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鎌倉府奉行人武田右馬助

第二章突入です。

ここからは確実17時更新とします。

 似た者同士は仲良くなる。

 似た者同士は嫌い合う。

 どちらも真である。

 正反対の事を言っているのだから、どちらかには当てはまるのだろう。

 両方同時に、というのは珍しいかもしれない。


 足利持氏と武田信長は似た者同士である。

 自分の上を認めず、お山の大将でいたがる。

 それでいて、必要なら強い相手にも頭を下げる。

 膝を屈したように見えても、決して諦めた訳ではない。

 何としても野望を果たさんとする粘り強さを持ち合わせている。


 それでいて武田信長は足利持氏に初めて会い、仕える事になり、感じた事もある。

「やはり、反りは合わぬ」


 武田信長は基本的に「陽」の性格である。

 逸見の衆に対するような残忍さは有るが、基本的には寛大だ。

 一方、足利持氏は「陰」が強い。

 敵対者に対する追い討ちの執念深さに現れる。

 それ故、信長も降ったら殺されると思っていたし、降伏を勧めた土屋景遠ですら

「五分五分の博打」

 と考えていた。


 実際のところ、武田信長の降伏を受けた持氏の感情は

(これからこき使ってやるぞ。

 逆らった年月の分、存分に働け!)

 と言ったところである。

 持氏の信長に対する感情は負の念が強い。


 一方で、武田信長程の剛の者を配下にし、顎で使える事に対し、単純に嬉しくもあった。

 厄介だった奴が自分に(かしず)く姿を見るのは気持ちが良い。

 上総本一揆や山入一揆の者も、素直に降伏しておれば、このように飼ってやったものを。


 多くの坂東武士は、広く婚姻関係を広めていた上杉禅秀の乱に連座して、足利持氏の報復で酷い目に遭っていたが、足利持氏本人も上杉禅秀の乱で人格に影響を受けてしまったのかもしれない。

 過度にナメられまいという気持ちが強く、逆らった者を自分の下に従属させるのを喜ぶ。

 これに代々の鎌倉公方の気質、

「坂東こそ武家の本場。

 京の本家は認めるが、それは対公家や対西国武士用。

 東国に関しては頼朝公以来鎌倉が担当するから口出すな。

 それと、京の本家と鎌倉の我々は同格だ!」

 これが加わって、拗れてしまった。


 そんな足利持氏の目の上のたん瘤と言えば、足利家当主にして前征夷大将軍、京に居る大御所足利義持であるが、その義持が死の床に就いたという報せが入る。

 応永三十五年(1428年)一月の事であった。

 京と鎌倉とは距離があり、最速の関東飛脚でも三日の時差で情報が入る。

 それによれば、一月十三日には重篤となり、祈祷の者が呼ばれたという。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 五代将軍足利義量を失い、事実上の公方として復帰した義持だったが、復帰以降に多忙となった。

 まず、朝廷の不和仲裁という仕事があった。

 院政を敷く上皇に対し、帝が反発して、後継者も居ないまま退位を企てる。

 帝は病弱で、皇子誕生の見込みが無い。

 それで院は義持と相談し、帝の弟の小川宮を東宮(皇太弟)とした。

 これに腹を立てた帝は、東宮が病死して後継者不在となった時に出奔を企てる。

 これは帝の加冠親であった義持の説得で思いとどまる。

 かつて朝廷の権威に優越しようとした義持の父・足利義満。

 本院は義満と対立していた為、義満路線を否定して尊氏以来の建武体制護持の義持を大いに頼りにしていた。

 こうして義持が院と帝の仲を取り持っていたのだが、そんな中でも帝が死病についたり(重篤だが単なる風邪で快復した)、院がまた新たな後継者を決めて帝と対立したりと、気が休まらなかった。


 義持自身の失策もある。

 播磨・備前・美作三ヶ国の守護赤松家の当主・赤松義則が死んだ後、義持はこの領土を赤松満祐とその又従兄弟の赤松持貞に分割相続させようとした。

 赤松家の力が強くなり過ぎるのを防ぐのと、持貞が自身の側近であり、領土を与えたかったからである。

 これに怒った赤松満祐が、自身の邸宅に火を放って領国に下り、合戦の支度を始めた。

 怒った義持は追討を命じるも、管領・畠山満家はこれに反対、侍所別当・一色義貫、細川持元といった大名も出兵を拒否した。

 結局、畠山満家が赤松持貞を追い落とし、赤松満祐をお咎め無しで三ヶ国相続させて落着する。


 息子・義量を失った事は、義持にはやはり大打撃だったようだ。

 赤松家相続の一件は、「待てる」政治家で、かつ「有力守護との協調を大事にする建武体制護持」が信条の義持にしては、拙速にして強引に過ぎた。

 それを反省し、以降は「諸大名との協調無く、決めるのは止そう」と決めたようだ。


 そして運命の応永三十五年正月七日、義持は浴室で尻に出来た出来物を掻く。

 その出来物き破った事により発熱を起こす。

 そのまま寝込んだ義持だったが、次第に死を周囲も、義持自身も意識し始める。

「余は、次の将軍を定めぬ」

 そう言い出して周囲を唖然とさせる。

 赤松の件を反省し、彼は諸大名の合議で次期将軍を決めさせ、自分はそれの承諾するだけにしようと決めたようだった。

「ご自身でお決め下さいませんか?」

 側近の醍醐寺座主・満済が困った大名たちに代わり、伝えるも義持は拒否する。


「上様の御心はお変わりありませぬ。

 『面々計らい、然るべき様定め置くべし』と仰せです」

 満済が一同に伝える。

「では、籤で」

 畠山満家がそのように伝えると、義持は黙って頷いたという。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 鎌倉の持氏は、そこまで詳しい事情は知らない。

 普段なら七日の京都から鎌倉の情報伝達に対し、最速の三日で来る関東飛脚が来た事で、極めて重大で有る事は察する事が出来た。


「この危急の時、足利家の当主を勤めるに足るは、この余であろう」

 持氏は周囲にそう言い出した。

「前内府殿(義持)に子が無く、弟どもも出家の身で器量が有るかどうか。

 それに引き換え、余は従三位で、既に長らくこの鎌倉を治めておる」

 とりあえず、起こった反乱の数は無かった事にするようだ。


「では、上様は上洛なされまするか?」

「いや、余は鎌倉に残る。

 よく考えてみよ。

 征夷大将軍の政所・侍所は鎌倉に置かれるのがあるべき姿なのだ。

 吉野に南朝が在り、非常の時だから在京で将軍職となっただけの事。

 既に吉野に南朝は無い。

 あるべき姿に戻るのが良いと思わぬか?」

 持氏には対し、反論は首を失う危険が伴う為、表立っては出来ない。


「前内府殿とて、禁裏のつまらぬ揉め事に関わり、命を削ったのではないか?

 京とは相国入道(平清盛)、木曾冠者(木曾義仲)、九郎判官(源義経)をも翻弄した恐ろしき地よ。

 京に六波羅探題の如き、禁裏や公家に睨みを利かすものを置く事は構わぬ。

 さもなくば、後醍醐天皇の如き魔物がまた生まれるやもしれぬからな。

 じゃが、武家の為の(まつりごと)はそろそろ鎌倉ですべきじゃ」


 誰かが

「されど、上様は前内府様との父子の関係にも兄弟の関係にもありませぬ。

 将軍職は兎も角、家督を継ぐ事は難しかろうと愚考致します」

 そう言ったが、持氏は機嫌良くそれに答えた。


「もっともの事。

 余とてそれくらいの事は考えておった。

 余は前内府殿の猶子になろうと思う。

 二階堂、其方は然様に京へ伝えるように。

 急げ!

 前内府殿が身罷られてからでは遅いぞ」


 驚く事に、この謀議には武田信長も加わっていた。

 積極的に参加したのではなく、呼ばれて参加したのだが。

 信長は、神事や仏事から雑事にまでこき使われていたのだが、意外に使い勝手が良かったようだ。

「わしにこのような細々した事をさせるとは、武衛(持氏)め、嫌がらせにも程があるぞ」

 と愚痴を言うも、自分で言う程に苦手では無かった。

 むしろ、守護家の次男坊として生まれ、そのまま当主としての教育も無しに戦争と政略の中で陣代についていた信長には、良い勉強となった。

 君主というのは様々な雑事に付き纏われ、それをただ家臣に振るだけでなく、人を見定めて割り振らねばならない。

 それに面倒臭いと思っても、人付き合い、家の付き合い、寺社への寄進や参拝は必要なのだ。

 甲斐でも加藤梵玄入道の指南を得て行っていた事ではあるが、武家の都・鎌倉で、その長である鎌倉公方のそれはもっと大がかりで、重要なものであった。

 信長は言葉遣いから修正される。

 地の生え抜きで、地侍とばかり交流し、京や鎌倉という都会に出た事が無かった信長は、守護家が使う上位武士の言葉遣いと、地元の民百姓国人の使う甲斐言葉がごちゃ混ぜの喋り方だったが、今では綺麗な武家言葉に直っている。

 そして家格が高い武田家の出であり、鎌倉府の軍を三度退けた勇名も手伝い、雑事で信長が挨拶に行けば喜ばれた。

 そんな事もあり、足利持氏は良い執事を得たとばかりに使いまくり、やがて謀議にも参加させるようになった。


 そこまで使われていても、信長に所領の一個も与えない所に、持氏の底意地の悪さが見える。

 ではあっても、この時期の政務や雑事をこなす事は、田舎大名の次男坊であった武田信長を、有能な守護大名にする為の修行とも言えるのだった。

おまけ:

岩松家の土用松丸、得度して源慶と名乗る少年は、彼に従う僅かな家人と共に、美濃国瑞巌寺に迎えられた。

この寺も上野国の長楽寺、甲斐国の恵林寺と同じ臨済宗の寺院である。

そして土岐家の庇護を受けている。


瑞巌寺に行く前に、源慶一行は守護大名・土岐持益に挨拶する。

「お目通りが叶い、恐悦至極で御座います」

「うむ、面を上げられよ。

 時に、武田八郎殿は息災かの?

 鎌倉武衛殿に降ったと聞くが」

ここで源慶少年は、土岐持益に繋ぎをつけていたのが武田信長と知る。

この美濃だけではない。

信濃を通る際に世話になった小笠原政康も

「まあ武田殿とは色々あったが、御身は出家の身ゆえ大事に致そう」

と武田からの書状で紹介されていた事を知る。

(でなければ、自分のような者がこのような待遇を受ける事もあるまい)

そう考える源慶であった。


(しかし、何故武田殿は斯様に自分を大切にするのか?)

実のところ、単に武田家は仏教に手厚いから、岩松とか新田とか関係無く推薦状を書いていただけだった。

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