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永享の乱 ~足利持氏の最期~

永享九年、足利義教の弟・大覚寺義昭が出奔する。

鎌倉公方・足利持氏と手を組んだとされる。

永享十年、吉野で義昭が還俗して挙兵したという情報が入り、大和国に討伐軍が派遣された。

そして分かった事は

・義昭と持氏には何の関係も無かった

・義昭は吉野には居なく、四国に居た

という事であった。

義教は対鎌倉で用意周到だったが、こういう疑心暗鬼から来る失敗も有ったりする。

(そして実弟でも義教は恐ろしいようだ)

 足利持氏は、上野国に去った関東管領上杉憲実を討伐すべく、永享十年(1438年)八月に軍を発した。

 先陣として一色持兼、一色持家が進む。

 自身も鎌倉を発ち、八月中旬に武蔵府中の高安寺に着陣した。


 そこに急報が入る。

 京より上杉持房・上杉教朝率いる軍勢が出陣したというのだ。

 この二人は上杉禅秀の遺児で、四条上杉家の養子や大掾満幹の養子となっていた為、京で僧になる事で生き長らえていた。

 その後、足利義教が将軍になると、還俗する。

 上杉教朝は自身に、上杉持房は子供に将軍の一字「教」を名に貰う程重用されていた。

 その両名が先陣として鎌倉を目指している。


「あの還俗将軍に、坂東を攻める気概が有ったとはな」

 少々驚きつつも、まだ持氏は余裕であった。


 持氏は大森憲頼を出し、河村城を攻略させて足柄峠を抑えた。

 ここを抑えると、東海道を東進する軍を止められる。

 さらに上杉憲直、宍戸持朝、海老名季長らを派遣し、京方へ備える。


 嫌な報告が続く。

 信濃から小笠原政康の軍勢が集結を終えたと言う。

 先発隊が既に碓氷峠を越え、上野国に入ろうとしている。

 更に越後守護代長尾邦景も三国峠を越えて来援した。

 この報に関東管領方の士気は上がり、鎌倉公方軍の一色勢の士気は下がった。

 これら援軍が到着する前に上杉憲実は平井城を出撃、度々野戦で一色勢を撃破する。


 だが九月に入ると、鎌倉公方に味方する那須持資が小山祇園城を攻略。

 鎌倉公方側の結城家を攻めようとしていた関東管領方・小山持政は祇園城落城を知り、撤退する。

 下野国は鎌倉公方側になった為、持氏は武蔵府中の陣を払い、海老名に陣を移す。

 東海道を降る上方の軍との合戦の指揮を執る為だ。


 九月下旬になり箱根に到着した上杉持房・上杉教朝の上方軍と上杉憲直・宍戸持朝、海老名季長の鎌倉軍が交戦。

 この箱根の合戦は、鎌倉方が勝利を収める。

 意気上がる鎌倉方。


 しかし九月二十七日、駿河守護・今川範忠の軍が足柄において大森憲頼とその弟・箱根権現別当実雄と衝突。

 大森勢も奮戦し、将軍御供衆である横地長泰を討ち取り、伊豆守護代・寺尾四郎左衛門尉に深手を負わせた。

 だが、この優勢に乗じて攻めまくったのが災いする。

 確かに山岳戦に不慣れな上方の軍は、深い谷底に落とされ多くの犠牲を出す。

 しかし搦め手から隣国の今川勢が突破に成功し、背後に回り込む。

 大森勢は足柄を放棄、上方軍は一番の難所である箱根・足柄の要害の内、足柄の突破に成功する。


 その上、箱根の上方軍には斯波持種・甲斐常治・朝倉教景の軍が到着。

 足柄が突破され、今川軍が既に相模国西部に侵攻したと聞き、鎌倉方は箱根から撤退した。

 そして鎌倉方は陣形を再編する。

 海老名季長は風祭、宍戸持朝は小田原、そして上杉憲直は早川尻という防御線で上方の大軍を迎え撃つ事にした。


 しかしこの時期、軍事的には上方が優勢であった。

 関東の弓は、源平以来の三枚打弓、竹・木・竹と挟み込んだ合成弓である。

 上方は一段進み、木の芯の前後左右を竹で囲んだ合成弓・四方竹弓を使っていた。

 威力は上方の方が上である。

 それを知ってか、上杉憲直は矢戦を選ばず、魚鱗の陣を取って中央突破を図る。

 坂東武者の勇猛さに賭けたのだ。


 最初こそ優勢であったが、次第に武器と数の差が出始める。

 宅間上杉家の勇猛な郎党を多数失い、上杉憲直は敗れ去った。


 この敗戦の影響は、十月に入ると出始める。

 十月二日に小田原と鎌倉の中間にある八幡平に重臣・木戸持季を派遣、守りを固める。

 しかし十月三日、肝心の鎌倉守備を任されていた三浦時高が上方に味方するとして離反する。

 これを知った持氏は、嫡男・義久に主力部隊を付けて鎌倉に帰還させる。

 三浦時高は三浦にある自領に撤退した。

 同じ頃、下総の有力武将・千葉胤直が陣を脱し、自領に戻る。

 千葉胤直には分陪河原の守備を任せようとしていた為、防御陣には大きな穴が開いてしまった。


 十月四日、神流川で敗戦を重ねながらも持ちこたえていた一色持兼、一色持家勢が陣払いをして撤退を開始した。

 そして上杉・長尾・小笠原勢がその後を追う。

 十月十九日、関東管領の数万の軍は分倍河原に到達した。


 持氏は海老名から高麗寺に馬を進める。

 だが既に高麗寺には上方軍の上杉持房が入って陣を張っていた。

 持氏はそのまま海老名に引き返すしか無かった。

 そんな海老名でも、分倍河原に居る数万の関東管領軍の前に見限りが続出し、陣は崩壊する。

 持氏は残された近習たちや箱根大権現の衆徒を率いて、鎌倉を守る息子・義久と合流すべく鎌倉に向かった。


 そんな持氏に更に悲報が入る。

 関東管領方・扇谷上杉持朝と三浦時高の軍が鎌倉に攻め入った。

 鎌倉の御所は陥落、足利義久は捕縛されたという。

 悲嘆にくれる持氏の前に、関東管領の家宰・長尾忠政、重臣・長尾景仲の部隊が現れる。

 多勢に無勢、持氏は負けを認めて降伏した。


 この時、まだ戦は終わっていなかった。

 上杉憲直は持氏と合流すべく動いていたし、大森憲頼も遊撃(ゲリラ)戦を続けている。

 北下総から下野そして北常陸に勢力圏を持つ鎌倉方の結城氏朝・持朝父子は健在だ。

 下野国では那須資持も勢力を維持している。

 北関東、特に東下野から下総北部、常陸西北にかけてはいまだ鎌倉方の勢力圏が残っていた。


 だが、足利持氏・義久父子の降伏で戦は終わりとなった。

 上杉憲直は持氏の元に駆け付けて降伏し、大森憲頼は姿を消す。

 結城氏朝、那須資持も、降伏こそしないが戦闘行為は停止させた。

 ここに京の足利義教と鎌倉の足利持氏の戦争「永享の乱」は終結した。

 足利持氏が関東管領討伐の兵を挙げてから、二ヶ月を要さなかった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 戦後処理が始まる。


 最初、関東管領上杉憲実は、自分の家宰・長尾忠政が持氏と捕らえ、同族である扇谷上杉持朝が義久を捕らえた事で安堵していた。

 勲功第一は上杉家であり、その褒美として足利持氏父子の助命を願う。

 そうすれば関東は元の形に収まり、かつ癇の強い持氏を今度こそ制御出来る。

 足利家を上杉家が支え、その体制を関八州と奥羽越の守護が支持する。

 これまで通りの鎌倉府が残るのだ。


 だが、義教にそんな気はサラサラ無い。


 くどいようだが、足利持氏と足利義教は似た者同士である。

 足利義教の戦後処理も過酷なものだった。


 持氏に従って戦を止めた一色持兼、持家及び上杉憲直を長尾忠正に命じて攻めさせる。

 彼等は称名寺に居たが、そこを攻められて自害した。

 海老名季長は六浦引越に居たが、扇谷上杉持朝に攻められ自害する。

 上杉持朝は海老名季長を密かに助命する気であったが、全てを諦めた季長が先に命を断つ。

 由比若宮(元八幡)の社務・尊仲は、関東管領について讒言したという罪で京に送られ、そこで処刑される。

 周辺がそんななのに、張本人の持氏が許される訳が無い。


 上杉憲実は書状で、足利持氏の助命と、義久の鎌倉公方就任を願い出る。

 しかし逆に叱責を受ける。

 お前は持氏と実は共謀していたのではないか?と。

 そして、幕引きを命じられた。

 上杉憲実は長尾忠政と扇谷上杉持朝に命じ、持氏と叔父・稲村御所の足利満貞の居る永安寺を攻めさせる。


 持氏と満貞は出家をし、既に覚悟を決めていた。

「返す返すも、あの還俗将軍奴を甘く見たのが誤りであった」

 後悔とは遠い口調で持氏が語る。

 自分の誤りであり、嘆いても取り返しがつかない。

 連座した倅にだけは申し訳ない事をした。


「公方様、御自害し給え」

 永安寺の外より上杉持朝や千葉胤直の声がする。


「御所様! どうせなら打って出ましょう!」

 近習が最後の一戦を願い出る。

「好きにせよ。

 わしは自分のやりたいように生きた。

 其の方たちも、己の好きにせよ。

 好きに戦い、思い残す事無く死ぬるが良い」

「有り難き幸せ!

 では御所様、お先に参ります!」


 持氏と満貞の近習は刀を抜き、永安寺を囲む軍勢に襲い掛かった。

 そして一切退く事をせず、全員が討ち死にを遂げる。

 この討ち死にした近習の中には、かつて武田信長と甲斐の覇権を掛けて争った逸見有直も居た。

 また里見家兼も、自分たちを拾ってくれた鎌倉公方に殉じて死んだ。

 彼等が戦って、死んでいっている間に、持氏と満貞は自害する。


 そして報国寺に囚われていた持氏の嫡子・義久も、念仏を十篇唱えた後、守り刀を脇腹に突き刺して倒れた。

 ここに鎌倉府は滅亡したのである。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 凱旋して京に戻る軍の中に武田信長も居た。

 彼は小笠原政康の軍で寄騎武将として戦った。

 鎌倉府に居た事のある信長は、様々な助言をしている。


 そんな信長を足利義教は呼び出し、命令を告げる。

「今後、其方の兄を補佐せよ」

「はっ」


 黙って命令に従う信長であるが、義教はついつい愚痴を零してしまう。

「そちの兄なのだがな……、

 余は鎌倉討伐を命じたのじゃ。

 なのに『自分には兵を率いた経験が有りませぬ』と言って動こうとせなんだ。

 本来なら余の命に逆らった罪で処罰じゃが、其方の功績と引き換えに不問とする。

 じゃが、甲斐の守護たる者がこうではいかん。

 其方は兄を補佐し、次の機会では其方が戦を指揮せよ。

 そうしてこそ、其方たち兄弟双方に恩賞も出せるというものよ」


 この次の機会が、思いの外早く巡って来る事になる。

おまけ:

関東管領が上野国に引き籠った。

新田岩松氏の領国も上野国である。

当主・岩松満国は一族郎党を集める。

「皆の衆に告げる。

 我が岩松党は……」

一同が固唾を飲んで聞き入る。

鎌倉公方に味方するのか?

関東管領に味方するのか?


「全力で中立を守る!

 どっちにも味方するな!

 上杉禅秀に与して痛い目に遭った事を忘れるな!」


この永享の乱において、岩松氏は全く動かなかった。

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