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猿橋の合戦、そして……

【用語説明】

甲斐九筋:甲斐に通じる古道。

・駿州往還(河内路)→駿河に通じる道。富士川の西岸を進む。

・中道往還(右左口路)→駿河に通じる道。富士東麓を南下する。

・若彦路→駿河に通じる道。富士北西麓を進む。

・甲斐路(御坂路)→相模に通じる道。鎌倉へ向かう「鎌倉街道」でもある。

・青梅街道(萩原路)→武蔵に通じる道。奥多摩より青梅に繋がる。

・秩父往還道(雁坂路)→武蔵に通じる道。雁坂峠を越えて秩父盆地に繋がる。

・穂坂路→信濃に通じる道。北西に進み、佐久郡に至る。

・大門嶺口→信濃に通じる道。西に進み、諏訪に至る(後の信玄の棒道)。

・信州往還(逸見路)→信濃に通じる道。善光寺に至る。

この他に、横山口(八王子)と繋がる古甲州道がある。

 甲斐の猿橋は、日本三奇橋の一つである、珍しい構造の橋だ。

 谷が深く、橋脚を立てられない。

 断崖に刺さった跳ね木四枚の上に、橋板を渡す構造である。

 その起源は不明だが、推古帝の頃に造られたとされる。

 百済から来た志羅呼(シラコ)という博士が、架橋に悩んでいたところ、猿が断崖を渡る様子を見て思いついたという。

 猿橋は桂川の上に架かっている。

 桂川は下流では相模川と呼ばれ、河口近くの下流では馬入川(ばにゅうがわ)とも呼ばれる。

 この川に架けられた橋の落成供養の帰り、源頼朝が乗った馬が川に入り、暴れて頼朝が落馬したという逸話が「馬入」川の名の由来となる。

 急流でかつ両岸は急峻な崖である。

 甲斐の国境防衛には持って来いであった。


 武田信長の軍勢は猿橋に陣を敷く。

 いざとなったら橋を落として、侵入を防ぐ。

 今は、剛勇の加藤梵玄を単騎橋の中に置き、鎌倉方の侵攻を待ち構えていた。


 やがて簗田河内守助良率いる鎌倉方が到着する。

 鎌倉公方奉公衆筆頭を勤める男だ。

「左馬殿(足利持氏)はおらんか」

 既に足利持氏は左馬頭ではなく、従三位左兵衛督という公卿に昇任しているのだが、信長はその辺は深く気にしない。

「まあ、鎌倉公方ともあろう者が、矢の届く場所まで馬を進める事もあるまい。

 遠くではなかろう。

 この街道筋にはおるじゃろうの」

 実際、足利持氏は鶴川(後の町田)から猿橋のすぐ傍、大月まで陣を進めている。


 そして互いに鏑矢を放ち、合戦が始まる。

 頼朝より拝領の先祖伝来の長刀を持って橋の真ん中を塞ぐ加藤梵玄の武威に、鎌倉方は

「まるで五条大橋で刀を狩る武蔵坊弁慶のようじゃ」

「いや、長坂で百万の軍を食い止める張飛じゃ」

「いやいや、あの得物は関羽じゃ。

 今関羽が居る」

 と囁き合う。


 この日の合戦は、橋を巡って一騎打ちが何度か行われ、日暮れと共に終わった。

 沸き立つ信長陣営。


 翌日の合戦は遠距離からの矢戦であった。

 橋の向こう側から矢を射て来る。

 武田方も矢を射返す。

 ここに来て信長は

(もっと動きやすい場所を選ぶのであった)

 と後悔し始めた。

 橋一本しか通路が無く、急峻な断崖と激流で隔てられた対岸には、大きく迂回しないと渡る術は無い。

 猿橋は鎌倉方の動きを制限するのと同時に、武田方の動きも制限してしまったのだ。

 そして

(こいつら、まともに戦う気が有るのか?)

 矢を撃ち合いながら信長は違和感を感じる。

 確かに激しい矢の射かけ合いになっているのだが、そこから先の工夫が無い。

 古き時代の瀬田の大橋の合戦のように、欄干を渡るような無茶もしない。

 宇治川の合戦のように、川を強制渡河もしない。

 物見の報告では、特に迂回路や別の渡河地点を探している様子も無い。

 大体、初日も加藤梵玄の武勇を(えびら)を叩いて褒めそやすとか、源平合戦のようではないか。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 信長が鎌倉方の真意を知るのは、そう先の事では無かった。

 白旗一揆の衆が秩父を発し、甲斐九筋の一つ・秩父往還を進んでいると知ったのだ。

 彼等は既に雁坂峠を越えたと言う。


 白旗一揆は、金子、別府、安保(あぼ)高麗(こま)といった武蔵七党と呼ばれた武士団を中心に結成された。

 彼等を軍事的に編成したのは、足利氏の執事・高師直らの高一族である。

 高師直は足利直義と対立し、やがて死ぬ。

 高一族も没落するが、白旗一揆は残った。

 足利尊氏はこの白旗一揆を使って、弟・直義を薩埵峠の戦いで破る。

 その後、鎌倉公方は畠山国清の乱、岩殿山合戦(宇都宮党の芳賀禅可との戦い)、小山義政の乱という戦において、白旗一揆の衆と結んで戦っている。

 白旗一揆はある種、坂東における傭兵集団的な存在となり、戦闘力を提供する事で自立を鎌倉府に認めさせていた。

 彼等は上州一揆、武蔵北一揆、武蔵南一揆と分裂するが相変わらず鎌倉公方の頼れる傭兵集団であり続ける。

 分裂したと言っても、地域毎に纏まっただけの事で、喧嘩別れではない。

 この内、武蔵南白旗一揆が甲斐に乱入する。


「しまった。

 ここの軍勢は鎌倉方の陽動であったか……」

 焦る信長。

「如何致します? 陣代様」

「土屋殿と合流する」

「石和館には戻られませぬか?」

「戻ったらわしは跡部の者に囚われるだろうよ」

「何と?

 されどこの書状は跡部様が殿に危急を報せる為に送られたのでしょう?」

「それがあの男の厭らしいところよ」


 実際、跡部父子は信長に白旗一揆接近を報告すると共に、白旗一揆に対し投降の書状を送り、半済(その年の年貢の半分を渡す代わりにそれ以上の乱暴狼藉を止めさせる)分を支払った。

 更に

「我等は武田悪八郎に与する者では非ず」

 と白旗一揆、鎌倉公方、一色時家に加勢の申し出をしていた。

 それでいながら、武田信長には鎌倉方の正しい情報を送っている。

 鎌倉方にも信長方の情報を送っている。

 彼等は石和館から動かずして、どちらが勝とうと自分の功を申し出られる状態を作っていた。

 二股膏薬、どちらにもべったりとくっつくのは、まさに乱世の習いである。


 跡部父子は嘯いていた。

「我等、甲斐に地縁を持たぬ者は、常に勝つ側におらねば立ち行かぬのよ」


 勝たねば人が着いて来ないのは信長も同じである。

 反京、反鎌倉と自立心旺盛な甲斐国人の内、小身の者が多く信長に従うのは、ひとえに「戦に強い」からなのだ。

 弱ければ、一度滅亡して国を追われた武田の次男坊等、誰が付き従おうか。

 信長は、猿橋を焼き払い、郡内を南下して土屋景遠の軍勢と合流する。


 一方、跡部父子から甲府盆地が既に落ちた事を知らされた一色時家は、土屋勢を力押しで攻める。

 地の利をもって戦う土屋景遠と土肥の衆であったが、数で勝り、更に士気上がる鎌倉勢に押される。

 そして元は甲斐の住人である逸見有直勢が、甲斐の地形を不利とせずに猛攻をかけ、ついに土屋勢を突き崩す。

 敗れた土屋勢と転進して来た信長勢は谷村(やむら)城で合流する。

 ここは郡内加藤家、つまり加藤梵玄の勢力圏である。


「悪八郎殿、済まぬ」

「義兄上が無事で良かった。

 まだ戦えるだろう?」

「もうやめた方が良い。

 敵は勢いづいている」

「そうは言われても、矛を収める事は出来んな」

「グワッハハハ! それでこそ悪八郎殿!

 諦めが悪くてナンボの武士(もののふ)よ!」

「入道殿!

 貴殿は一応は僧侶ではないか!

 何故強欲を褒め、戦を奨めるのか?」

「ふん、一所懸命こそ武家の有り様。

 そこもとのように中途半端で諦めていては、悟りに辿り着かん。

 武家なら我欲、強欲を貫き通し、その先にある彼岸を見て貰おうぞ」

「何かよう分からんが、気に入った!

 わしはわしの生き様を貫くでよ。

 義兄上はわしに着いて来られぬのであれば、ここで落ち延びなされ」

「わしを見くびるな!

 お主を見捨てて逃げたりしたら、妹に会わす顔が無いわ。

 わしは所領には拘らぬが、お主だけは見捨てぬ!」

「ふむ、見直したぞ。

 それもまた煩悩。

 煩悩を極めてこそ説く道も有り。

 どうれ、わしも付き従います故、合戦致しましょうぞ」




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 谷村城を打って出た信長勢は、田原(後の都留市)の地で一色時家・逸見有直との合戦に及ぶ。

 信長及び加藤梵玄の攻勢凄まじく、特に地元の加藤家の軍勢は勇猛で、一色・逸見の軍勢を打ち破った。

 これで三度、武田信長は鎌倉方に勝利した事になる。


「武田悪三郎の戦が強い事は先刻承知しておる。

 じゃが、戦に強い者が必ずしも勝者となる訳ではない。

 その事を田舎者に教えてやろう」

 一色時家は余裕であった。


 翌日の戦も信長方有利であった。

 しかし、それが一気に崩れる。

「小山田勢、攻め寄せて参ります」

「小山田?

 何故?

 小山田には我が弟が身を寄せていたではないか!」


 これは信長の油断である。

 自身が長兄の信重を拒絶しているのに、何故弟の信泰が自分を裏切らない等と言えよう。

 武田信泰は、己の身が公式に赦免される事と引き換えに、兄を裏切った。

 そして小山田家も、別に武田の家臣ではない。

 同格の国人領主なのだ。

 小山田家も一度、上杉禅秀の乱に巻き込まれて滅亡しかけた。

 勢力回復の為、あらゆる物を掴んでいたが、此処に来て鎌倉から「乱に連座した件を赦免する」と言って来た。

 ここらが潮時である。

 親戚だから保護していた信泰の身も保証されているのだし、京と鎌倉の両方と事を構えているように見える信長には退場願おう。

 ついでに、同じ郡内の国人領主である加藤家の所領を奪えれば尚良い。


 かくして信長勢は一色の軍勢と小山田の軍勢に平地で挟み撃ちに遭い、散々に打ち破られたのだった。

 一色時家は嘯く。

「戦は、戦を始める前におおよその勝敗は着いておる。

 より多く味方を集めた方が、大体は勝つ。

 時に武田悪八郎や加藤梵玄入道の如き戦上手や武勇の者にひっくり返される事もあるが、

 大軍を相手に何度も何度もそれは通じぬよ」

おまけ:

「おお、岩松の法泉入道、よくお訪ね下された」

この僧体は結城基光、出家して結城入道と呼ばれていた。

家督は子の満広が継いだが父より先に死に、その弟・小山氏を継いだ泰朝の子・氏朝を養子としてこの者が継いでいた。

ただ、結城氏朝は二十代で経験が浅い為、この祖父が後見をしている。

岩松満国も出家し、法泉と名乗っている。

出家同士の会談という形式だ。

「京の赤松左京殿より書状を預かって……」

「皆まで言わんでも良い。

 ただ、公方様は気難しきお方、折を見てこの入道より口添えしよう」

「助かります」

「まあ、赤松殿には御礼申し上げねばなるまい。

 高くつきそうですな」

「いやいや、進物を惜しむものではありません。

 赤松殿だけでなく、結城入道様にも手土産をお持ちしておりましてな」

「ククク……わしは出家の身、欲は無いのだぞ。

 物で釣ろう等と、ああ怖い怖い」

「これはしたり。

 釣ろう等と考えるものでは御座いませぬ。

 入道様が不要ならば、中務大夫様(氏朝)にお渡し下され。

 それと、これは公方様に」

「そうそう、わし等より公方様に時季の挨拶や進物を欠かさぬようにな」

上が直情径行でも、裏に回れば鎌倉府も大概な狸の棲み処であった。

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