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鎌倉出奔

「よお、父御(ててご)!」

汚い身なりで、剃刀もろくに当てていない僧侶が仙洞御所に現れた。

この風来坊に周囲は頭を下げている。

「父子の縁は切れた筈。

 出家の其方が一体何をしに参った?」

御簾内から院が、近習を介し言葉を伝える。

「まあ、堅苦しい事言うな。

 折角禁裏の助けになる事を言いに来たのだから」

仏に会ったら仏を殺せ、という臨済宗の闊達さからか、ぞんざいな口を利く元皇族の僧侶。

「伏見宮家から皇嗣を迎えると綸旨を出したら良い」

そう言い放つ。

「それは武家の要請であろう。

 其方は武家の代弁で参ったか?」

「違う違う。

 どうせ逆らえないなら、自分から言い出したって事にしろ、そう言いに来た。

 押し切られたら禁裏の面目は無いぞ」

一理あると判断した院は、伏見宮家の彦仁王を皇嗣に迎えると宣伝する事にした。


「朕はその方が自ら帝になると言い出すかと思った」

「そんな窮屈なものがご免被る」

そう言い捨てて去った僧侶の名は一休宗純、院の落胤とされる人物であった。

「あの籤引き将軍が!」

 鎌倉公方足利持氏は、事あるごとに京の足利義教を罵る。

 そして足利義教もまた、武田信長が言ったような「棟梁としての教育を受けていない、上げ膳据え膳で育てられた御曹司にありがちな強引な進め方」の政治をしていた。


 前年改元したばかりなのに、九月にはもう年号を正長から永享に替える。

 それに先立ち、近江坂本や大津の馬借が徳政を求めて徒党を組み、それに貧しい農民も加わった勢力が酒屋、土倉、寺院といったこの時代の金融組織を襲って、借金を無効にした。

 元来「国人領主・地侍が集まって一つの意思決定機関的になった」ものを「揆を一つにする」で一揆と呼んでいたのだが、この正長の土一揆と呼ばれる集団の襲撃以降、一揆は集団の名ではなく、反乱を起こす動詞的な意味を持ち始める。

 なお、この土一揆が行った借金棒引き、徳政の根拠は「代替わりの徳政」である。

 帝が即位し、将軍宣下があって、両方の空位が解消されたのだから、あながち間違いではない。


 この土一揆の要求に対し、将軍義教は正式な徳政令を出そうとはしない。

 さらに改元後の十月、院が出家を考えている事が伝わる。

 義教は院に対し、自分に対して前もって断りを入れていないと文句を言った。

 これに屈した院は、この年の出家を諦める。

 かつて帝在位時、足利義満に悩まされて来た院は、また強引な公方誕生を不快に思った。

 この義教への不満は、皮肉な事に親王宣下すらしなかった今上の帝の父・貞成親王と仲良くなるきっかけとなった。

 かつて崇光天皇系と後光厳天皇系で皇統を巡ってギクシャクした関係だった両者が、義教への不満で関係改善したのだった。




「見よ、籤引き将軍などやはりろくなものではなかろう」

 持氏は側近たちに語る。

「どれ、ちょっと揺さぶりをかけてみるか」

 悪い虫が蠢き始めた。


 信濃の有力武将・小笠原政康は、正長の土一揆に対する為に京に上っていた。

 近場に京方の有力武将がいない為、持氏は行動を起こす。

 越後守護代・長尾邦景や越後の国人領主たちを自分の味方につけようと策動した。

 かつて前管領細川満元と組んだ越後守護・上杉頼方と、管領畠山満家と組んだ守護代・長尾邦景が争った越後応永の乱が起こったが、それが長尾邦景の勝利に終わると、彼は鎌倉府寄りだった態度を改め、京に傾倒していった。

 持氏の働きかけは、この状況を覆して越後を鎌倉府側にし、間にある信濃を圧迫しようというものだった。

 この動きを察知した小笠原政康は直ちに帰国し、京陣営の引き締めを行う。


 これが正長元年の事であり、翌年の永享元年(1429年)には奥州宇多庄を巡る白河結城家・結城氏朝と相馬胤弘・石川持光の争いに介入、相馬・石川陣営に肩入れする。

 白河結城氏は京都扶持衆であり、持氏が生涯をかけて潰そうしている者たちの一員だ。

 更に持氏は、結城氏朝の実家(養子入りしていた)の那須家を攻撃。

 京の義教を挑発する行動を連発している。


「籤引き将軍よ、いい加減当主の座を渡さんか」

 という恫喝だったのかもしれない。

 義教の決めた年号・永享を使う事もなく、坂東では今は正長三年となっていた。

(いや、どう考えても逆効果だろ!)

 と思わなくもないが、言い出す者は居なかった。


 否、一人いた。

 関東管領・上杉憲実である。

 かつて十歳で就任し、補佐役を果たせなかった憲実も、永享元年には数え二十歳となり、意見も言えるようになっていた。

 彼は、挑発に対し行動を起こさない義教を侮って

「兵を動かして、将軍職譲位を迫らん」

 という持氏を諫言して止めさせ、また京の義教に対し、坂東が永享という元号を使っていない事を謝罪する使者を送っている。

 長らく当主若年につき機能不全に陥っていた上杉氏が再び動き出していた。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「武衛殿(持氏)が京を刺激したせいか、京の新公方がおかしな手を打って来た……」

 今までの事は武田信長には関係の無い話で

(好きにやっていたら良い。

 自分は美味しいとこだけいただこう)

 てな態度であったが、話が甲斐国に及ぶとその限りではない。


 鎌倉府では、京の公方を倣って諸守護に鎌倉出府を命じていた。

 そういう意味で、鎌倉に常駐している逸見有直が持氏の中では甲斐守護である。

 守護的な存在として信長の実子・伊豆千代丸が担がれている。

 実質的に甲斐を仕切っているのは守護代跡部氏である。

 この複雑な状況に、京の義教は

「四国放浪中の三郎入道を呼び戻せ」

 と命じた。


 武田信長の兄で、一度は甲斐国守護に任じられた三郎信重は、甲斐の総国での反対に遭って心が折れ、京を出奔して四国を放浪していた。

 足利義教はこの武田三郎信重を、また甲斐の守護に任ずる。

(それがし)には荷が重う御座る。

 守護は辞退致します」

 駿河国の佐野郷・沢田郷を所領として与えるという義教の命を断り、またも信重は辞退した。

 だが義教は、この人物には珍しく、信重の無礼を許し、摂津国に所領を与える。

 そして再三、甲斐の守護となるよう命じる。

 これは信重に対し、何かあったら自分が責任を持って後見すると示したものだった。


 これによって甲斐の三竦みに、京に任命された守護・武田信重という要素が加わった。

 こうした中、跡部明海・景家父子は更に甲斐国で押領を進める。

 元々信濃小笠原氏の分家である跡部氏は、何が有っても大丈夫なように、甲斐における自勢力を拡大する事に励んでいるのだ。

 その一環として、かつて逸見家を支持した輪宝一揆の衆と手を結ぶ。

 逆に輪宝一揆を後押しして、日一揆の衆を圧迫する。

 信長を頼る日一揆からは、何とかして欲しいという要請が届く。

 こうした動きに、鎌倉にいる信長はついていけない。

 味方の衆に対し、有効な助けを出せずにいる。

 飾り物の国主と化し、跡部家の跋扈を許している我が子・伊豆千代丸を補佐も出来ない。


「せめて甲斐の中に居れば、牽制するなり、和議を結ぶなり出来るものを……」


 鎌倉での信長は、武将としてより政治家として経験を積んでいる。

 だが、やはり籠の中の鳥である。

 何度も煮え湯を飲ませ、恨みを持たれている逸見有直もまた鎌倉公方に仕えている。

 逸見有直が公方を無視して信長を害する事は無い。

 だが、信長が何かをしないか、常に見張っている。


 丁度この頃、信長は大きな仕事に関わらされていた。

 相模大山寺の造営である。

 大山寺は東大寺を開いた僧・良弁が開山した由緒ある寺である。

 ここでは華厳宗、真言宗、天台宗の三宗派を同時に学べる。

 武家政権の話題では、源頼朝が太刀を奉納して戦勝を祈願した事でも知られる。

 これより「納め太刀」の風習が始まったとされる。

 鎌倉幕府の庇護を受けていたが、鎌倉幕府滅亡後は鎌倉府がそれを引き継いだ。

 信長は、この由緒ある寺院の造営に関わっている。


「仏の教えは尊いものじゃ。

 だが、この造営は正直わしへの嫌がらせにも思える」

 そう言う信長である。

 なにせ、信長は鎌倉府から領地を貰っていない。

 造営にかかる費用は持ち出しである。

 彼にそんな富は無く、郡内の加藤家や息子の伊豆千代丸から仕送りして貰っていた。

 まだ少年の伊豆千代丸(永享四年当時、十五歳)にもそんな余裕は無く、鎌倉に借りを作るべく守護代跡部家が代わりに出していた。

 おそらく彼等は自腹で出して等いない。

 信長の味方から富を没収し、それを送っているのだろう。


(早くこの事業を終わらせねば……)


 名誉だけは得られた。

 造営事業が終わり、相模大山寺造営奉加帳写が記される。

 その署名は

「鎌倉公方 足利持氏

 関東管領 上杉憲実

 武田右馬助信長

 侍所頭人兼下総守護 千葉胤直

 相模守護 一色持家

 一色直兼

 前上野介 理兼

 鎌倉御所奉行 東満康

 鎌倉御所奉行 梶原憲景」

 という並びであった。

 侍所や政所にも属さず、守護でも何でもない信長が序列三位である。

 この時期の信長は、足利持氏に気に入られていた。


……予算持ち出しで仕事する者なら大概気に入るものだが。


 だが信長は、鎌倉で奉行として一生を終える気は無い。


「猿橋、そして田原の戦の後、降ったわしの命を取らなかった恩はこれで返した。

 武衛殿は反りが合わず、正直嫌いじゃ。

 だが、恩は恩。

 返してから出て行こうと思うておった。

 もうその時じゃろう」

 信長の言葉に、加藤梵玄は笑って

「それでこそじゃ!」

 と賛同する。

 義兄・土屋景遠は

「言っても止めても、翻意するような悪八郎殿ではあるまい。

 以前も言ったが、わしはお主を見捨てる事だけは神仏に誓ってせぬからな」

 と言って従う。


 かくして永享五年(1433年)、武田信長一行は鎌倉を出奔した。

 そして三度、甲斐に入国したのである。

おまけ:

里見家の祖・里見義成は、同じく新田一門の山名義範・義節父子と共に、源頼朝挙兵から僅かに遅れて陣営に加わった。

有名な富士の巻狩においては、頼朝より遊女別当に任じられ、押し寄せた遊女から宿駅の管理まで任せられる。

時が流れ、後醍醐天皇による討幕が起こった時、本家の新田義貞と共に里見氏は鎌倉を攻めた。

その後は新田宗家ともども南朝方であったが、一族の一人・里見義宗は足利尊氏・直義兄弟に味方した。

しかし里見家の不運は続く。

里見義宗は美濃に所領を得るも、彼が味方した足利直義が兄の尊氏と争う観応の擾乱が勃発。

里見義宗は折角入植した美濃の所領を失う羽目に陥る。


「……という訳で、わしが美濃に居るのだよ」

「はあ……それは大変でしたなあ……」

里見義実に身の上話をされた源慶は、そう答える他無かった。

他ならぬ源慶自身も、実家の岩松家を追われた身であり、同情しても助けは何も出来ないのだ。

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[良い点] ここで万人恐怖登場か! 盛り上がってまいりました
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