表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/61

あっさりと野望達成

用語説明:

※一揆は小武士団、国人領主の連合体の事で、百姓一揆や一向一揆とは性質が違う。

 要は偉い人の命令を聞きたくない武士たちが組合作って自治やってるようなもの。

「どうしてこうなった?」

 土屋景遠は産まれたばかりの甥をあやしながら途方に暮れていた。


 ここは伊豆国。

 甲斐を追放された武田悪八郎信長、土屋備前守景遠の義兄弟は、一時ここに隠れた。

 土屋家を倒した後に相模国小田原の地に入ったのは大森家である。

 苛烈な鎌倉公方と異なり、大森頼春は国人領主を弾圧しなかった。

 この小田原は、土屋氏と同族である土肥氏(源頼朝を支えた土肥実平の子孫)の拠点で、土肥氏は土屋氏に従って上杉禅秀に味方した。

 鎌倉時代の土肥実平と土屋宗遠兄弟以来の縁でそうなった。

 主導した土屋氏は、足利持氏によって平塚の地を逐われたが、大森頼春は土肥氏を臣従させるだけで済ませた。

 この土肥氏の密かな支援が受けられる事から、小田原からそう遠くない伊豆の地に一時留まり、折を見て京に上る筈だった。


 なのに……。


「悪八郎殿! 何やってんですか!?」

「ナニやったから、子が出来たんじゃねえけ」

 この子の名は、伊豆で産まれた為「伊豆千代丸」と名付けられた。

「伊豆に入り、妹の胎が膨らんで来て……。

 数えてみれば、昨年の師走か今年の正月の仕込みじゃないか!

 武田家が滅亡する瀬戸際で、あんたはどうして!?」

「なんかなあ、生命の危機を感じると、途端にムラムラしてたまらなくなってなあ」

「これではしばらく、伊豆を動けんぞ。

 京へは行けぬ」

「それなんだがなあ備前殿、京へは行っても意味ないようになった」


 情勢が変わったのである。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 まず、悪八郎信長は次男である。

 兄で嫡男の三郎信重は、鎌倉の討伐を受ける前に京へ行き、将軍足利義持に謝罪して出家していた。

 さらに滅亡した武田当主・信満の弟、穴山満春に至っては上杉禅秀の乱勃発前から京に逃れ、こちらも出家して難を逃れている。

「そこにわしが行っても、扱いとしては三番目くらいになり、わしの復帰の順番は遅くなるでな」

 足利将軍家としたら、武田はもうこれ以上不要かもしれない。

「兄上が出家した以上、もうこれは次男のわしが頑張る以外ないじゃろ!」

 次男坊が張り切っているわけである。


 また、足利将軍家は武田家復活に方針転換をした。

 理由は鎌倉公方・足利持氏の所業である。

 甲斐武田家を滅亡させた後、次は岩松家の当主・治部大輔満純を捕らえて斬首した。

 その後、上杉禅秀の乱とは前当主・満国が成氏に頭を下げ、三男の満長を仮当主とし、孫を嫡男とする事で「我々は乱と無関係である」と釈明した。

 そして乱に関与した満純の幼少の子を僧侶として決着させた。


 岩松家は新田一門である。

 南朝の重鎮であった新田義貞の新田宗家が没落。

 代わって岩松家が新田氏の中心となる。

 足利氏と新田氏は、同じ源義国を祖とする同族である。

 対立関係だったのは新田義貞の宗家。

 新田岩松家は足利の「一門衆」であり、御三家「吉良・石橋・渋川」に次ぐ家門だ。

 持氏は、その新田岩松家にも過酷な扱いをしたのである。


「ちょっと鎌倉の左馬頭殿(持氏)には問題が有るなあ」

 京都の将軍と管領たちは、今更ながら足利成氏を警戒し始めたる。


 二代将軍足利義詮と初代鎌倉公方足利基氏は実の兄弟である。

 三代将軍足利義満と二代鎌倉公方足利氏満は従兄弟である。

 三代鎌倉公方足利満兼は、氏満の子で、義満の従甥(じゅうせい)だ。

 ここまでは関係を表す語がある。

 だが、足利義満の子である四代将軍足利義持と、満兼の子である四代鎌倉公方足利持氏との間柄を何と表記したら良いだろう。

 親族ではあるが、どうも遠くなってしまった。


 それでも義持は見捨てなかった。

 持氏はまだ二十歳前の若造ゆえ、もう少し様子を見る事にはする。

 戦乱の後だけに、過酷な処置もひとまず目を瞑ろう。

 だが、持氏が求める「甲斐国守護に逸見(へんみ)有直を」という要求は退ける。


 源頼朝の時に武田の当主だったのは武田信義である。

 源頼朝は力を持ち過ぎた甲斐源氏を、知らず知らずのうちに粛清していった。

 警戒された信義は老齢を理由に隠居し、四男の逸見(へんみ)有義が家督を継ぐ。

 しかし頼朝の死後、もう粛清される心配が無くなったと見ると、信義の五男・石和(いさわ)信光が家督を奪う。

 どうも武田信義隠居にも、逸見有義排斥にも、新田氏を介した足利縁者である石和信光が関わっている疑いがあるのだが。

 とはいえ武田分家の逸見家は、それなりの勢力は持ったままである。

 こうして武田は石和に拠点を置き、多くの分家を各国に作って鎌倉時代、南北朝時代を生き抜いた。

 武田信長はこの石和信光の子孫で、新たに守護に推されている逸見有直は逸見有義の子孫である。


 鎌倉時代を通じて分家であった逸見家では、甲斐の自力心の強い領主たちを束ねられないだろう。

 そこで京の将軍家は、同じく分家の一つ、穴山家に養子入りした満春を甲斐の守護にしようと決めた。

 穴山満春は将軍義持の命令で還俗し、武田家に復帰して信元と名を改める。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「……という事で、甲斐に戻れるぞ」

 信長は最新の京の情報を披歴する。

「今までの流れで、復帰の要素があるのは確かでも、まだまだ遠いように思うのだが……」

「ま、細けえ事ぁ気にすんな」

「だがなぁ……」

 土屋景遠はボヤキ調である。

「確かに『武田』は甲斐に戻れるだろう。

 だが、お主だよ、問題は。

 悪八郎殿、お主は鎌倉にも京にも喧嘩を売った身だから、お主が復帰出来るとは限らんぞ」


 上杉禅秀の乱において、京の足利義持は鎌倉の足利持氏を正式に支援した。

 戦わずに出家した叔父の信元、兄の信重と違い、信長は父に従って戦ったのだ。

 そして木賊(とくさ)山の戦場から落ちて、追討がかかっている中、逃亡中なのである。

 同じ事は土屋景遠にも言える。

 彼等は揃って天下のお尋ね者なはずだ。


「わし、運が良いのよ」

 信長は手紙を見せる。

 それは義理の叔父(叔母の夫)である小笠原政康からのものであった。


 信濃国守護であった小笠原氏であるが、政康の兄である小笠原長秀が村上氏を始めとする国人領主連合「大文字一揆」に敗れ、守護職を取り上げられていた。

 政康は兄から家督を譲られ、守護職回復の為、京の足利義持の為に働いていた。

 その政康から

『修理大夫殿(武田信元)甲斐入部に力を貸して欲しい』

 と呼び掛けて来たのだ。


「叔父御の働きかけで、わしは許されてはいないが、追討もされなくなった」

「どういう事だ?」

「鎌倉殿と争う分にはお咎め無し、京の方はわしに手出ししないそうずら」

(そんな甘いものだろうか??)


 代々の所領土屋荘を追われ、亡命先の甲斐からも追放させられた、年長の景遠は信長の言う事が俄かには信じられなかった。

 何か裏があるのではないか?

 確かに京の方は武田信長を討伐するのはやめたかもしれない。

 だが、信長に好き勝手をさせる気も無いのではないか?

 いや、武田家そのものを以前のようにさせるのだろうか?


 土屋景遠の心配は当たっている。

 足利義持という将軍は、保守的、現状維持を信条とし、将軍独裁ではなく合議制を重視する政治家である。

 将軍は一門、有力家人が成った「有力守護」と協調し、鎌倉に源頼朝が立てた武家政権の有り様を継承する。

 足利尊氏が定めた施政方針「建武式目」十七箇条に則った「建武体制」を至上のものとする保守的な人物。

 だが、甘い人物では無い。

 将軍と管領たちは、武田家を守護として甲斐に戻す一方、それに足枷も付ける。


「是非、我が身内の跡部駿河守を甲斐の守護代として任じいただきますよう」

 小笠原政康が、庶流の跡部一門を推挙する。

 将軍と管領たちは

「時期尚早」

 としながらも、跡部駿河守と跡部上野介の父子と面会したりして、守護代任命に前向きであった。

 叔父とはいえ、小笠原政康も抜け目ない。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 十月、足利持氏がようやく鎌倉に帰府した。

 上杉禅秀の所領であった上総国を攻撃し、ここも壊滅させて乱の後始末を終えての帰還である。

「京の奴等は、わしの推挙を受け入れなかったわけじゃな」

 京へ出した使者・海老名三河守からの報告を受け、持氏は不愉快であった。

「まあ、良い。

 京への使者は、単に奴等の顔を立てる為のものに過ぎぬ。

 坂東の事は坂東で決める。

 武家の都はこの鎌倉!

 京に非ず」

 そして傍に控えている逸見中務丞有直に向けて言った。

 

中務(なかつかさ)

 そなたこそは鎌倉が認める甲斐国守護じゃ!

 甲斐を治め、このわしに忠義を尽くせ」


 足利持氏が鎌倉に戻ったのと同じ頃、小笠原政康・武田信長に守られて、還俗した武田信元が甲斐に復帰した。

 武田信長の野望、武田を大名に復帰させるというものはあっさりと達成された。


「甲斐国よ、わしは帰って来た!!」

 叫ぶ信長であったが、武田家の前途は多難である。

 

 甲斐は滅亡からの復活を果たした武田宗家と、鎌倉公方が任命した逸見家と、京の将軍家及び信濃小笠原氏が撃ち込んだ楔である守護代・跡部家による三つ巴の権力闘争の場となる。

 武田信長・土屋景遠はその渦中に飛び込んでしまったのだ。

おまけ:

上野国に大勢力を持つ豪族・岩松氏は、新田と足利両方の末裔であった。

武士の棟梁・八幡太郎源義家の子に、源義国という者がいる。

その長男が新田氏の祖・義重、次男が足利氏の祖・義康である。

源義康は保元の乱の前に京に出て、源義朝と義兄弟になった。

足利氏はこの時期から京都に影響力を持つ。

義重と義康の嫡男は、ともに義兼であった。

その足利義兼の庶長子・足利義純と、新田義兼の娘が結婚した。

しかし、鎌倉幕府執権北条氏の縁戚でもある足利氏は、政略に捉われる。

新田義兼の娘は、生まれた子と共に離縁される。

足利義純は、滅亡した畠山重忠の娘(北条時政の孫)と結婚し、秩父平氏を乗っ取る。

この足利義純の子孫が、京にいる執権・畠山氏である。

足利義純と新田義兼の娘との間の子は、祖父の新田義兼が面倒を見て、岩松郷(群馬県太田市)を領土として与えた。

この時の子、岩松時兼の六世の子孫が岩松満純であり、今、足利持氏の前に縄目の身となっている。

この岩松満純を捕らえたのは隣の佐貫荘住人・舞木持広である。

「わしは、単に上杉禅秀殿の婿であったに過ぎぬ。

 このように新田岩松の当主を扱うとは、鎌倉殿といえ許されぬことぞ。

 疾く、縄をお解きあれ!」

胸を張る満純だったが、足利持氏は何か可哀そうな者を見る目でいた。

「その矜持は認めてやるが、お主にもう味方は居ないぞ」

「何ですと?」

「河内、例の書状を持って来い」

鎌倉府の奉公衆・簗田河内守満助が先ごろ届いた書状を持って来る。

新田うちには満純なんて当主はいません。

 当家うちの当主は満国、嫡男は土用安丸(後の岩松持国)である。

 満純という者は知らないので、煮るなり焼くなり、好きにして構わない。

 その代わり、新田荘に手を出したら全力でお相手しますので、悪しからず。

 前兵庫頭 満国』

「親父ぃぃぃぃぃぃぃ!

 俺を売ったのかぁぁぁぁぁぁ!!!」


かくして岩松満純は鎌倉・龍ノ口で斬首され、その領土、満純が持っていた領土だけ没収された。

かなりの所領を失うも、岩松満国の他の子、満長や満春が相続した土地は守り抜いた。

後に徳川という得体の知れない武家から「御本家」と呼ばれる事になる新田岩松家は、どうにか危機を切り抜けたようである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ