荒川の合戦
四国より戻って来た武田信重に、足利義教が問う。
「其の方、肩とか重くないか?」
「はあ……。
高照院に参る前、うどんを所望した後、数珠を無くしましてな。
その後奇怪な事が相次ぎ、以降肩や腰が重くなりまして」
「さもあろう。
……いっぱい連れて来たなあ」
「は?
誰を連れて来たと?」
「うん、憑いてのが分からないならそれで良いよ。
まあ、後で祓ってやるからな」
足利義教、天台座主まで勤め天台宗の逸材と呼ばれたりもした男である。
「己れ! 武田信長!!
許さぬぞ!!!」
目をかけてやった、あくまでも彼基準であるが、その相手に出奔された鎌倉公方足利持氏は激怒する。
無礼を承知で諱呼びをしている。
側近たちは顔を見合わせていた。
「直ちに追討を行う」
「お待ち下さい」
激する持氏を止めるのは、関東管領上杉憲実である。
「余に意見するか!?」
「はい。
甲斐等どうでも良い事です。
御所におかれましては、京の公方と本気で戦をする気なのですか?」
「何?」
「鎌倉五山の住職をご自身でお決めになった事です。
五山の住職は京の公方が決める事になっております。
それを冒すという事は、京に戦を吹っ掛けたようなものに御座いましょう」
「ふん、その事か。
余は戦等望んでおらん。
余が望まぬ以上、あの籤引き将軍が仕掛けて来る等無い」
「またそのように口汚く……」
関東管領が嘆く。
持氏の挑発行為はシャレにならない。
一番酷いものは、南朝残存勢力と結びついて、皇位継承にケチをつけた事である。
去る正長元年(1428年)、南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫・小倉宮を担いだ南朝方大物・北畠親房の曾孫にあたる伊勢国司・北畠満雅が挙兵する。
この時足利持氏は北畠満雅と連合していた。
あくまでも新公方に対する嫌がらせであったのは、小倉宮や北畠満雅を置いてきぼりに、さっさと新公方方と和睦した事から分かる。
北畠満雅は鎌倉に見捨てられた後、足利義教が派遣した軍と戦い、最終的には敗死した。
だが足利家最大の敵であり、後に室町幕府と呼ばれる政権が京都に居残った最大の理由は南朝対策である。
その南朝と手を組んだというのは、京・鎌倉で戦となっても仕方がない重大事であった。
この時も関東管領は必死で謝罪している。
持氏はこの南朝と手を組むという危険行為に対し、義教が何らの懲罰も加えに来なかった事で、完全に義教を甘く見ていた。
この男に、坂東相手の戦を起こす意地は無い、と。
京を本気で怒らせてしまえば、向こうには細川・斯波・畠山という管領家があり、兵力も鎌倉より多い為危険である。
だからそうならない線で、京を挑発し続けて譲歩を引き出そうとしている。
後世の俗な言葉で書くなら「チキンゲーム」をしているようなものだ。
自分はこうやって京の義教をナメているにも関わらず、自分が武田信長にナメた行動を取られると許せないのだ。
ただ、軍事行動を起こさないよう関東管領から諫められ、確かに政治的に解決した方が楽だと、亡き足利義持との長年の駆け引きで学習した。
そこで持氏は、義教をナメた上でかつ政治的な手を打つ。
「鎌倉武衛より、武田右馬助を出府させるよう、御教書を出せと言って来よった。
治部、この右馬助なる者は何者か?」
足利義教が、先年弓馬指南役に任じた小笠原「治部大輔」政康に尋ねる。
「この者は我が親類にて、甲斐守護武田三郎(信重)の弟に御座います」
「鎌倉に出府させよとあるが?」
「只今甲斐に国主として居座っている武田伊豆千代丸の父親で、三度に渡り鎌倉の軍を打ち破った剛の者です。
それ故、目の敵でもあり、家人とすれば名誉でもある故、手元に置きたいのでしょう」
「そうか……」
義教はしばし考える。
この男は、鎌倉公方が甘く見ているような人物ではない。
もっと危険な男なのだが、この時期はその一部しかまだ現わしていないだけだ。
「治部」
「はっ」
「其方の縁を使い、この右馬助なる者を取り込め。
可能ならわしの手の者としたい」
「御意」
持氏の書状は、義教に武田信長の存在を教える結果となった。
そして義教は呟く。
「鎌倉にはいずれ報いをくれてやる。
その為の手駒は揃えて置きたいでな……」
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「皆の衆、よく耐え忍んでくれた。
御苦労だった」
甲斐に密かに入国し、日ノ出城に入った信長は、参集した日一揆の衆に告げた。
「悪八郎のお殿様が戻られたからには勝てるでよ」
「おう、うらたちの脅かす輪宝の者どもをやっつけんべえ」
「んだんだ!」
盟主帰国により士気が上がる日一揆。
「まずは大義名分を明らかにしよう」
「んなもん必要だべか?」
「ムカつくからぶちのめすで十分だべよ」
(嗚呼、わしはたった数年鎌倉に居ただけなのに、ノリが変わってしまったなあ)
何となく、今まで鎌倉や京が自分たちをどう見ていたか、分かって来た。
(我々は田舎者なのだ)
例え地方住まいであっても、過去に京都大番役や鎌倉のような職を請け負ったり、鎌倉に館を持っていたような武士団なら、合戦の作法のようなものも持っている。
しかし、国人・地侍では村の小競り合いの延長でしか物を考えない者も多い。
まあ、信長も数年前はそれに毛が生えた程度の正統性しか考えていなかったのだから、敢えて言うまい。
『詰問状
守護代跡部駿河守並びに上野介儀。
両名職責を果たさず徒に国人の所領を押領し政を疎かにす。
また徒党を組んで守護を蔑ろにし、国の秩序を乱す。
武田右馬頭是を憂慮し、起請文を書いて天下に謝し、押領した地を元の所有者に戻す徳政を求む。
守護代の任を続ける事を欲するなら、直ちにこの書に従うべし。
戦は望む所に非ず、賢明な判断を求むものなり』
この書と、その写しを輪宝一揆に送る。
大義名分作りであった。
受け取った跡部上野介景家は
「これが、あの悪八郎殿の成す事か?」
と驚いた。
だが、老獪な駿河守・跡部明海は慌てない。
「成長されたようじゃ。
確かに大義名分はあちらに有る」
「父上!」
「じゃが、青臭くなられた。
世は大義名分だけでも動かぬものなのよ。
輪宝の衆に書状を送れ!
写しは日一揆の衆にも送ってやれ」
その内容はこのようなものであった。
『武家にとって所領は命を懸けて守るものであり、自分は今持たれている土地を守るべきと考える。
守護であれ、権力を持って奪う事は有り得ない事だ』
大義名分を使って「元の所有者に返せ」と言う信長に、明海は「今持っている土地を守る事こそ武士の本分」だと返す。
信長の大義名分は正しい。
しかし、それを成すには実力が必要である。
全国とは言わない、せめて甲斐全土を支配していたなら、正しい統治も可能だ。
だが混乱期には「おれの都合の良い採決をしてくれる殿様」こそ支持されるものである。
結局切り崩しは出来ないまま、なし崩し的に荒川河原に甲冑を着た武士が集結し、睨み合いが始まってしまった。
「この河原の懐かしいのぉ」
今を去る事十二年前、同じ様に荒川河原で合戦をしようとした事があった。
その時は、京で新たな守護が任命された事で、共通の敵を排除する為に合戦を取り止めてお互いに手を組んだ。
今度は合戦は避けられまい。
そして時が満ち、合戦が始まった。
お互い甲州武士同士の戦である。
騎射や馬上での打ち合いでの戦いとなる。
信長は長巻、加藤梵玄は金砕棒を振るい、打ち合う。
(なんでわしが本陣に居るのだろう?)
土屋景遠が、まるで総大将のように本陣を守っている。
ある意味、総大将の信長が自ら太刀を振るうのは仕方が無い。
彼は血筋でもなく、官位でも無く、人柄でも無く、風采でも無く、「戦に勝てそうだから」担がれているに過ぎない。
戦場で働いて見せねば、背腹油断ならない甲州武士は言う事を聞かない。
「敵が多い、多過ぎる」
跡部家は、十二年前の跡部家では無かった。
信長が鎌倉に連行されてからでも七年、彼等は確実に地歩を固めていた。
元々逸見有直と組んで反武田宗家で纏まっていた輪宝一揆を味方にしている。
そして、あえて武田伊豆千代丸を排除してもいない。
「守護が必要なら、弱い守護で良い。
幼少の主君なら、あえて追う必要も無い。
式典等で守護は居た方が良い。
神輿は軽くて、何も言わない者が良い」
そんな気分もあり、他の国人領主たちも輪宝一揆に援軍を送っていた。
つまりは穴山や今井、更には小山田といった大勢力である。
彼等は伊豆千代丸が居れば、父親は不要、寧ろ口を出すなと思っていた。
信長方は次第に追い込まれていく。
「悪八郎殿、最早これまでじゃ。
囲まれぬ内に逃げ出した方が良い」
戦況の悪さに、後備えを率いて土屋景遠まで打って出ている。
その景遠が、落ち延びるべしと言って来た。
「ここで引いたら、わしは甲斐に居場所を失う。
わしは戦に勝つから担がれているに過ぎん。
負けたら全てを失う!」
「死んだら全てを失う。
だが生きていれば再起を図れよう。
憎まれてでも、恨まれてでも、生き延びて機を狙うのでは無かったか?」
「その通りだ。
よし、逃げよう」
武田信長、後に現れる同じ名の武将同様、見事は逃げっぷりを披露する。
かくして信長は三度国から追い出される羽目となった。
おまけ:
没落した美濃の里見家であるが、意外なとこから復帰の目が出る。
里見惣領家の里見家兼が鎌倉公方・足利満兼(持氏の父)に招かれ、常陸国に所領を与えられた。
惣領家の招きにより、美濃里見家も鎌倉に向かおうとしている。
「それで今日は、鎌倉出府後の武運長久を祈願しに来たのよ」
「はあ……、左様で御座いましたか。
拙僧は、同じ新田の出ですので、里見様には神仏の御加護が有りますようお祈り申し上げます」
「有難い!
では頼み申した!」
鎌倉に期待を持つ里見義実を複雑な目で見ている、鎌倉公方によって追放の憂き目に遭った源慶であった。