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都鄙決裂

用語説明:第

(てい)は邸に通じる。

(てい)は亭に通じる。

後に聚楽第という建物が有名となる。

将軍御所は室町第と呼ばれ、「花の御所」とも呼ばれる。

なお、足利将軍は

・尊氏:二条万里小路第

・義詮:三条坊門第

・義満隠居後:北山第

・義持:三条坊門第

と必ずしも室町第に住んでいるとは限らない……。

 武田信長は足利義教の仲立ちで、かつて排斥した兄・信重と室町第にて会う。

 しかし、顔を合わせた刹那、義教が叫ぶ。

「武田の三郎!

 これなるは上杉禅秀一味の張本なり。

 直ちに討ち取って参れ!!」


 無論、公卿である義教が直接大音声等は出さず、伝奏役が叫んだのだが、それでも信長は

(まさか、騙し討ちか?)

 と驚いた。

 だが、驚いているのは兄も同じである。

 その兄は、直ちに御簾内の義教の方へ向き直り、

「その儀は、ご容赦下さいませ」

 と頭を下げる。


「何故じゃ?

 武田右馬助はあの上杉禅秀と共に乱を起こした者。

 更には其方の甲斐守護職を妨げた者。

 其方が討ち取れば問題無かろう」

(それがし)に弟を討つ事は出来ませぬ。

 弟、八郎は不甲斐無き某に代わり、乱れた甲斐を纏めようと懸命だったまで。

 確かに穴山の徒と組み、国入りを妨げた事について思う所は御座います。

 されど兄弟の縁切り難く、弟がむざむざ死なす事は出来申さん。

 弟を斬るなら、どうぞこの某もお斬り下さい」

「待たれよ、兄上!

 兄上まで死ぬるは、武田の家系を絶やす不孝に繋がる。

 死ぬならわし一人で良い。

 公方様もそれがお望みのようだからな」

「余は其方のどちらの死も望まぬ」


 これは代理ではなく、義教本人の肉声である。


「右馬助、よく分かったか?

 三郎、よくぞ言った。

 其方たち兄弟に(わだかま)りは無いのじゃ。

 今後、兄弟協力し合うと、余の前で誓うのじゃ」

 どうやら、兄弟の本音を引き出す為の芝居だったようだ。


 と同時に義教も政治家である。

 まず信長に、過日の守護排斥を謝罪させる。

 信長に信重の甲斐守護を認めさせ、伊豆千代丸は退去させる事にする。

 そして父子揃って新天地を探させる事とした。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 足利義教の足利持氏に対する締め付けは、まず義教の古巣・比叡山延暦寺への攻撃から始まる。

 義教が信長を家臣にする前年、永享六年八月、足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているという事を理由に延暦寺の近江国内の寺領を没収する。

 すると延暦寺は神輿を奉じて入洛、強訴に及ぶ。

 しかし、平安の世以来のやり方は通じない。

 義教は兵力を持ってこれを撃退する。

 そして比叡山の麓・坂本の町を焼き払う。

 十二月、延暦寺は降伏。

 義教は徹底的に潰したかったが、管領・細川持之を始めとした宿老五名が

「ここで延暦寺ご赦免が成されなければ、自邸を焼いて本国に退去する」

 と言って来た為、この年はここまでとした。


 翌延享七年、義教は謀略を使って延暦寺の有力僧四人を誘い出し、京都で斬首。

 これに激昂した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立て籠り義教を激しく非難する。

 だが義教は一切の妥協をしない。

 僧侶たちは抗議の為、根本中堂に自ら火を放って焼身自殺を遂げる。

 その炎は京の町からも見えたという。

 これが巡り巡って「万人恐怖の将軍による叡山焼き討ち」という噂となる。

 義教は延暦寺について噂する者を斬罪に処すという触れを出した。


 比叡山延暦寺は、足利政権にとっての野党である為、単に鎌倉府対策で潰したのではない。

 もっと色々な事情があるが、それでも今まで仕掛けて来るのに対応するだけだった義教が、持氏に対して行った反撃の一発目となった。

 永享七年に比叡山を屈服させると、次は信濃国である。

 北信濃の国人・村上頼清は小笠原政康と抗争状態にあった。

 村上頼清は足利持氏に援軍を求めていたが、これは関東管領・上杉憲実が反対して行われなかった。

 信濃は鎌倉府の管轄ではないというのが理由である。

 越権行為は京都からの攻撃を招きかねない。

 その間に京都からの支援を得た小笠原政康が北信濃を攻撃。

 村上頼清は降伏し、足利義教の下に出頭する。

 徐々に鎌倉に迫る義教の手。


 だが、この期に及んで、まだ持氏は「籤引き将軍」を甘く見ていた。

 あの甘ちゃんの籤引き将軍が調子に乗っているのは関東管領が奴等に協力しているからだ。

 そう考えた持氏は、関東管領山内上杉家を遠ざけ、宅間上杉家や母親の実家・一色家を重用する。

 かつての足利義持との協定を反故にし、再度公方専制を強化し始めたのだ。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「かつて鎌倉公方に仕えた其方はどう考える?」

 村上攻めの後、自領信濃国府(筑摩郡上田付近)に戻った小笠原政康は、部将として付けられた武田信長に尋ねる。

「関東管領の事か?」

「左様。

 関東管領が鎌倉公方に屈するか否かで、今後は変わって来よう。

 上杉安房守(憲実)はどちらに転ぶと思う?」

「安房守がどう思うのではないな。

 武衛殿(持氏)は早晩、安房守を討つのではないかな」

「そこまでか?」

「そういう男じゃ。

 親類殿は、京の公方様をどう見る?

 敵対者に対し、生温いか?」

「いや、敵に回った者には容赦しないのぉ」


 義教は苛烈な性格である。

 笑顔を見せた公家を「将軍を笑った」として蟄居させ、所領を没収した。

 闘鶏見物の行列で自分の交通を妨げられると、鶏を京都から追放した。

 義兄・日野義資への処遇は特に酷い。

 義教の出家時代、青蓮院義円と名乗っていた時に不忠が有ったとして所領を没収され、蟄居を命じられる。

 その後、日野義資の妹・重子が子を産むと、日野義資の元に祝賀の客が訪れた。

 義教はその客全員を処罰した。

 その後、日野義資が何者かに殺され、首を持ち去られる事件が起こる。

 それは義教の仕業と噂されたが、義教は噂を流した高倉永藤を薩摩硫黄島へ流した。


「公方様と武衛殿は似ておるのよ」

 信長が語る。

 近くで控える土屋景遠は

(お主もな!)

 と思うが、口には出さない。


「なるほどのぉ。

 関東管領上杉安房は、いずれ命を狙われる、と。

 よく今まで無事じゃったな」

「武衛殿は意外に義理堅い部分もあってな。

 勝定院様(義持)との約束で、関東管領を大事にするとしていた。

 それで今まで諫言にも耐えて来たが、そろそろ堪忍出来なくなろうぞ」

「それで、動くのは何時と読む?」

「そこまでは分からぬ。

 だが、兵を再度集めるのは、武衛殿と関東管領が揉めてからで良かろう」


 小笠原政康の質問意図は、何時まで兵を集めたままでいれば良いのか、何時までに兵を再招集させるべきか、である。

 農繁期に地侍や、その村落より連れて来られた兵は戦えない。

 農閑期であっても、戦わずに兵をダラダラさせておくと、暇になって周囲の村に略奪に行ってしまう。

 戦うなら戦うと決めて、兵を引き締めねばならない。

 そうでないなら、一旦兵を自分の田畑に戻さねばならない。

 そうした場合、再招集の時期を見誤れば、合戦に参加出来ないで終わってしまう。

 故に、鎌倉公方と関東管領の揉め事が起きてから兵を集めるのでは、遅すぎまいか?


「いや、武衛殿は不意打ち、処刑を多用し過ぎた。

 わしが鎌倉に降る時も、何よりも騙し討ちが気になった。

 つまり、誰もが武衛殿のやり様を知っておるという事だ。

 そうなれば、ただでは殺されぬ。

 危険を察知したら領国に戻る。

 そうなると長びくだろう」


 山内上杉家の本領は上野国である。

 そこで守りを固められたら、鎌倉の軍勢でも落とすまでに時間がかかる。

 そして上野国と信濃国は国境を接している。

 もしも上杉憲実が籠城に出た場合、信濃の小笠原政康としては、南下して鎌倉を攻めるよりも上野国に援軍を出す事を求められるだろう。


「合点がいった。

 右馬助殿、暫く逗留頂きたい。

 来るべき合戦の折は、また力を貸して頂きたい」

 信長一行は、小笠原家の世話になる事となった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 信長の予想は当たる。

 少々穿ち過ぎた予想だったかもしれないが、結果は正解であった。


 足利持氏は、村上頼清を再度取り込もうと宅間上杉家の上杉憲直に軍勢を集めさせる。

 この行為が、実は信濃遠征ではなく、関東管領討伐ではないか、という噂が立った。

 合戦を予想した関東管領方の被官が屋敷に集結し、両陣営に戦を予想した武士たちが集まり始めた。

 事態は深刻で、持氏の母親まで乗り出して来る。

 何やかや揉めた挙句、この時は両方とも妥協して収まった。


 翌永享十年(1438年)、またも鎌倉公方と関東管領は対立する。

 足利持氏が、息子・賢王丸元服に際し、今までの慣習である京の公方から一字拝領する事をせず、勝手に名前をつけた事が理由であった。

 その名は「義久」。


 足利家の通字は二つある。

 京の将軍家は河内源氏の名に使う「義」、鎌倉公方家は足利義氏以来伝来の「氏」。

 従って、本来は「教氏(のりうじ)」と名乗る事になる。

 しかしそれを無視した上に「義」の字を使うという事は、京への挑戦であろう。


 上杉憲実は必死に諫言したが、持氏は聞く耳を持たない。

 上杉憲実は悲嘆し、死をもって抗議しようとした。

 だが被官たちに止められ、鎌倉を出奔して自領・上野国に籠ってしまう。


「しめた!

 これで目障りな関東管領を始末出来る!」

 足利持氏は喜び、奉公衆を集め出した。


 報告を聞いた足利義教も手を叩く。

「しめた!

 これで目障りな鎌倉公方奴を始末出来る!」

 義教もまた、鎌倉のそれより大規模な奉公衆に参集の命を出したのである。

おまけ:

永享八年(1436年)、岩松家の土用安丸は元服する。

この時、足利持氏の一字を貰い、名を持国と改めた。

元服してすぐに、武蔵国春原の内、万吉郷を養命寺に寄進した。

若き新田岩松の次期当主に対し、持氏は右京大夫の官途を与える。

この官職名から、岩松持国の系統は京兆家と呼ばれる事になる。

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