駿河亡命
永享五年(1433年)、足利義教は久々に遣明船を出す。
その船には貿易を可能とする勘合符が積まれていた。
元値の二十倍もの利を得られるというこの貿易で、義教は巨万の銭を手に入れる算段だ。
(銭が無くては戦も出来ぬ)
義教は準備を始めていた。
一方、義教も知らぬ事情がある。
日本は銭を鋳造する技術が低い。
信頼出来る品質の銭が作れず、贋銭が横行している。
そこで明に永楽銭の発行を依頼しているのだが、その時に原材料として輸出している銅に問題があった。
日本銅には大量の銀が含まれている。
明は銅銭を鋳造してやる一方、日本の気づかぬ余分なもの「銀」を黙って手に入れていた。
明の決済通貨は銅銭ではなく、銀である。
永楽銭は輸出用硬貨なのだ。
かくして足利将軍、明ともに交易で通貨を手に入れていたのだった。
駿河の守護は今川範政である。
彼は今、死の床についていた。
彼は過去、上杉禅秀の乱で鎌倉から落ち延びた足利持氏を保護し、乱の鎮圧に尽力した。
鎌倉公方に協力した者ではあるが、基本的に彼は京の足利将軍家の派閥である。
新公方・足利義教からは厚い信頼を寄せられ、鎌倉府の監視役を任せられていた。
だが永享五年(1433年)のこの年、彼は失政をする。
末子の千代秋丸に家督を譲ろうとし、嫡男・彦五郎と対立してしまった。
今川彦五郎の出生には疑問がある。
今川範政の子でなく、甥であると醍醐寺座主であった満済が記録している。
足利義持、義教両将軍の相談役で、准三后の宣旨も受けた満済の日記では、今川範政の長男は五郎範豊、次男は弥五郎範勝、その弟が千代秋丸であり、ここに彦五郎範忠の名は無い。
次男・弥五郎が生まれる前に長男・五郎が死に、彦五郎が嫡男として将軍から認められた。
だからかもしれない。
今川範政は可愛い末子を嫡男とすべく、彦五郎を強引に出家させた。
これによって家中が二つに割れてしまう。
彦五郎が在京で駿河国内に居ない事もあり、彦五郎派と千代秋丸派は一触即発である。
こんな中、甲斐で権力争いに敗れた武田信長一行が駿河に潜伏した。
土屋荘(小田原周辺)に代々住んでいた土屋景遠には、駿河は箱根を越えたお隣の国であり、付き合いのある地侍や寺社も少ないながら有った。
その縁を使って、甲斐と鎌倉双方から追われる信長一行は隠れ住んで……いる筈なのだが……。
「わしがこの問題、収めてみせよう」
信長が言い出す。
「来たばかりでいきなり他家の事に首を突っ込まないでいただきたい!
ここも追われたらどうするのか?」
土屋景遠の苦情にも平然と返す。
「なあに、蒼天の下、大地の上、日ノ本全てが棲み処となろう。
義兄上は鎌倉で何を学ばれた?」
「お主と違って、鎌倉殿に付き合わされて五山を回っても、
塔頭に入れて説教を聞く身分では無いものでな!
それよりも、頼むから駿河では大人しくしていて欲しい。
今川家からも睨まれたら、いよいよ箱根の山中に住まうしかなくなる」
箱根には、何時の頃からか風魔なる山賊若しくは野伏せりの一団が蔓延っているという。
噂話の域を出ない。
何故なら、そこで行方を断った者は、何が其処で有ってのかの証拠を一切残していないのだから。
ではあるが、昔から箱根の峠越えの時には山賊が現れると言われ、安心出来る場所ではない。
故にこそ、鎌倉からの追求を免れる障壁となっているのだが。
「この件、意外と簡単なのだよ」
「悪八郎殿、いい加減に……」
「まあまあ土屋殿、話くらいは聞いてみようではないか」
加藤梵玄が土屋景遠を宥める。
この荒法師は「悪八郎殿といると退屈せぬ」という理由で、またも甲斐から着いて来たのだ。
「彦五郎殿の家督は動かぬよ」
信長が言う。
彦五郎は既に足利将軍が認めた嫡男である。
現家督の今川範政存命中は兎も角、死後は将軍が決めた通りに相続されるだろう。
「それに鎌倉の事もある」
京は鎌倉の、具体的には足利持氏のこれ以上の勢力伸長を望んでいない。
伊豆千代丸の母親は関東管領上杉家からの輿入れであり、伊豆千代丸が成人ならば関東に縁を持つ良い監視役となろう。
だが、未だ幼少の当主であるなら、鎌倉によって上手く乗っ取られる可能性がある。
そうでないにせよ、鎌倉監視の任は荷が重い。
「まあ、伊豆千代丸殿が跡部家の傀儡にされているようなものじゃな」
「……嫌な事思い出させんでくれ、義兄上。
それで、続けるぞ」
親として一番嫌なのは、自分の血を分けた子が絶える事、それも成人して後に己の愚かさで滅亡するなら諦めもつくが、幼児の内に殺されるのは忍び難い。
だからこそ、家督を譲って家臣団によって守りたい。
今川憲政の意を受けた家臣も、千代秋丸の命を守る事を最重要課題とするだろう。
一方の彦五郎派は、そこまで切羽詰まってはいない。
彦五郎の家督相続が無事済めば、千代秋丸という幼児は問題ではない。
「であれば、彦五郎殿に千代秋丸を決して殺さぬ起請文を書かせ、
駿河の留守居という大役を任せれば双方が収まるだろう。
どうせ今川家は上洛しておる事が多く、駿河の中に異母弟が居ても目障りでは無かろう」
「…………」
「どうした、義兄上。
何か異論が有りますか?」
「いや、至極真っ当な見解よと、感心しておったのよ。
お主は自分が絡まぬと、物事がよく見通せるようじゃのぉ」
「いや、わしの事とて常に正しいのだが、そちらは上手くいかなくてな」
「……変わってないのぉ」
兎も角、範政存命中に動くのは危険と判断し、死後に動けるよう伝手を作る事から始める。
こういう時、地縁更には血縁もある土屋景遠の存在は有り難い。
また加藤梵玄も駿河国中の寺を回り、さりげなく意見を伝える。
永享五年五月二十七日、駿河守護、征夷副将軍今川範政、死す。
御家騒動は……未然に食い止められた。
まず、京の足利義教が早々に動く。
在京の彦五郎を呼んで今川家の家督を認める。
今川上総介範忠である。
この範忠の元に嘆願書が届く。
それは駿河国中の寺からの連署で
『千代秋君の御命を保障されるならば、国内の不満分子を抑え、家督争うを穏便に済ませましょう』
というものだった。
千代秋丸派の者たちに煮え湯を飲まされていた彦五郎の一党は、せめて手下の者は討てとか、千代秋丸は寺に入れるのが条件だとか不満を漏らしている。
そこに別の書状が届く。
『千代秋君をそれなりの分家として残されるなら、我等は彦五郎様を主君としてお迎えする所存。
されど駿河国内にはこれを認めぬ者も在り。
それは富士、狩野の一党なり』
(纏まるのが早過ぎよう)
彦五郎は不思議に思う。
今川の郎党たちも団結力は全く無く、それでいて今川家以外に抜きん出て強い家も無い為、揉め事が有れば長期化しやすい。
それが今回、条件を分かりやすく提示し、それを認めない者を排除した上で、さっさと事態収拾に入っている。
何者かが仲裁したかもしれない。
ただ、その何者かが行った仲裁内容は、呑む事が可能なものだ。
・己の家督継承を家中一同が認める
・千代秋丸は当主弟の家系として残す
・家督騒動を起こした責は、狩野や富士に負わせてケジメをつける
落としどころが明白なのだ。
「この申し出、受けよう。
と同時に上様に申し出て、わしの家督を認めぬ者の討伐を致そう」
それで京都の彦五郎派は納得した。
今川範忠は言う。
「この収拾、裏に何者かが居るだろう。
その者について調べよ。
味方なら良い。
だが、今川に仇成す危険性が有るならば……」
皆までは言わないが、家臣たちも武士である以上、むしろ危険性が有って討伐したいと思っていた。
今川家中を影で纏めた者の名はすぐに判明する。
武田右馬助信長、数年前まで鎌倉公方の下で奉行人をしていた男だ。
(鎌倉を出奔したと聞く。
それでこの男、毒か薬か?)
その答えも割と早く出た。
将軍・足利義教は、今川範忠の家督継承を認めずに乱を起こした狩野・富士氏討伐を認めるも、範忠本人には引き続き在京を命じた。
代わりに越前・尾張・遠江の三ヶ国守護で前管領の斯波義淳に鎮圧を命じる。
この斯波義淳は鎌倉府が義教に対し、これまでの京都扶持衆への圧迫について詫び状を出させるか、そんな事を命令は出来ないか、という事で対立している。
故に鎌倉寄りの意見だった斯波義淳は疎まれていて、先年ついに管領を辞任した。
斯波義淳にも子が無く、異母弟・斯波持有を次期当主として義教に会わせていた。
この斯波持有の実績作りの為、持有を自身の名代として出陣させる。
その補佐役には、尾張守護代の織田淳広があたる。
この斯波家を中心とした討伐軍が駿河に入ると、武田右馬助の郎党十数騎が加勢を申し出て来たのだ。
合戦に途中参加の武士等いつでも幾らでもいる。
一々気にしていないのだが、この一党は単なる陣借りの牢人ではない手際の良さが有った。
一介の牢人では成し得ぬ調略を行い、根本(首謀者)を降らせればそれで済むまでに段取りを整えてしまった。
「何者だ、この右馬助という者は?」
調べると、簡単に鎌倉公方の下で奉行をした者だと判る。
「よし、その者を陣に呼べ」
現れた信長に、斯波持有と織田淳広が、加勢と尽力の礼を労った後で問う。
「それで、其処元は何をお望みか?」
信長は答える。
「暫くの間、駿河の地にて雌伏する事をお認め頂きたい」
「ほう?
我等は今川殿では無いが、この駿河に領地を求めぬのか?」
「我が領土は甲斐。
自力で取り戻す。
駿河に仮の住まいは欲しいが、終の住まいは要らぬ」
この事は京の足利義教、今川範忠に報告される。
今川範忠は、まだ警戒はしつつも、信長一行が駿河に留まる事を許した。
一方、足利義教は更に興味を持つ。
(面白き男が居る。
いずれ何かに使えるかもしれぬな)
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以降は全くの余談である。
武田信長が仲裁した家督の件は、結局は四十三年後に問題を再燃させる。
千代秋丸は元服後、駿府郊外の小鹿に居を構え、小鹿範頼を名乗る。
その子・小鹿範満の時、今川家の当主が討ち死にする事態が発生。
嫡男はまだ幼少であり、「本来の当主の子孫」小鹿範満待望論が湧き上がる。
この時も嫡男派、小鹿派の家督争いを仲裁し、嫡男成人までの小鹿範満当主代行で話しを纏めたのは他国の者であった。
その名を伊勢盛時と言う。
里見義実は鎌倉に着いた。
だが、分家の無位無官の若輩者、鎌倉公方や関東管領に直ぐに謁見等叶わない。
まずは里見家惣領の里見家兼に挨拶に行く。
なお、義実の先祖・里見義宗は本家を裏切って足利直義に味方した為、新田義貞に従って越後守護代となった里見義胤の子孫たちから見れば、今更何をしに来た?という感もある。
だが、招待したのは現当主・家兼であった。
「美濃の分家の倅殿、父上の事は……」
「はっ、お気遣い有難い事ですが、身罷り申した。
それで自分が参上仕りました。
若輩者ゆえ、何卒ご指導頂きたく」
「よろしい、励むが良い」
こうして里見義実は鎌倉で里見一門の一人として足利持氏に仕える事となった。