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甲斐武田家、滅亡したってよ

応永二十四年(西暦1417年):

時代は室町時代、征夷大将軍は第四代足利義持である。

朝廷には称光天皇、後小松上皇が君臨していた。

西洋ではコンスタンツ公会議で教会大分裂(シスマ)が収拾された年にあたる。

 応永二十四年(西暦1417年)、甲斐武田家は木賊(とくさ)山にて滅亡した。

 木賊(とくさ)山は後に天目山と名を改められる。

 この同じ天目山で武田家は、165年ぶり二度目の滅亡をする事になるが、この物語では触れない。


「いやあ、見事に負けちまったずらよ」

 数え十七歳の若者が笑う。


 この男の本名は武田信長。

 後に武田家を再滅亡させる武将と同名である。

 戦国最強の武将の名前を2つ合体させたものと後世言われるが、知った事じゃない。

 通称は「悪八郎」。

 この通称もまた「らしい」ものだ。


「悪八郎殿、然様(さよう)な軽々な振る舞いで如何なさる!」

 武田信長に諫言するこの男は土屋景遠、備前守を名乗っている。

 彼の本領は相模国に在った(後の平塚)が、追放された。

 そして甲斐国に逃げたが、ここもまた追放されようとしている。


「わしも生まれ育った甲斐を追放されるが、わしは何も悪い事しておらん。

 義兄(あに)上もそう暗くならぬように」


 何故甲斐武田家、相州土屋家が滅亡し、故郷を追放される羽目に陥ったのか?

 全ては政略結婚のせいであった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 武田信長の父親は、武田本家第十三代当主の信満である。

 信満の娘は関東管領上杉禅秀に嫁いでいた。

 土屋景遠の妹は武田信長の正室である。

 上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に対し反乱を起こした時、婚姻関係で繋がる者たちは味方せざるを得なかったのだ。


 もしも、そういう人間関係を無視したらどうなるのか?

 遥か昔にそれをした男がいた。

 鎌倉幕府侍所別当の和田義盛と、執権北条義時が争った時、三浦義村は同族の和田義盛を裏切った。

 そして、こう言われるようになる。


「三浦の犬は友を喰うぞ」


 武士の面目的にも、婿を見捨てられない、共に戦って滅亡は世の習いなのだ。

それに上杉禅秀と婚姻関係にある武家は上野国の岩松家、下野国の那須家、下総国の千葉家と多数あり、禅秀が勝ったなら裏切り者、または日和見者は彼等によって領国を奪われてしまうのだ。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 この時代の権力者・足利氏の統治は破綻しかけている。

 元々、征夷大将軍となって武家政権を復活させた足利尊氏は、鎌倉に幕府を立てたかった。

 武士の本場は、足柄の坂の東、碓氷(さか)の東、つまり「坂東」である。

 そして武家の棟梁・八幡太郎源義家の系統は、鎌倉に本拠地を置いた。

 足利氏も本当なら、鎌倉に政府を置きたかったのだ。


 それが出来なかったのは、近畿に稀代の怪物・後醍醐天皇が居たからである。

 帝が吉野に逃れて立てた南朝が、足利氏の擁立する北朝と対立した。

 いわゆる南北朝時代である。


 武力の無い朝廷は、寺社に金融業を営む免許を発行し、代わりに献金を受ける。

 様々な特権を「免許状」として売る事で利益を得ていた。

 後醍醐天皇の南朝に力が残っているのは、そういう「朝廷の利権」が大きいからである。

 そこで足利尊氏は、その朝廷の利権を根こそぎ奪う事にした。

 三代将軍足利義満までに、朝廷の利権強奪は上手くいった。

 南朝も北朝も関係無い、朝廷の利権は奪ってしまわないと、またいつ新たな後醍醐天皇が現れるか分からないのだ。

 その結果今や、寺社は免許状発行を朝廷では無く、足利幕府に求めるようになっていた。


 こうして京都を離れない足利本家に対し、坂東の武士は不満を持つ。

 金融業? 運送業? 明との交易? そんなものはどうでも良い。

 領土を安堵し、相続を保証し、土地争い・水争いを裁定する事こそ武家の棟梁の本分。

 そう思う坂東の武士たちは、鎌倉にいる足利分家を支持する。

 この家系を抱く坂東政権は「鎌倉府」と呼ばれ、長は鎌倉殿あるいは鎌倉公方と呼ばれた。


 京都の公方と鎌倉の公方、西国の支配者と東国の支配者。

 共通の敵・南朝が居る内は問題が、無いわけではないが、妥協し得た。

 南朝が消滅した後が問題である。

 「武士の本場」にいる鎌倉公方は、「出張先から帰って来ない本家」の命令に従う義理はない、そう思う。

 こういう独立心旺盛な鎌倉公方を、補佐もするが監視もするのが関東管領であった。

 良く言えば調停役、悪く言えば目付である。


 関東管領は、初期には他家の者が就くこともあったが、基本的に上杉家の者が就任する。

 上杉家は、初代将軍足利尊氏の母親(側室)を出すように、足利家の外戚に当たる。

 そして上杉家といっても、多数の分家を持つ。

 鎌倉のどの場所に邸宅を置いたかで、山内、扇谷、犬懸、宅間という系統に分かれる。

 上杉本家は山内上杉家であった。

 この山内上杉氏から越後上杉家が分かれた。


 京都の公方と通じる山内上杉家に不満を持つ坂東武士も多い。

 その不満が爆発した結果、本家たる山内家は職を追われ、分家の犬懸家より関東管領が出る。

 これが上杉氏憲、出家して上杉禅秀と名乗る男である。

 上杉禅秀を坂東の武士の他、鎌倉公方の叔父や弟も支持した。

 権勢を振るう上杉禅秀だったが、それを本家が黙って見ていたわけではない。

 政治的に巻き返し、鎌倉公方足利持氏と手を組む形で犬懸家の冷遇を始めた。

 そして上杉禅秀が乱を起こし、彼の縁者も同時に蜂起した、という具合である。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「だから、乱は上杉禅秀のせいだし、それに味方するのも仕方無き事。

 わしらはちっとも悪くないずら」

 父親が討ち死にし、住み慣れた石和の屋形を追われ、代々就任していた甲斐国守護を解任されても信長は平然としている。

「じゃから、京にでも行こうかのお」

「呑気じゃのお。

 あの左馬頭殿が放っておくかどうか……。

 不安ではないのか?

 京までたどり着けるかどうか……」


 左馬頭こと鎌倉公方・足利持氏。

 この年、数えで十九歳、武田信長より二歳年長である。

 だが人生の難易度は、信長より遥かに上だった。


 十一歳の時、父の死により鎌倉公方となる。

 翌年、叔父が自分を殺そうとしているとの風説が立ち、関東管領・上杉憲定の屋敷に逃げ込む。

 叔父に自分の弟を養子として出し、和睦した。

 この年、叔父との和睦後の十二月に元服、左馬頭持氏と名乗りを改める。

 三年後、十五歳の時には奥州の伊達持宗が反乱を起こす。

 若年の持氏はナメられていたのだ。


 持氏は強い自我を持つようになる。

「わしを甘く見るんじゃねえ」


 これまで自分を補佐していた上杉禅秀を冷遇し、辞任させたのもこの感情による。

 坂東武士に支持される禅秀は、鎌倉公方の目の上のたん瘤である。

 また上杉禅秀は、かつて自分に対し反乱を起こそうとした、そう言われる叔父の足利満隆と繋がっているのも一因である。

 結果、上杉禅秀に反乱を起こされ、鎌倉を脱出して駿河の今川範政の元に逃れる屈辱を味わう。


 今川や越後上杉の力を借りて勝利を収めた持氏だったが、怒りは収まらない。

 報復を行った。

 上杉禅秀と叔父の足利満隆は自害した為、恨みは周辺に向かう。

 禅秀の実家である犬懸上杉家を始めとし、敵は晒し首とした。

 その中には、持氏の下に配されているものの、主従関係からいえば京都の将軍・足利義持の臣だったものもいた。

 彼等も躊躇無く殺す事で、「現状維持」を良しとして持氏への支援を決めた将軍を怒らせている。

 土屋景遠は、持氏方の激しい攻撃を受けて領地を追われた。

 父親の土屋氏遠とともに甲斐に逃れる。

 その甲斐も攻められ、土屋氏遠もまた武田信満と共に自害に追い込まれたのだ。

 景遠は、残忍で短気な癖に執念深い持氏を恐れていた。


「なるようになっぺ。

 気に病んでもだっちもねえ。

 ここに居ても追手が来るから、逃げんべ逃げんべ」


 こうして武田信長と土屋景遠、そしてその妹にして信長の妻は、甲斐国を追放されるような形で逃げ出した。

「これからどうなさいます?」

 景遠の質問に信長は明確に答える。

「どういう道筋を辿っかは分かんねえが、しまいには大名となって名を残すしな」


 武田信長、何度負けても、何度挫折しても諦めない強かな男の人生が始まった。

今日は20時と22時にも更新します。

明日からは第一章が終わるまでは毎日1話ずつの更新とし、

二章以降は隔日更新の予定です。

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