籤引き将軍
用語説明:明徳の和約
・譲国の儀 南朝の後亀山天皇は北朝の後小松天皇に神器を引渡す
・皇位は持明院統、大覚寺統、両統迭立の事
・国衙領は大覚寺統のものとする事
・長講堂領(後白河法皇が集めた荘園)は持明院統のものとする事
足利義満「守るように!」
後小松天皇「嫌なこった!」
足利義持「(今の)朝廷を大事にしますよ」
各地の武士「押領した国衙領を返す訳ないだろ」
足利義持「余は武士の権益を保護するからな」
北朝の公家「吉野に行かはった方のおわす座は在らしまへんえ」
足利義持「余はお味方の公家の(以下略)」
かくして持明院統の称光天皇が即位し、両統迭立は反故とされたのだった。
また国衙領が返って来ないのに、長講堂領は北朝に奪われ、平等に登用する筈の南朝派公家に居場所無し。南朝何も良い事無し。
応永三十五年一月十八日(太陽暦で1428年2月3日)、四代征夷大将軍足利義持死亡。
義持は征夷大将軍を嫡男・義量に譲り、その後再任していない。
五代将軍義量は三年前に病死している為、公方と呼ばれる権力者は居ても、征夷大将軍はこの三年空位であった。
そして今、公方として政権を主宰する大御所・義持も死に、武家政権は頂点を失った。
義持は後継者を自ら定めなかった。
守護大名の合議に委ねた。
彼は「将軍と守護大名の協調」という建武体制に殉じて死んだのだった。
その守護大名の合議の結果は、義持の弟たちの中から籤で選ぶ、であった。
その作業の最中、鎌倉より使者が到着する。
「今更何言ってるの?」
管領たちの反応である。
既に籤は、義持存命中に作られ、石清水八幡宮に預けられている。
義持逝去に伴い、籤引きが行われる。
その籤の中には梶井門跡義承、大覚寺門跡義昭、相国寺虎山永隆そして青蓮院義円という義持の弟たちの名が入っているだけで、足利持氏の名など無い。
最初から後継者候補の中に居ないのだ。
「嫡男を失った上様の後を継ぎたいと思うなら、もっと神妙な態度を取っておるべきだったな」
「いやいや、長得院様(足利義量の戒名)が亡くなられた時、鎌倉殿は取り返しがつかない程、上様の機嫌を損なっておいでだった。
長得院様ご存命の時から大人しくしておけば、まだ目は有ったかのお。
じゃが、長得院様が存命なら鎌倉殿に後継の目等無いわけじゃが」
「仮に神妙なお方で、亡き上様のお気に召されていたとしても、我等が認める訳も無い。
既に側近が居られる方を将軍に迎えては、我等の立場が危うくなるでな」
「左様左様」
足利持氏の評判は、京の管領・侍所・政所では非常に悪かった。
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籤引きの結果、青蓮院義円が次期将軍に選出される。
だが、即座に征夷大将軍宣下とはならなかった。
朝廷が反対する。
義円は幼名・春寅丸の時に出家した為、元服もしていない。
「元服していない以上、幼児と同じである」
「無位無官だから、いきなり征夷大将軍には任じられない」
「出家が還俗して将軍になった先例は無い」
と言って来る。
後世の砕けた言い方をするなら「マウントを取る」、南北朝以来権益を奪われ続け、三代将軍義満の時は女官を奪われたり御所を見下ろす建物を建てられたりした朝廷が、武家に対し優位性を見せつけたのだ。
過去もこの先も、任命権は朝廷にある為、この時ばかりは反撃が出来る。
まあ、手順を踏んで髪を伸ばし髷を結う→還俗→元服・名乗りを改める→任官→将軍宣下とすれば良いだけで、朝廷も本気で武家と関係を拗らせる意思は無い。
拗らせているのは鎌倉の足利持氏であった。
彼は籤引きの結果に憤慨するも、将軍宣下がひと月以上されないのを見て
「どうやら坊門家(二代・義詮の子孫)の後継が決まっただけで、将軍と決まった訳ではないようだ。
将軍となり足利家の家督継承の目は、まだ余にも有る。
いや、余こそその任に就くべきなのだ」
坊門流(義詮流)は入間川流(義詮の弟・初代鎌倉公方基氏流)に家督も将軍職も譲る気は無い。
持氏はその事を感じてはいても、一切無視していた。
「武衛殿(持氏)は考えが甘過ぎる。
既に亡き内府殿(義持)の弟の中から後継を、と決まっていたのに、後から割り込んでそれが通じるような事があろうか。
然様な横紙破りを、有職故実に煩い禁裏が認める訳が無い。
それに武衛殿は故内府殿とは随分揉めていたというではないか。
そのような方が後を継げると、どうして思うのかわしには分からん」
そう語る武田信長を、土屋景遠が感慨深げに眺める。
「悪八郎殿、いや右馬助殿も大人になられたものよ」
「は?
義兄上、わしは元より大人ぞ」
「いやいやいやいや……。
武田の家督であれだけ横紙破りを連発した癖に、よう言うわ」
「武田の家督はわしが言う事が正しいだろう。
わしの言う事は間違っておらん。
武衛殿と一緒に扱わんで欲しいな」
「……前言撤回するわい。
悪八郎殿は受領名を名乗るようになっても、甲斐の悪八郎殿のままだ……」
「グワッハハハ、それで良いではないか!
むしろ牙を抜かれておらんから、安心したぞ」
加藤梵玄入道は相変わらずである。
鎌倉まで着いて来たが、やる事も無く、酒を飲むか、寺社参拝するか、そのついでのそこの僧兵相手に腕試しするかの日々を送っている。
「それで、公方様を横紙破りだと断ずる右馬助殿は、今後どうなると思うておられる?」
加藤梵玄の問いに信長は
「それは、何と言ったかな……籤で決まった、あの……」
「義円殿、青蓮院門跡で天台座主だったお方です」
土屋景遠の助け船を聞き
「そう、その義円殿次第じゃな。
義円殿が乱を好まぬなら、武衛殿は安泰であろう。
将軍にはなれぬがな。
じゃが、義円殿の気性が激しいなら……」
「激しいなら?」
「一波乱あるやもしれぬ」
「何故そのように思われる?」
「義円殿は幼き頃に得度し、そのまま叡山で育ったという。
つまりは武家の棟梁としての教えを受けておらぬ。
そういう者がいきなり棟梁になると、手加減の仕方を知らぬ。
敵対者を許す落とし所を知らず、ついつい惨く当たり過ぎてしまう。
それと、妙に理想に走り過ぎる事がある。
まあこれは、直に家人郎党と付き合わず、上げ膳据え膳で育てられた御曹司にはある事じゃ。
武衛殿も似たような所があるから、馬が合わねば激しくぶつかるだろう」
土屋景遠と加藤梵玄は顔を見合わせ、そして信長を見て呟いた。
「至極合点がいく説明だった……。
言ってる本人の歩みそのものじゃからなあ」
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足利持氏の期待、妄想とは別に、事は淡々と進む。
義円は三月十二日に髪が伸びたのを契機に還俗し、義宣と名乗りを改める。
そして即座に従五位下左馬頭に叙任される。
これは武田信長も従五位下右馬頭で同位なのだが、流石は足利将軍家、翌四月十四日には従四位に昇任される。
この時期から京に、鎌倉の足利持氏が次期将軍になるという噂が流れ、持氏は実に気を良くしていた。
最終的に従一位となったが、先々代足利義持は正五位下任官と同時に征夷大将軍宣下、先代足利義量も正五位下になって六年後に将軍宣下、翌年に従四位下に昇っている。
征夷大将軍とは元々四位または五位相当官であり、将軍就任後に正二位や従一位に上がっているだけなのだ。
だから叙任は義宣の五位若しくは四位昇叙時と見られていたのに、二度も見送られている。
だが、信長の願望込みの予想を聞いていた土屋景遠が恐怖を感じる出来事が起こる。
足利義宣が朝廷に強く要請し、改元が成されたのだ。
これによって長く続いた応永が終わり、正長元年となった。
なお改元は「帝が交代した時」「甲子の年・戊辰の年・辛酉の年に当たった時」「吉事が有った時」「凶事が続き、それを祓う時」に行われるが、この時まだ帝も院も存命であった。
今上の帝が即位したのは応永十九年(1412年)なのだが、この時足利義持は改元を認めなかった。
義宣はその時の事を持ち出し、
「ご今上の即位の代始改元」
とした。
皮肉な事に、即位十六年後に即位を理由に改元された帝は、その三ヶ月後に崩御する。
称光天皇と追号された。
そして将軍だけでなく、帝も空位となる。
この状況に、鎌倉の足利持氏だけでなく、南朝の残存勢力も騒ぎ始める。
元々南北朝の終焉「明徳の和約」は、両統合一後に再び持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)から交互に帝を出す迭立を約束して成ったのだ。
その約束は長らく守られていない。
称光天皇に子が無い以上、南朝の帝を出すのが筋である。
称光天皇の父は院政を行っていて、いまだ存命であった。
院政、治天の君の権力の際たるものは何か?
それは皇嗣を決め、その後見人となれる事である。
武家政権に対する巻き返しを狙う朝廷は、後継者選定に乗り出す。
それに対して先手を打ったのが足利義宣であった。
彼は彦仁王という皇族を連れて来て、院に「猶子とするよう」申し出る。
彦仁王の曾祖父は崇光天皇で、崩御した称光天皇の曾祖父・後光厳天皇の兄である。
南北朝の争乱期、南朝の逆襲で一時京が占領された事があった。
この時に崇光天皇と皇太子・直仁親王も吉野に連行されてしまう。
空位となった北朝の玉座に、足利政権は崇光天皇の弟を据える。
この後光厳天皇即位に正統性は無く、三種の神器も南朝に奪われていて保有していなかった為、北朝の威信は大いに揺らいだ。
その時以来の皇統が称光天皇で途絶えた。
そこで足利義宣は崇光天皇の子孫を担いだというわけである。
院は渋々彦仁王を猶子にするも、親王宣下をしなかった。
だが義宣は一切気にせず、彦仁王をこの年の内に践祚させ、翌年即位させる。
足利義宣、彼はまだ将軍宣下も受けていない、一介の従四位の武家に過ぎない。
強引に帝を即位させると、彼は自身の名を改めた。
「『義宣』は『世忍ぶ』に通じる。
わしの名に相応しくない」
という理由で、義教と名乗る。
足利義教はまず参議・近衛中将に昇任し、正長二年(1429年)三月に将軍宣下を受けた。
鎌倉の足利持氏は、この将軍宣下を認めようとしなかった。
彼は京の新公方を罵る。
「籤引き将軍」「還俗将軍」と。
おまけ:
岩松家が廃嫡し追い出した土用松丸こと源慶僧侶は、美濃・瑞巌寺で禅の修行をしている。
禅は自分の事は自分でしろ、という「僧侶だからって生活楽してんじゃねえ」的なものがある。
臨済宗は権力と結ぶつき、大分堕落が見えて来たのが、修行僧はその限りではない。
そんな源慶が掃除をしていると、貧しい身なりの少年武士が訪ねて来た。
「少々こちらで禅の手ほどきをして欲しい」
精神統一にでも来たのだろう。
「では、師に取り次ぎいたします。
お名を拝聴してよろしいでしょうか?」
少年は名乗った。
「里見太郎義実と申します」
里見、それは岩松と同じ新田の一族である。
この少年もまた、足利方に付きながら没落した新田の末裔であった。