように、この時期の関東管領は機能不全である。
就任したばかりの管領代行・上杉清方は仕事に慣れず、補佐役たる扇谷上杉持朝の家宰は情報収集よりも持氏派残党狩りに忙しい。
京に情報が入った時には、既に後手後手に回っている。
「ここまで持氏奴の与党が多かったか」
既に死人で罪人扱いである為、義教は諱呼びで亡き政敵を呼ぶ。
結城氏の他、岩松持国、里見家基、桃井憲義、佐竹義人、野田持忠、宇都宮家綱、小山広朝、那須資重、大井持光、今川氏広、小笠原但馬守、そして先に名を挙げた一色伊予守等が挙兵した。
今川氏広は駿河守護・今川範忠の、小笠原但馬守は信濃守護・小笠原政康の親族である。
京方の大名の係累まで、春王丸陣営に加担していたのだった。
京の公方・足利義教は、味方である筈の今川、小笠原が裏切らないか、暫くは様子を見る必要に迫られた。
さらに京では義教に対する反抗が起こった。
三管領家の一つ・畠山家の当主・持国が関東での合戦を拒否したのだ。
「そもそも、河内・山城・紀州に領地を持ち、足利家の家政に専念する我が家が、関東くんだりまで下向する必要は有りますまい」
畠山家自体が義教から狙われていた。
義教は持国を隠居させ、弟の持永を当主に据える。
このように、義教は結城合戦も良いきっかけに有力守護大名の粛清を行い始めた。
よって、真っ先に対応に動くのは、機能不全とは言え関東管領の軍勢である。
三月十五日、関東管領は長尾景仲を先陣として討伐軍を出陣させる。
三月十七日には、関東管領の名で下総守護・千葉胤直、政所執事・二階堂盛秀、そして武蔵白旗一揆衆に合戦準備を命じる。
一方、春王丸たちは三月二十一日、結城城に入る。
結城城は北に田川、東に深田、西と南には田川の旧河道を使った堀が設けられた守りの固い城である。
一度結城城に入った後、春王丸は分かれて小栗城に赴く。
また、野田持忠は家臣の矢部大炊助と共に古河城に立て籠もった。
同じく野田時忠の家臣加藤伊豆守は高橋城に拠る。
岩松持国らは京方の小山持政を攻めるべく出陣する。
京の足利義教は、隠遁している上杉憲実に対し
「さっさと鎌倉に戻り、関東管領に復帰せよ」
と命令を出す。
四月二日、足利春王丸・安王丸が結城城に入った事を知り、やっと合戦の形を描いた。
「結城中務大夫(氏朝)、右馬頭(持忠)の官位を剥奪。
追討の教書を出す」
そして裏切りの疑いが晴れた今川範忠、小笠原政康に関東下向を命じた。
小笠原政康は信濃全土に出陣の命を出し、三千余騎を率いて関東に入る。
今川範忠は京方の副大将として、先年に引き続き総大将を務める上杉持房(上杉禅秀の子)を補佐して東海道を下る。
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「兄上、戦ですぞ!」
武田信長が信重に発破をかける。
彼は惰弱にも見える兄を、加藤梵玄と共に武芸で鍛えていた。
ボコ殴りとも言うが……。
合戦の心得も加藤梵玄が教える。
信長も鎌倉、そして京で学習しており、兵法にはそれなりに精通した。
「わしは戦は出来ないからなあ」
「だから、わしが居るのです!
兄上が戦をしないと、わしの手柄も帳消しになるのです!」
「どうしても行かないと駄目か?
其方が陣代を勤めれば済むではないか」
「公方様の命令です!
それ以上に、わしの宿願の為にも出陣して下さい!」
「……分かった。
だが、戦の細かい所は其方が差配せよ」
「公方様からも左様言われております。
……甲斐から逃げた時もそうですが、何故ここまで戦を嫌いなさるのか」
「いや、戦をせずとも国は治められる気が……」
「無理です」
「お館様、そろそろ現実と向き合って下さい」
「某のように、僧体でも戦をするのです。
守護ともあろう方が、戦を嫌いなのはともかく、そこから逃げて如何になさる?」
信長、土屋景遠、加藤梵玄から散々に言われ、信重も渋々出陣する事にした。
武田菱の旗が翻り、武田軍が出陣する。
おまけ:
美濃瑞巌寺で修行している源慶の元に、土岐家からの使者が来た。
「急ぎ上洛するように」
何が何やら分からない源慶を、土岐家の者は支度をさせ、護衛を付けて送り届ける。
源慶は室町第に通される。
「お前は今日から源慶ではない!
新田次郎長純として不死鳥の如く、俗世に再び舞い降り、生きるのだ!!」
「あの、何が何だか分かりません」
要は永享の乱において、全く動こうとしなかった新田岩松家に対し、自分の息の掛かった者を送り込みたい将軍の政略であった。
(しかし、何故公方様が自分を知っているのだ?)
関東管領上杉家よりの推挙という事になってはいる。
だが、上杉家にしても彼が美濃に居たと知っていた訳では無かった。
彼はまだ知らない。
かつて世話になった甲斐の問題児が、鎌倉では上杉家と付き合い、現在は京で公方に仕えているという事を。