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鎌倉府との対決

応永三十二年(1425年)二月、京に激震走る。

第五代征夷大将軍足利義量、病死する。

将軍就任の頃から、大病を患い治療や祈祷を受けていた。

「まさか、倅めが先に身罷るとはな……」

既に出家していた大御所・足利義持は落胆するが、落胆し続けてはいられない。

義量には子が無く、義持にも義量の他に男子が無かった。

将軍再任官こそ無かったが、結局大御所義持が実質的な将軍として復帰する事となった。

 大御所足利義持と鎌倉公方足利持氏の対立は、最終的に持氏が折れる形で落着した。

 まだ持氏が引っ掻き回した常陸国と、京都・鎌倉双方に逆らっている甲斐国について、どちらがどうするか話し合いが持たれている。

 常陸には管領細川持有と信濃の有力武家・小笠原政康が入って、京都扶持衆の庇護を行っている。

 こちらは持氏には悔しい事だが、京の思う通りになるだろう。

 もう一つの甲斐の問題は、何としても持氏が思う通りにしたい。


 だが、持氏にしても今まで同様のやり方では京と争いになると悟る。

 苛烈な性格は直しようが無いが、一旦は我慢しようと学習する。


 義持もまた、我慢をしている。

 鎌倉府討伐の噂は越後に波及した。

 越後の実行支配者・守護代長尾邦景は鎌倉と繋がっている。

 越後守護上杉頼方もまた、鎌倉方と思われ、義持に討伐されるかと怯えていた。

 その疑いを晴らす為、上杉頼方は長尾邦景討伐を申し出る。

 こうして上杉対長尾の戦いに、援軍として出陣した伊達も絡む大乱が起こる。

 これが昨年十一月の話である。

 今年、応永三十一年二月には鎌倉との和睦が成った。

 この和睦により、乱を起こす嘆願を行った上杉頼方の権威が失墜する。

 管領畠山満家は、頼方を見限り、その子の幸龍丸を新たに越後守護にしようと画策している。

 そして上杉幸龍丸は畠山満家の仲介で長尾邦景と結んだ。

 復権を狙う頼方陣営と子の幸龍丸・長尾邦景陣営とで乱が起こる情勢となっていた。


 そこで甲斐の問題は、義持と持氏双方が「まずは対話」で一致した。

 そして武田がこれに従わない場合、鎌倉府による討伐が認められる。

「ただし、鎮撫後は穏便に済ますように」

 義持は釘を刺すのを忘れなかった。


 かくして武田信長に降伏と、甲斐国守護の鎌倉出府を求める使者として、上杉家の傍流・上杉房前が送られる運びとなった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 日ノ出城で上杉房前は武田信長と面会する。

(この上杉房前とは一体どこの馬の骨ぞ?

 越後の上杉の通字が「房」のように覚えているが?)

「其方が武田八郎なるか?

 鎌倉御所様よりの下知である。

 其方儀に対し鎌倉に館を賜うものなり」

 要は鎌倉に住め、という命令であった。


「ご使者に伺いたい。

 守護でも守護代でもない、(それがし)が何故に?」

「その方は去る応永二十三年に父親と共に鎌倉御所に謀反を起こした為じゃ」

「という事は、わしは鎌倉では囚人となるのか?」

「左様には申しておらぬ」

「されば何故に?」

「そのように謀反を起こした者を、御所様はお許しになり、館を下さるというのじゃ。

 鎌倉に住めるのじゃ。

 首を垂れてその恩を感じ、ご奉公すべきであろう」

「笑止!」

「何?」

「許すと言うなら甲斐に住まう事を許せば良い。

 鎌倉に出府させるなら守護か守護代であり、わしではない筈じゃ。

 わしをあくまでも鎌倉に呼び出すというのは、わしを捕らえて首を刎ねるつもりじゃろう」

「八郎殿! それは違うぞ」

「鎌倉殿のこれまでのやり様、それを見るにつけ信用ならぬ。

 現に佐竹の山入殿は鎌倉にて殺されたと聞く」

「…………」

「いや、ご使者には斯様な地まで足労頂き忝いが、この悪八郎が鎌倉に住まう事は無い。

 然様鎌倉殿にお伝えせよ」

「後悔なさいますぞ」

「鎌倉殿がか?」


 上杉房前は役目を果たせなかった。

 武田信長にあっさり断られたと聞いた持氏は、表面上は憤怒しているが、内心密かに喜ぶ。

(これで兵を出しても文句は無いのぉ)

 一度は穏便に手を打ったのだ。

 武家は面子が全てである。

 ナメられたまま済ます訳にもいかない。


「刑部!」

「はっ」

「其方に武田悪八郎追討を命じる。

 道案内には逸見中務丞をつける。

 甲斐に攻め込み、悪八郎奴をこの鎌倉に連れて来い」

「恐れながらお伺いしたき儀が御座る」

「何か?」

「連れて来る身柄は首が無くて構いませぬか?」

「首は繋がっていようが、離れていようが、構わぬ。

 そちの裁量に任す」

「はっ」


 一色刑部少輔時家は一千騎を率いて甲斐に侵攻する。

 鎌倉のある相模から甲斐へは、後に「鎌倉街道」と呼ばれる古来より大路で行ける。

 相模国御厨(みくりや)(後の御殿場)から籠坂峠を通り、河口湖の脇を抜けて八代から盆地に入る。

 信長を甘く見ていた一色時家は、最短距離で甲斐に入り、そのまま一息に始末しようとした。

 だが、侵攻を読んでいた信長は、河口湖を抜けた辺りで待ち構えていた。

 そして急峻な地形と、甲斐駒の山岳機動力を活かして邀撃戦を展開。

 一色時家と逸見有直の軍勢を撃退する。


 甲斐より追い出された一色時家は、気を引き締める。

 今度は用心して甲斐路(若彦路)を進む。

 だが、やはり地形険阻な地にて信長に山岳戦を強いられる。

 矢戦において「武田の緩矢」が鎌倉方を苦しめる。

 これは(やじり)を緩く巻きつける事で、矢が刺さった後に体内で鏃が抜けやすくするものだ。

 さらに鏃につけられた返しも大きく、体から摘出しにくい。

 接近戦になっても苦戦する。

 武田信長の配下は、小身の国人一揆である。

 彼等は率いる家人・雑兵も少ないが、その分少数同士の戦いでは強い。

 更に剛勇を誇る加藤梵玄がいる。

 用心してかかった一色勢であったが、またも撃退されてしまった。


「武田悪八郎信長、侮り難し」

 鎌倉府全体で認識を改める。

 木賊(とくさ)山で滅亡した武田の小童(こわっぱ)と思っていたが、中々どうして戦が強い。

「どうにか、甲斐よりあの若造を追い払って下され」

 逸見有直は恨み骨髄だが、他の者は逆に冷静になった。


「刑部、そちはこの次も甲斐路を下り、富士の淡海(あわうみ)(河口湖)の辺りまで進め」

「はっ」

「そこでしばし、悪八郎を引き付けておけ」

「承知いたしました。

 して、御所様は如何なされます」

「余は武蔵の一揆に悪八郎追捕の御教書を出す。

 余の兵は武州横山口(後の八王子)より甲斐に入ろうぞ」




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 かくして鎌倉府は甲斐路で一色勢が武田信長を拘束し、本隊は八王子から相模原を通り、上野原を経由して郡内に入る作戦を立てた。

 それに先立ち、多数派工作、調略を行う。

 足利持氏は本気だった。

 南北朝の動乱期、北朝方として戦った武蔵国人一揆の内、白旗一揆の武士団に書状を送り味方に着くように説く。

 甲斐国内でも、郡内の小山田家、巨摩郡の穴山家、守護代跡部家に「合力せよ」という調略の手が伸びる。


「父上、如何なさいます?

 鎌倉殿にお味方し、悪八郎殿を討ちまするか?」

 そう問う跡部景家。

 父の跡部明海は老獪だった。

 呵々と笑うと

「それと無く悪八郎殿に鎌倉のやっておる事を教えてやれ」

 そう言う。

「では、我等は悪八郎殿に与力し、鎌倉と事を構えるのですか?」

「虚け者が。

 この戦、京の公方様や信濃の小笠原御本家と連なる我等は、一切関わらぬ。

 余計な事をして、常陸に居られる御本家に迷惑をかける訳にいかぬしな。

 そして、鎌倉が勝つならそれも良し。

 万が一、悪八郎殿が勝つ目にも張っておかねばな」

「では?」

「我等跡部がやる事は?」

「甲斐の地を押領する事ですね、覚えております」

「それには合戦が激しくなくてはならぬ。

 そうであれば、勝った側も疲れており、我等は高く売りつける事が出来よう。

 その後に恩賞として負けた者より土地を頂くのよ」

 そう言ってまた笑う。

 ひとしきり笑った後、真顔で呟く。

「悪八郎殿は戦は強いからのぉ。

 甘く見ていれば痛い目に遭おう。

 この後の成り行きはしっかり見定めねばな……」


 跡部明海から密かに「既に鎌倉は、甲斐の国人に合力を呼び掛ける書状を送っている」という話と、「特に郡内の家に多数の鎌倉の書が届けられている」という話を聞かされた信長は、対策を考えた。

「土屋の義兄上、義兄上には一色と逸見の兵を食い止めていただきたいが、どうじゃ?」

「それは、お主に言われればやらん事はねえ。

 忍野の(うみ)辺りで良いか?」

「お頼み申す」

「それで、悪八郎殿はどうする?」

「恐らく鎌倉は、武蔵より押し寄せて来よう。

 郡内に入れてしまっては、小山田を始め、どちらに転ぶか読めぬずら。

 じゃで、郡内に入れる前に迎え討たねばなんねえ。

 そうよのお……、国境(くにざかい)のここの橋が良いな。

 ここは……猿橋じゃな。

 よし、我等は猿橋を死守し、鎌倉の兵を国に入れずに追い返す。

 皆の衆、よろしく頼むぞ!」


 足利持氏との決戦が始まる。

おまけ:

「新田能登守殿、息災か?」

「ははー、お陰様で一族郎党、生き永らえております」

上洛した岩松能登守満春は、幕府侍所頭人・赤松満祐の前で平服している。

幕府では岩松家を新田の嫡流扱いとしていて、粗略には扱わない。

岩松家は、幕府要職の者の力を借りて、没収された岩松満純の所領を返還して貰おうとしていた。

その中で赤松満祐が新田岩松氏を支持すると申し出た。

無論、思惑有っての事だが、それに応えた上で味方になって貰う。

この日、満春は願い出ていた書状を満祐より貰う。

早馬を出し、それを新田荘にいる父・満国に届ける。

岩松家の所領回復運動は続いていた。

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