将軍伺候
永享六年、鎌倉公方足利持氏は鶴岡八幡宮に願文を奉納する。
『大勝金剛尊等身造立の意趣は
武運長久 子孫繁栄 現当二世安楽のため
殊には呪詛の怨敵を未兆に攘い
関東の重任を億年に荷なわんがため
これを造立し奉る也
永享六年三月十八日
従三位行左兵衛督源朝臣持氏』
この願文は持氏が自身の血を混ぜて書いている。
「怨敵」の呪詛の為に……。
永享六年(1434年)、甲斐国守護代跡部明海は伊勢神宮参拝の旅に出る。
実際の守護代は息子の跡部景家である為、事実上の当主とは言え、名目上は隠居で出家の明海はこういう旅行が出来た。
だが、伊勢参りは単なる名目に過ぎない。
本当の理由は、もっと生臭いものであった。
伊勢参拝を済ますと、その足で京に入り、帝や将軍に挨拶回りをする。
そして本題の用事に入る。
彼は管領・政所から呼び出しを喰らっていた。
理由は京の公方が決めた守護を拒絶した為である。
その弁明と共に、彼は武田三郎信重と面会する。
(うむ、実にお優しいお方じゃ)
全く褒めていない。
要は「傀儡として相応しい」という事なのだ。
そして
(そろそろ伊豆千代丸も不要よな)
そう結論を出す。
伊豆千代丸は加冠親が居ない事もあり、元服出来ずにいた。
だが、もう十八歳にもなり、政治や相続について口うるさくなって来た。
(あの小童は、何も言わないからこそ神輿として良かったのに、そこが分かっていない)
それに比べれば、成人しているが信重の方が神輿として使いやすい。
さらに将軍義教の意向で、各国の守護は在京させられる事が多い。
跡部明海は、武田信重の守護就任を認め、臣従すると頭を下げた。
物凄い悪い笑みと共に。
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「そうか、一つ問題は片付いたか」
亡き兄・義持以来の持ち越し案件であった甲斐守護問題が決着した。
どうせ武田信重は在京なのだから、跡部家が認めれば解決するという読みが義教には有った。
だからこそ、伊勢参拝を持ち掛ける形で呼び出した。
全てが上手くいき、義教は満足している。
「武田右馬助に、遠江国の蒲の庄御厨を所領として与えよ」
突然の命に、政所は戸惑う。
武田右馬助は元鎌倉府の奉行人、更に言えば上杉禅秀の乱に連座した罪人なのだ。
「余の命に逆らうのか?」
足利義教の昇叙は速い。
僧から還俗し、元服したのが永享元年(1429年)である。
この年、三月十五日に従四位下・参議、左近衛中将を、征夷大将軍宣下。
三月二十九日に従三位に昇叙し、権大納言に転任。
八月四日、右近衛大将(源頼朝の経験した常設武官の最高職)兼任。
十二月十三日、従二位に昇叙。
翌永享二年には従一位に昇叙、これより上の正一位は神様しか成れない。
永享四年の七月に内大臣に転任。
同八月に左大臣になっている。
なお、不仲であった管領・斯波義淳の辞任を中々許さなかったのは、この内大臣及ぶ左大臣就任の大饗(祝賀会)を沙汰させる為であった。
一ヶ月の間に、しかも嫡男死去に伴う喪中にも関わらず祝賀会をさせられた斯波家の負担は大きなものであっただろう。
官位も財力も身に着けていった義教は自信に満ち溢れている。
故に、唐突な命令も出すし、それに対する反論も、ごく一部の者以外には許さない。
かくして駿河亡命中の武田信長は、表向きは何もしていないのに、突如所領を賜るという不思議な事態に直面したのであった。
「悪八郎殿、これは一体??」
物事が悪い方に進む事に慣れ過ぎた土屋景遠は、今起こっている事が理解出来ない。
千貫の所領というのは、後の単位である石高で言うなら二千石に相当する。
表向き大した働きも無い信長にぽっと与えるには大きい領土だ。
狼狽える景遠に対し、信長は冷静だった。
「そうか、京の公方がわしに会いに来いと言っておるのだ」
信長は将軍の意図を読み取ると、すぐに今川家中の者に挨拶をし、駿河を出国した。
与えられた所領・蒲の庄に土屋景遠を置くと、加藤梵玄と共に少数の供で上洛する。
「入道殿、わしは京は初めてじゃ」
「わしは一度有りますのお。
出家し、その後大徳寺を訪れ申した。
まあ、昔の話ですじゃ、グワッハハハ」
梵玄入道は、トレードマークとも言える巨大な金砕棒を持っている。
そんな目立つ格好で京入りした一行は、たちまち噂話の種となった。
「ククククク……、おかしやおかしや。
武田右馬助、中々の婆娑羅者のようじゃ」
足利義教は、もうこの時期には古い表現で、派手好き奴と笑った。
婆娑羅は戦には滅法強い。
多少の事には目を瞑ろう。
さて、上洛したは良いが、彼等には室町第に参上する伝手が無い。
取次を成す大名への挨拶、この場合は礼金も持っていない。
そこで顔見知りから将軍へ取り次いで貰う事とした。
「という訳で、お願いしたい」
現れたのは小笠原政康の邸宅である。
いきなり現れた遠い親族に、政康も呆れる。
既に述べた通り、小笠原政康は将軍の弓馬指南役を引き受けている。
そこに遠い親族だからと言って、いきなり現れるとは如何なる事か。
「亡き式部大輔(武田信元)を甲斐に送って以来、久しいのお」
「はい。
小笠原の親類殿には、甲斐に大層な土産を置いていかれ、実に感謝しております」
嫌味である。
小笠原政康が跡部父子を甲斐の守護代として送らねば、信長は甲斐守護の父として居られた筈なのだ。
それを察した政康だが、平然として
「それで、如何なる御用かな?
わしは公方様と関わりがあって、便宜を図ってはならぬと言われておってな。
大した事は出来ぬと思うぞ」
牽制する。
「いえ、室町第に押しかけよう等と思ってはおりませぬ。
公方様のお耳に入れて下されば、とは思いますが、お願いしたいのはその儀ではありません」
「では何か?」
「今川殿に紹介していただきたい」
「今川殿じゃと?」
それならば大きな問題にはなるまい。
(まあ、便宜を図るな、等と言われてもおらんがな)
ホイホイ引き受ける程小笠原の当主は軽くない。
将軍への面会願いは保留とし、まずは今川範忠への紹介状を手渡した。
「其方が武田右馬助殿か。
話は聞いておる。
世話になったようじゃの」
「いえ、駿河に匿って頂く代金代わりと思って下され」
「では、わしと其方は貸し借り無しで良いかの?」
今川範忠も軽くは無い。
安請け合いはしないと、言外に含めている。
「はい。
貸し借り無しで良ろしいです。
まあ、公方様には武田が上洛していると、お耳に入れて頂ければ有難いです」
「その程度で良いのか?
分かった、公方様に拝謁した時、折を見て耳に入れておこう」
(この男、何を考えている?)
続いて信長は、斯波義淳を訪ねる。
斯波家はこの時期、叡山攻めを任せられ、次期当主・持有と越前守護代・甲斐常治が出陣していた。
当主の義淳は病で伏せっている。
信長は突然の来訪を詫び、挨拶だけをして宿舎にしている加藤梵玄縁の寺に戻る。
このような行動は、足利義教の耳に入る。
「あの男、わしに己を呼べと言っておるのよ。
曲者よな」
「して、如何成されます?」
引き続き側近を勤める醍醐寺座主・満済が尋ねる。
「呼ぼう」
その一言で武田信長は室町第参上が決まった。
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武田信長と鎌倉公方・足利持氏は似た者同士である。
しかし馬が合わない。
京の公方・足利義教と鎌倉公方・足利持氏も似た者同士である。
しかし、こちらは更に馬が合わず、正直毛嫌いし合っている。
足利義教と武田信長も似た者同士である。
こちらは馬が合うようだった。
初対面でいきなりお互いに好感を抱く。
公卿身分の義教とは御簾越しに会っているのだが、それでも感じ合うものがあった。
「余に仕えよ」
「仰せのままに」
これで決まる。
その後、義教は信長に意外な事を言い出す。
「其方、派手にあちらこちらを彷徨したようじゃが、兄には会わんのか?」
兄・武田三郎信重は京都に常駐している。
会おうと思えばすぐに会える。
だが……
「某、以前兄を守護と認めず、国より追い出した事が御座います。
会わせる顔が御座いません」
「それはいかんな。
余が仲立ちする故、兄弟絆を戻すのじゃ」
「は……」
「そして、甲斐の事は諦めよ」
「は?」
「甲斐は其方の兄が継ぐ。
元々父が生きていたらそうなったであろう。
それ故、其方は新しい己の国を求めよ」
「あ……新しき国、ですか?」
「そうじゃ。
余が其方に国をやろう。
それまで、余の為、懸命に励め」
「ははっ」
(鎌倉公方とは器が違う……)
義教の奨めに従い、信長は兄・信重と会う事とした。
そして兄弟は室町第で対面する。
その瞬間、足利義教は叫んだ。
「武田の三郎!
これなるは禅秀一味の張本なり。
直ちに討ち取って参れ!!」
おまけ:
鎌倉府において里見家は、常陸に所領を得て小原城に本拠地を置いていた。
里見兵庫助基宗と叔父・満俊が詰めている。
基宗の父・家兼と嫡男・家基は鎌倉に出府している。
里見義実は尋ねる。
「何時頃造られたのですか?」
「延元二年(1337年)、里見家の先祖が造られたと聞く」
「延元ですか?
後醍醐天皇の御世ではないですか!
南朝方の里見が、どうして北朝方・鎌倉の勢力下に城を築けたのですか?」
「知らぬ!!
細けえ事あどうでもいいんだよ!」
築城年については諸説あるのであった。