生きていた証
自分はどれだけ社会に貢献できたのだろう
好きなことばっかりやって、好き勝手に生きてきました。最後の最期まで迷惑を掛けっぱなしの人生でした。天国か地獄が実在するのであればきっと地獄行きでしょう。少年時代の数々の非行。家族からの期待を裏切ったこと。大将の店を潰してしまった事。そのどれもが、今これを書いている時に限って走馬灯のように蘇ってきます。
苦しい。
今さら懺悔したところでそんなこともおこがましいと思います。苦しんで当然です。自分には何の才能もなく、誰かに認めてもらえることもなく、一所懸命自分なりにもがいてきたつもりでしたが、どうやら頑張り方を間違えたらしい。その事にも気付かずここまで生きてきました。お母さんごめんなさい。さぞかし手の掛かる息子だったでしょう。
感謝したいことがあります。ある日突然、元気を貰いたいと思って大阪で働くことにしました。関東にはないパワーがそこには存在し、自分を大いに勇気づけてくれました。42歳。厄年ではあったけれど、人生でもっとも輝いた3年間でした。私はこの時、今までの自分の過ちが全てなかったかのような錯覚に陥っていました。というよりも忘れるぐらい毎日が楽しかった。どうやら大阪は水に合うようでした。
大阪を離れ、今となっては幻であったかのようなその思い出が心の支えとなり、今日まで生きてきました。生きる価値のない自分に光を見せてくれて本当に感謝しています。
お母さんの体調が良くない、余命も長くはないと姉からの突然の電話。幻の中にいた自分を現実世界に引き戻しました。
六人兄弟の末っ子。兄弟の中で男は、長男の兄貴と末っ子の自分の二人だけ。自分が帰らなければいけない立場、環境ではありませんでしたが、何故かこの時、自分の使命だと神様に後ろから言われたような、姉からお母さんの体の具合を聞いたその瞬間から、私は故郷に帰る事を決めていました。
使命感。今思えば誰かに必要とされたかったのかもしれません。大阪を離れ、幻から解き放たれたくはなかったですが、それ以上に自分が力になりたかった。必要とされたかった。
父親の記憶はほとんどありません。唯一あるのはクリスマスの日の事です。家族全員でケーキを作り、装飾等も自慢できるほどのものでもないがそれなりに出来、幸せな時間でした。しかしそれも束の間、帰宅した父親が酒を飲んで暴れ回り、クリスマスを滅茶苦茶にしました。翌日、父は競馬に行くといったまま今日まで帰ってきていません。
そんな父に一度だけ褒められたことがあります。小学生の時、一度だけ夕食の味噌汁を作ったことがあり、味の事ではなく「お前はいい目をしている」と目を褒められました。この時は何のことかはっきりわからなかったのですが、今では最高の褒め言葉だったことがわかるようになりました。この言葉の意味がわかり、自分の人生の中でそういう「目」の人を見つけると嬉しくなりました。
もし逢えるとすれば今の自分に父はどんな言葉をかけてくれるでしょうか。今の自分の「目」を見て濁っていると言うでしょうか。
すべての事は時間が解決してくれる。きっとこの事もちっぽけなことで、すぐに忘れ去られてしまうでしょう。価値のある人生ではありませんでした。何の為に生まれてきて、何の為に死ぬのだろう。しかし、生きていては他人様に迷惑なのです。潔く、散ります。
自分はどれだけ社会に貢献出来たのだろう。ほんの少しでも世の中の役に立つことが出来ていたのであれば、生きてきてよかったと思います。
皆様、大変申し訳ございませんでした。
「これおもんないで」
私が書いてきたネタを見て相方が言った。
「いや、文章で読むとおもんないんやけど実際やってみたらおもろいんやって。これ、伝わってないやろ?」と私は返す。
「いや、ボケが小ボケの応酬で大きいボケが一つもないねん。」
「作家の先生が二分の中でどれだけボケを詰め込めるかって言うてはったやん……」
「おまえ真面目やねん。言われた通りにやって笑いとってもオリジナリティないやん。そんな固定概念持たんでええねん。」
「おまえネタ書いたことないやん」
「……。」
「ほらみろ。ぐうの音も出えへんやん」
「大体最初のボケまで四十五秒もかかってるやんけ。四十五秒も見てる方は待ってくれへんて」
「それ昨日、作家の先生がそのまんまのセリフで言うてはったやつな」
「……。ぐうの音も出えへんやんけ」
「何やこのやり取り。もはや漫才みたいな掛け合いが生まれとるな」
芸人養成所を卒業して一年目。毎日のように相方である秋原と顔を合わせ、ネタ合わせをしている。ネタ合わせと言ってもこんな調子で、ネタを書いてきても練習もせず、五時間もたわいもないことを喋ってバイトに向かう。時には喧嘩をし、雰囲気が悪くなり、五時間ほぼ喋らずそのままバイトに向かう時もある。どんなことがあってもこのバイトまでの「5時間」は同じ空間にいる。コンビの相方とはビジネスパートナーであり、友達であり、恋人のようなものである。顔も見たくないぐらい腹の立つ時もあるし、二人で野球を観に行くこともあるし、舞台を観に行くこともある。例えば、相方になってほしいと頼みに行く時なんかは、好きな人に告白しに行くのと同じぐらい勇気がいる。前もって根回しし、自分が面白い奴である事をアピールし、わざわざ告白場所に呼び出し、ドキドキしながら「相方になってください」と告白する。成功すれば自分の将来像が見え、希望に満ち溢れる。例を挙げるとすると、就職先が決まったかのような嬉しさがこみ上げる。しかし、失敗した時には希望が絶望に変わり、描いていた将来像が白紙になる。例を挙げるとすると、滑り止めの高校にすら落ちてしまい、一学年下の後輩にタメ口で話しかけられるという暗黒の高校生活を送らなければならないような絶望感がやってくる。
秋原との出会いは芸人養成所時代である。当時はお笑いブームの最中で、生徒の人数も多かった。授業では毎回、講師である作家の先生にネタ見せをするのだが、その時秋原はピン芸人で、ソーセージを両手に持ち、アニメの「タッチ」の主題歌の替え歌を歌い続けるというネタを、作家の先生に酷評されながら、一年間繰り返した強心臓の持ち主である。キャラクターも明るかったので相方に選んだ。
コンビとは何げない会話からふとした瞬間面白いことが浮かび、そのままネタになることもある。実はそういう瞬間を願いながら毎日ネタ合わせというデートを重ねているのかもしれない。
春にしては日差しも強く、満開だった桜が少しずつ葉桜に変わっていく頃、実家のある京都から大阪に引っ越してきて、求人情報を見ながら最初のアルバイトを探す。いきなり芸で食べていける程、甘い世界ではなく(今思えばこの時点で志としては負けていたのかもしれない)適当に居酒屋でアルバイトすることにした。オープニングスタッフで時給が良かったから手っ取り早く稼ぐためにここに決めた。
居酒屋で働くという事に対して給料以外の何かを求めていたわけではないが、どういう職種についてもうまく立ち回れる自信はあったし、相方にも言われたがどちらかというと「真面目」な性格の方なのでやるからには真剣に、仕事に取り組みたいと思っていた。もちろん初めてのアルバイトでもなく、思い返せばどのアルバイトも真剣に取り組んできた自負がある。何よりも真剣に取り組むことで人が認めてくれるという成功体験が培ってきたものだろう。そして真剣さは往々にして多く物を与えてくれた。決してそういう期待をしていたわけではないのだが、結果的には適当に選んだこの居酒屋は、私の未来を大きく左右し、人生経験を豊かにしてくれた。もちろん、この時はそんなことを微塵も感じていなかった。人生は何があるかわからない。
最初に感じた正直な感想は「最悪な職場環境」だった。オープンしたばかりというのもあるが、必要以上に人が居り、狭い厨房の中に十数名のスタッフがいる。その中の四、五名は、他のスタッフの仕事を後ろから眺めているだけで、傍から見れば勉強しているのかサボっているのかわからない状況である。明らかに仕事の邪魔になっており、この厨房のキャパシティを十分に超えている。その中で、メモを取る者もいれば取らない者もいる。こういう時はメモを取っている者の方が真剣に取り組んでいるように見えがちである。しかし、実際に仕事ができるかどうかは別の話であるが、教えてもらう「姿勢」というものを社会ではまず評価する。これは働いてきて学んだ。そのメモは8割の者が二度と見ることなく制服のポケットに入れっぱなしで、いつの間にか無くなっている。これは自分の中のあるあるネタである。これをネタに使えないかなと思いながら、自分の本業がお笑い芸人であるという事の嬉しさと、お笑いの事を常に考えているという自分に酔っていた。
最初は洗い場しかできることがなかった。オープニングスタッフというものはとにかくお店を安定させるために通常よりも多くのスタッフを採用することが多い。誰がどこのポジションに適性があるのかの判断をする作業から始めるが、スタッフの数が多すぎて逆に効率が悪いことになっている。
いつ洗い場から抜け出せるのだろう。いや、そうではなく、自分から他人の仕事を奪って、どんどん出来ることを増やしていこうと考えるのがいつもの自分のスタイルであるはずだ。しかし、その一歩をどうしても踏み出せない、いや、踏み出させないオーラを全面に醸し出した厨房の職人がいた。
この社員は桜庭といって、東京から来たらしく、常に眉間にしわを寄せ、標準語で怒鳴り散らしてくる、厨房の中で一番権力を持つ職人であった。兎に角必死に仕事をしていても怒られるし、横では常に誰かに暴言を吐いているし、恐ろしく怖かった。
ある時、洗い物をしていた時の事、
「お前、洗い場周りの掃除もしておけよ」
「はい」
そう言われ、目に見えるところは綺麗にしておいた。はずだった。
「お前、これで掃除したつもりか?まだシンクの周りに油が浮いてるだろ」
「はい……すみません」
「毎回、指で触っても油が付かない様にしっかり磨いておけよ!あと、細かいゴミがまだ残ってるだろ。これもしっかり洗い流しておけよ。どこに目付けてんだよ。使えねえ奴だな」
コントに出てくる小姑か!と突っ込もうもんなら殴り殺されるかもしれなかった。しかし、こんな状況でもツッコミのセリフが頭に浮かぶことが、芸人として生きていく上で嬉しさがあった。
またある時は
「おい、そのシンクの中の洗い物5分で終わらせろよ」
「……はい」(どう考えても十分はかかる!と思いながら出来ないとは言えない)
そして一分後には
「まだやってんのかよ!遅えんだよ!今まで何やってきたんだよ!代われ!」
もはやコントである。今となっては笑い話だが、当時はこの理不尽な状況に耐えられず、辞めたかったが、次のアルバイトを探すのも面倒だったし、シフトを減らして桜庭に極力会わない様にしながら働いていた。しかし逃げるのもイヤだった。いつか桜庭に認めてもらえる様になってやると、意地のようなものもどこかにあった。
三ヶ月後、桜庭の異動が突然決まった。ほとんど会話をすることもなく、認めてもらうことなんて微塵もないまま別れの日が来た。正直言って天国だった。認めてもらえない悔しさはあったがその百倍以上に理不尽さから解放される喜びの方が大きかった。他のスタッフも満場一致の答えであった。当然、送別会などといった別れを惜しむ者など一人もおらず、静かに桜庭は去っていった。
それからのバイトの雰囲気は一変した。楽しい職場に変わっていった。緩くなったといえばそうかもしれないが、出来ることも着実に増え、他のスタッフからも頼りにされる立場になりつつあった。何よりも仕事が楽しくなり、本来こうあるべきであったのだと思いながらも、どこかにほんの少しだけ認められない悔しさのような燃えカスがあった。私は負けず嫌いだったのだ。
暑い夏も過ぎ、秋の夜風が気持ちよく、この季節が永遠に続けばいいのにと思うぐらい過ごしやすくなった頃、大勢いたオープニングスタッフも整理され、当初の半分以下の人数で営業できるようになり、私も複数ポジションをマスターし、店での立ち位置が出来ている状況であった。
そんなある日、日常を脅かす大ニュースが飛び込んできたのである。私は自分の耳を疑った。桜庭が再び店に異動してくるというのである。秋のような過ごしやすい日はそうは長く続かない。
「桜庭さんが戻ってくるなら私辞めます」そんな声が各スタッフから聞こえてきた。私も同じ気持ちであった。またあの恐怖政治のような、軍隊式のスパルタ教育が始まるのかと思うと割に合わなかった。しかし、自分の口と体は意に反して真逆の行動を取るのである。
「まあ待て。俺らも入ってきた頃よりは確実に成長してるし、自分達のやり方で店の営業は上手くいっているわけやし、桜庭さんの行動や出方を見てから決めても遅くないんちゃうか。」
みんなを説得していた。実は内心ワクワクしていた。あの燃えカスが再び燃え上がってきたのである。もはや給料を貰う為以上に負けず嫌いの血が騒ぎ、認めさせる事の為だけに働きに行くぐらい燃えていた。
木枯らし一号が吹いたその日、桜庭は再び異動してきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「また今日からよろしくな」
「宜しくお願いします」
「何でまた帰ってきたんだと思ってんだろ?」
「いやいや、思ってるに決まってますやん!」
芸人の血が騒いでしまった。もう抑えられなかった。なぜこんな危険なタイミングで言ってしまったのだろう。しかも関係性など皆無で、冗談など言っているところも見たことなく、言ったことももちろんない。絶対に今ではないタイミングで言ってしまった。さあこの後どうする?どうなる?包丁でも飛んでくるだろうか?このほんの数秒間が何時間もの長い時間に感じられた。
「なんでやねん!」
答えは意外なものだった。包丁は飛んでこなかったが、ある意味それ以上のインパクトをもってその返しは飛んできた。しかもニセ大阪弁。イントネーションがまるっきり違う。関東の人からすると大阪弁のイントネーションは外国語に近いぐらい発音が難しいらしい。桜庭も例外ではなかった。それが更に可笑しく期待の裏切りが凄すぎて面白かった。
「なんですか?その大阪弁。発音が違いすぎますよ」
「なんでやねん!」
「いや、何に対して?会話になってませんやん」
「なんでやねん!」
「なんでやねんってなんでやねん!」
「うわっ!本場のなんでやねんが聞けた!本当に言うんだね」
「いや、言うでしょそら」
「ごめんごめん。そうだよね。大阪弁っていいよね。まあこれから宜しく頼むよ」
意外な展開であった。こんなに優しく話してくれるなど想定外であった。つい何ヶ月か前の印象とはまるっきり違う。彼からは近づいたら傷つけられそうな、あの凶器のような雰囲気は微塵も感じられなかったのだ。彼から他人に対する「否定」が見事に消えていた。それは彼が元々そういう性格なのか、そうではなくそれを演じているだけなのか、演じているとすれば何がそうさせているのか。いや、機嫌が良いだけなのか、そうだとしたら今日限定なのか。作戦なのか天然なのか。気持ち悪い。これだけでは判断できなかった。しかし、これだけは言える。認められたからこうなったのではない。
その日の営業後、その場の勢いとノリから、難波の二十四時間営業している居酒屋で、桜庭含めその日出勤していたスタッフ達と飲みに行くことになった。桜庭とは営業中も普通に会話することが出来、これだったら害はなくみんなも仕事を続けられそうであった。しかし、仕事には相変わらず厳しく、怒ることもあったが、以前の理不尽さは無く、いい緊張感を生んでいた。それが耐えられないスタッフも当然いないわけではなかったが、この程度で辞めてしまう様ではこれから先も苦労するだろうなと思えるぐらいのレベルであった。(人それぞれ価値観の違いはあるとは思うが)
居酒屋で席に着いたのはその日の未明で、路地裏では野良猫が喧嘩をしてギャーギャー騒いでいたり、カラスが生ゴミを散らかしていたりした。みんな生きるのに必死だ。
適当に座った結果、自分の隣に桜庭が座った。(というよりも誰も桜庭の隣に座ろうとはしなかった。まだ警戒心は解けていなかったのだ)何を話したのかうろ覚えではあるが、とにかくその日の飲み会は嬉しかったのを覚えている。最もよく覚えている会話がある。
「なんで大阪に来たんですか?」
「俺実はさ、お笑いがめっちゃ好きでさ」
「え?そうなんですか?」
「大阪というより大阪に来たかったんだよ。だって笑いの聖地じゃん」
今まさしく笑いの聖地なんばグランド花月のすぐ近くの居酒屋にいるのが何とも可笑しく、何故か誇らしく思えた。と同時に自分がお笑い芸人を目指している事を話したくなった。職場では自分の素性を明かしてはいなかった。芸人と言えば会話に求められるハードルが上がるからだ。それも想定済みで、自分のスキルを上げる為にもみんなに言った方がいいとも考えたりしたが、特に何をしてるとかしつこく聞かれることもなかったので、フリーターとしか言ってこなかった。何か気が引けたのだ。しかし、この時初めてなぜか桜庭に話したくなったのだ。まともな会話は今日が初めてと言ってもいいぐらいの相手に、誰よりも先に伝えたくなったのだ。もはや考える暇もなく衝動的に。
「実は僕、お笑い芸人目指してるんですよ」
「本当に!?」
その時の桜庭の嬉しそうな顔を今でもはっきりと思い出すことが出来る。純粋に、ただ純粋に真っ直ぐ、嬉しそうであった。その反応に私は生き方を肯定されたような気がして、いや、桜庭に認められたような気がして嬉しかった。
「俺、お笑いを観に行きたかったんだよね。笑いというものを肌で感じたかったんだよ。それにパワーをもらいたかったんだよね。芸人さんってこの世で一番すごい職業だと俺は思ってる。実は大阪に来た理由はそれなんだよ。もうここで芸人さんに会えるなんてさすが大阪だな」
「いや、そう言ってもらえてめっちゃ嬉しいです。まあまだまだテレビにも出たことない芸人の卵なんで、これから頑張ります」
「うん。めっちゃ応援してる。ライブとかあったら絶対誘ってね」
「ほんまですか?来週あるんですけど来てくれます?」
「え!?行くよ!絶対行くよ!仕事休んでも行くよ!」
「ありがとうございます!」
「もう夢が一つ叶っちゃったよ。生でお笑いが見れるなんて最高だな」
この会話を皮切りに桜庭とは色んな話をした。ネタはどっちが書いているのか。どうやって書くのか。ボケとツッコミはどうやって決まるとか。なぜ相方と組もうとしたのか。出会いはどこか。立ち位置はどうやって決めるのか。舞台から見てどっちが上手でどっちが下手なのか。好きな芸人は誰なのか……しばらくの間質問攻めにあったが、事細かく説明した。普通そこまで根掘り葉掘り聞かれると面倒くさくなってくるものだが、それが不思議と嫌ではなく嬉しかった。特に相方と組もうと決めたエピソードは気に入ったらしく、ソーセージを両手に「タッチ」の主題歌を歌うネタは、ソーセージ(双生児)という意味があったということが面白かったようで、相方と会って話してみたいと興味津々であった。もちろん、私の話ばかりではなく、桜庭の経歴にも興味があったのでお返しとばかりに根掘り葉掘り聞いた。
桜庭は六人兄弟の末っ子で十代のころはヤンチャばかりして親に迷惑をかけたこと(もはや武勇伝だった)十七歳で寿司職人を目指し二十七歳で銀座の超有名寿司店で最年少で板長になったこと。寿司職人として頂点を極めたが、職人のままずっと一生を生きていくことに対して、これからは時代遅れだと感じ、マネジメントを勉強し、経営者になる為にチェーン展開する居酒屋に転職したことなどを語ってくれた。そして、私が入った頃は何故あんなに厳しかったのか尋ねると、最初は会社から頼まれて厳しい雰囲気を演出していたということであった。それにしてもそこまでやることはなかったのではないかなど、酒も入っているせいで生意気なことも言ってしまっていたが、終始和やかに楽しい宴であった。
気付けば朝陽は店内を鮮やかに照らし、グラスの中身を黄金色に染め上げギラギラと光っていた。もう野良猫もカラスもいない。
大阪へ引っ越してきてから一年が経ち、芸人としても着実に成長し、充実した日々を過ごしていた。結果も少なからず出始めてきており、夢に向かって頑張れていた。桜庭ももちろん舞台を観に来てくれ、応援してくれていた。一方、仕事では真剣に物事を教えてくれ、社会人としての仕事への向き合い方、お金を稼ぐことの愉しさ苦しさを、仕事を通して教えてくれた。
ある時の事。私は厨房のみで仕事をしていたのだが突然、ホール(=接客)をやった方がいいと桜庭に提案された。私は面接の時から厨房が希望で入ってきていた。接客が好きではなかったのである。実は根暗で人と接することが苦手で、何よりも仕事で「店員」を演じるのがひどく恥ずかしかったのである。むしろ恐怖だった。しかし、桜庭をはじめ、周りのスタッフも「芸人だから接客は上手いだろう」となってしまうのはごく自然な流れであり、悪意もないのであるが、こうなることを恐れていた。例えば、コントとして舞台上で演じることは苦も無くできるのだが、仕事として常に周りから見られている中で、長時間演じる事への羞恥心がどうしても抜けなかった。
しかし、ここで出来ないと断ることの方がもっと恥ずかしい事であり、何よりそれを期待されているのであれば、挑戦することで違う世界が見えてくるかもしれないと思い、表面上は快諾した。
最初の一ヶ月は勝手がわからず、自分よりも後から入ってきたスタッフに一から教えてもらい、何とかやっていた。手の震えを隠しながら仕事をしていた。今思えば何がそんなに恥ずかしく怖かったのかわからない。恥ずかしがり屋の目立ちたがり屋で天邪鬼な性格だが、よくこれで芸人を目指していたと思う。
しかし、このホールへの“異動”により、自分の狙い通り、更に人として成長することが出来た。何よりも売上を左右するのはホールの方で、厨房の仕事しかしらなかった自分は、井の中の蛙であった。芸人の世界も充実していたが、振り返るとこの頃から居酒屋での仕事にのめり込んでいたと思う。
桜庭がスタッフと一緒に舞台を観に来てくれた日は必ず反省会と称して飲み会が開催された。相方の秋原もネタの感想を聞く為に毎回参加した。そこでの桜庭との会話も実のある話ばかりだった。
「俺さ、寿司職人で板長やってた時、営業前に必ずトイレにこもって震えてたんだよね。毎日手のひらに「人」って書いて飲みこんでから営業に向かってたんだよ。カウンター越しにお客様と会話しないといけないじゃん?自分の腕には自信あったから、味や技を見られることに関しては何も問題なかったんだけど、会話に関しては最後まで自信持てなくてさ。得意になれなかったな」
初めて桜庭の弱点を見た。後にも先にもこのエピソードだけであったが、何にでも自信満々で他を寄せ付けない圧倒的な存在感が私の中ではあった為、意外であった。それは新鮮な響きで私の耳に入ってきた。
「会話するにはまず会話のきっかけを見つけないといけないし、こっちが喋り過ぎると不快に思わせてしまう。相手の話を聞くこと、聞き出すこと、話しやすい雰囲気を演出することが重要で、その為には話し始めるタイミングとか引くタイミングとか、話してほしいのか話してほしくないのか、お客様の一挙手一投足にアンテナを張っておかないといけない。それもカウンター十人のお客様全員にね。会話のネタを探す為に、新聞も毎日読んだし、どんな職種の方とも話せるように勉強した。でも、インプットは出来るんだけどアウトプットするのが中々出来なくてさ。毎日がプレッシャーだったよ。だからこそ、テレビで見る芸人さんの受け答えややり取りを見てると凄いなって思うんだよ。頭の回転早くないと出来ないよ。それを職業にしてしまうなんて俺からすると考えられないよね。俺にもその能力があればなぁ……」
桜庭の芸人に対するリスペクトは自身の経験からきていた。彼のその経験からくるエピソードにははっきりと熱がこもっていて、芸人を目指している自分の胸を打った。会話というものに対してそこまで深く考えたこともなかったし、何よりも言葉のセンスや一瞬で返せる瞬発力、ネタの構成力等々が大事だと思っていたので、この話は新鮮だった。仕事としてのシチュエーションは違うが、芸人として食べていく為の会話のプロとしての志において共通するものがあった。同時に芸人とは対照的な職業と思われる寿司職人(職人とは寡黙なイメージがあったからだ)の世界において必要なスキルであったことも新鮮な発見であった。
桜庭は上手く話せるようになる為にお笑い番組をよく見て勉強していたらしい。お笑い番組や芸人に関しても詳しかった。私たちコンビのネタに関しても良くダメ出しをしてくれた。セリフに棒読み感が出てるとか、会話が自然に見えないとか、まずはネタの中身というよりは自分達の振舞い方を指摘してくれることが多かった。桜庭は寿司職人の経験から、人を観察することに関して鋭い感覚を持っていたに違いない。
それから半年が過ぎた。当時の店長が中々の問題児で、人に優しくない、スタッフから人気のない店長であった。どうやら私がホールに異動させられた背景には、この店長とスタッフの緩衝材になってほしいという狙いも込められていたらしい。実際、ホールでの業務にも慣れ、余裕が出来ていた頃には、その店長とも表面上は上手くやれていた。
その水面下ではどうやらこの店長を異動させる計画が進んでいたらしく、そして更に半年後、なんと桜庭が店長になった。
この時の率直な感想を言うと、桜庭に関しては厨房での仕事ぶりしか見ていなかったので、「店長」という想像が出来なかった。寿司職人時代の会話に苦労したというエピソードも聞いていたので尚更、ホールに出て接客している桜庭の姿を想像することが出来なかった。しかし、同時にやる気が出たのは確かである。
桜庭が店長になり、まず変わったことはスタッフ全員に役割を与えたことである。スタッフの性格から適正を見てポジションを与え、スタッフのやる気を引き出した。スタッフはそのポジションでスペシャリストになることに目標を持った。その中で複数のポジションを出来るスタッフは各ポジションの気持ちが分かり、店を円滑に進めることが出来る人材に育つ。最終的には店内の指示系統をアルバイトが担い、店長がいなくてもスムーズに営業を行うことが出来るチームになったのである。さすがに、職人を辞めてマネジメントを学んできただけのことはあり、そこでもまた、完璧な店長像を見せつけられ、尊敬の念を抱いた。
桜庭はスタッフともよく飲みに行った。仕事の話をすることもあったが、やはり労いの意味も込めてもあったのだろう。コミュニケーションを取る機会を多く作ってくれた。
それまではほとんど開催していなかったスタッフミーティングも毎月開催され、スタッフ同士の意見交換が活発に行われ、チームの意識が上がり、アルバイトがアルバイトを指導する環境になっていった。まさしくチームになった。
そうなると売上も右肩上がりに上昇し、社内でも表彰される模範店としての地位を確立し、アルバイト達の給料も上がり、それによりまた頑張れるという好循環が生まれ、私もやりがいしかなかった。
しかし、一点だけ気掛かりなこともあった。桜庭は、最初に出会った頃の鬼軍曹の顔を覗かせるのである。それは頻繁に顔を見せ、みんなの前で怒鳴り散らすこともしばしば見受けられ、恐怖によりチームが動かされていた面もあった。それをフォローする側に私は回りながら、桜庭が休みの時は自分が鬼軍曹になることもあった。あれだけ疎ましく思っていた桜庭の姿に自分もなっていたのだ。チームの運営方法を見様見真似でやってきた自分にとって教科書がそれだったせいもあるとは思うが、リーダーは嫌われる勇気も必要とか自分の中で言い訳をし、同じマネジメント方法を取っていたのだ。当然、緩んだ空気をピリッとさせる時には必要なのだが、それをメインにすることは違うと、自分の中では考えていた。しかし、桜庭のその姿を見ているとどうにも本心から征服してやろうという狂気じみた雰囲気が感じられた。最初に会った時の印象は色濃く脳裏に焼き付いて離れなかった。そして、あの鬼のような顔をしている目の奥には何かを憂いている厭世的な雰囲気をいつも感じた。どちらかというとこの雰囲気の方が気になっていた。
それから二年後、梅雨も明け、本格的に夏が来ようとしていた頃、桜庭の異動が決まった。その頃には全盛期の売上から徐々に勢いをなくしていた時期ではあったが、チームは新陳代謝を繰り返しながら成熟していた。
次にやってきた田島という店長は桜庭より七歳若く、精悍な顔つきで、さわやかな印象の勢いのある店長であった。田島は桜庭が大阪に来てからの一番弟子のような存在で、非常に可愛がられており、田島もまた慕っていた。その点では私も意気投合し、仕事に対する考え方は一致していた。
しかし、最初の半年程は桜庭が築き上げてきたスタイルに田島もなかなか合わせることが出来ず、また、既存のスタッフも桜庭のスタイルで育ってきている為、上手くいかなかった。店長は田島であるのにも関わらず、田島を通さずスタッフだけで問題解決し、進んでいく傾向にあった為、私は田島とスタッフのパイプ役となり日々営業していたつもりではあったが、かなりぎくしゃくしていた。今考えるとそうは言いながら私にもプライドがあったのだろう。とにかく最初は田島も働きづらかったはずである。
島村とはよく議論を交わした。仕事の話はもちろん、時事問題や政治の話、自分の価値観や死生観についてなど様々なことが議論の対象になった。桜庭の事については二人とも熱くなり、「あんなに凄い人はいない」という結論で最終的には落ち着く。私たち二人は尊敬していたが、不思議なことにそれ以外の社員には人気がなかった。
その背景にはいろんな理由があるのだろう。一つ思い当たる節があるとすれば、頻繁に見せる鬼軍曹の顔が原因だと思う。昔はそれでよかったかもしれない。特に職人の世界で育ってきている桜庭からすると、染みついたであろうその環境の呪縛から抜け切れていないのだろう。本人もそれに気付いてはいると思うが、感情を抑えることが出来ていない場面はよく見てしまう。
人は完璧ではないし、そういう欠点も含めてパーソナリティである。田島と私はこの欠点以上に桜庭がスタッフに与えているものはとてつもなく大きいものであることを理解している。その欠点だけを切り取って他の良いところを見ようとしない態度は、物事の本質を捉えようとしていないという風に私たちからは見えてしまう。なぜ桜庭の素晴らしさを周りは理解できないのだろう。
桜庭から多大なる影響を受けてきた二人だが、私は田島からも影響をたくさん受けた。彼は接客面においてスペシャリストであった。桜庭と徹底的に違うところはお客様との距離が近かったのである。会話の上手さというよりは相手の懐に入っていくのが抜群に上手かった。回転重視の店だった為、二時間制でお客様を入れ替えなければいけないので、接客に時間を満足に取れないのが田島にとっては苦痛であったようだが、それを言い訳にすることなく接客能力を上げることでリピーターを作り、更に安定した売上をたたき出すことが出来るようにチャレンジしていた。結果は桜庭の頃の売上を超えることは出来なかったが、このチャレンジにより桜庭の時代とはまた違ったやり方で、私は苦手だった接客の引き出しが増え、刺激を与えてもらったことでモチベーションを保つことができ、愉しさを忘れることはなかった。何よりも田島には「嘘」がなかった。何か問題が起きてもその場でその日に話し合って解決していた。何に対しても逃げることがなかった。田島と働いた三年間は輝かしい思い出として残っている。
この頃、実はお笑い芸人としてはうまくいかない日々が続いていた。三年間組んでいたコンビも解散していた。それまでは結果もそこそこ付いてきて充実していたのだが、お互いの今後のビジョンの違いで、秋原は東京で活動したいと考えていたらしく、私は大阪で活動したかった為に解散となり、秋原は東京へ引っ越した。当時は素直になれず、お互いの我を押し通して気持ちを理解することを放棄していた。
この時、久し振りに桜庭と飲みに行くことになり、解散の事実を告げた。今後のビジョンの相違から喧嘩になり、分かり合えないままこういう結果になってしまったことを話した。後悔しているならもう一回納得するまで話し合ってみた方が今後の為にもいいと桜庭は進言してくれたが、気が進まなかった。しかし、桜庭は何度も何度も再度話すべきだと執拗に言ってきたので、明日話してみると約束し、その場をやり過ごした。別れ際に桜庭が何か言ってくれたが、周りの騒音が大きく、はっきりと聞こえなかった。多分、慰めの言葉だろうと思い、ありがとうございますとだけ答えておいた。翌日、相方には連絡しなかった。
この時に解散せず、コンビを続けていたら違う未来が待っていただろう。今ではこの時の決断をやはり後悔している。
それからピン芸人の期間が長く続いた。一人になるとやはり甘えが生じ、お笑いの事から逃げるように居酒屋での仕事に没頭していた。仕事が愉しかったのは確かではあるが、現実逃避していたところもあった。
その後は新たなコンビを組んでは解散するという事を繰り返していた。
社員になろうと決めたのは田島と三年働いたある日の事である。それまでにも何度となく社員にならないかという誘いはずっともらっていた。社員として自分が求められていることに関しては純粋に嬉しかった。そう言われるということは認められている証拠だと思っていたからだ。しかし、自分の夢はお笑い芸人であった。
芸人を目指して最初の三年目までは紆余曲折ありながらも手応えもあり、充実した毎日を送っていた。しかし、相方と考え方の違いから解散して以降は、違う相方とコンビを六回も組み直し、どのコンビでも息が合わず数ヶ月で解散を繰り返していた。ピン芸人として活動し、面白い事をアピールしながら有望な相方を探そうと頑張ってはいたが、全然ウケる事もなくどんどん自信を失くしていった。もう芸人として気持ちが折れかけていたところに、社員にならないかという言葉は、今までのそれとは違う響きを持って私の心に入ってきた。
ずっと思っていたことがあった。芸人を辞めてここで社員になることが甘えではないのかと。就職活動を今更始めるのが面倒くさいだけではないのかと。新たな業種、職場に飛び込むのが怖いだけじゃないかと。逃げているだけじゃないかと。
こう思っているうちは社員になるべきではないと思っていた。ところが、こう思わなくなった出来事があった。それは、芸人にとって一年に一回の大きな大会がその年で終わりを告げた事である。この大会の為に毎年頑張ってきた自負があり、それはお笑いブームが終わった瞬間でもあった。自分の心の火が消えたのがわかった。
ここで社員になるのは甘えではないかという思いだけは引っ掛かっていたが、この点に関してある方法で払拭することにした。大阪ではなく、東京の店舗で働くことに決めたのだ。大阪で馴染みの人と一緒に働くよりも、誰も知らない土地で自分がこの世界でどこまで通用するのかを試してみたかった。そして東京で店長になり結果を残してから、大阪に戻り、田島と桜庭とまた一緒に働きたいという新たな夢を持った。この尊敬できる二人のいる会社で就職したいと思ったのである。
東京に行きたかった理由はもう一つあった。相方だった秋原が東京で芸人を続けているかもしれないと考えたからだ。あの一件がなければ東京という場所にそこまでの思いはなかったと思う。解散してから一度も連絡は取っていないが、解散を選んでまで秋原がこだわった東京という場所で、新たなスタートを切ってみたかった。
私が社員になることに決めた一年程前に桜庭は故郷である千葉の店舗に異動していた。
前々から話には聞いていたのだが、母親の体調が思わしくなく、桜庭が面倒を見る為に実家に戻ったのだ。ふとその時は末っ子の桜庭が何故帰らなければいけないのだろうと考えたが、何か特別な事情でもあるのだろうと思い、考える事を止めた。他人の家庭環境に足を踏み入れるべきではないと思った。
桜庭と同じ店舗で働かなくなって三年半が過ぎていたが、その間、連絡は定期的には取り合い、飲みにも行っていた。しかし、ちょっといつもより連絡する期間が空くと、途端にこちらから連絡するきっかけを失ってしまい、だんだんと連絡を取る回数も減ってきていた。向こうも同じだったと思っている。何げなく連絡をすればいいものの、そんな状態が続き、社員になることを決めた時には連絡を取らない期間が一年以上続いていた。
社員にならないかという誘いは桜庭からも受けていた。それはちょっと回りくどい言い方でというか、彼らしい言い方で「青山が社員になればめっちゃいい社員になるんだろうな」とか「青山ならすぐに店長になれるよ」という表現で伝えてきた。しかも、何気ない会話の途中でそれを挟んできた。それが私には意外と効いていて術中に嵌ったというか、限りなく本音に聞こえてしまったのである。今考えれば、桜庭が直接的な表現で伝えて来なかったのはお笑い芸人を目指している私の夢を壊してはいけないという思いがそうさせていたのかもしれない。私の夢を応援していてくれていたから。でも、芸人でうまくいっていない私の姿を知っていて色んな感情が入り混じりながらの発言であったのだろう。
社員になることを決めたというこの覚悟と気持ちを直接こちらから伝えないといけないと考えていた。しかし、中々連絡するきっかけをつかめない。こんなに伝えなければならない話と気持ちがあったのに、遂にこちらから連絡することが出来なかった。
ある日田島が言った。「桜庭さんに社員になるてまだ言うてへんかったんやな。てっきりもう話してるもんやと思て昨日、電話してた時に言うてもうたわ。めちゃめちゃ嬉しそうにしてはったで」
情けなかった。自分がモヤモヤしている間に田島経由で伝わってしまっていた。よく考えれば当然の結果だ。私たち三人にとってこんなに良いニュースはないのだから。桜庭はきっと喜んでくれると思っていた。すぐに話さないわけがないと田島が思うのはごく自然な流れだ。しかし、自分の口から直接言いたかった。直接に緊張感と決心と覚悟と感謝を言葉でしっかり伝えなければいけなかった。そうするべき相手であるのに。出来なかった自分が情けなかった。それは桜庭も同じだったと思う。自分が桜庭ならそう思う。
すぐに、桜庭に電話した。コールは鳴るが中々出なかった。諦めて掛け直そうと思って切ろうとした七コール目ぐらいに桜庭は電話に出てくれた。
「あーもしもし」
「桜庭さん、お久しぶりです」
「久しぶりだねー元気だった?」
「めちゃめちゃ元気ですよ」
「そう?なんか声に元気ないじゃん」
元気がないわけではなかった。ただ、緊張はしていた。久しぶりに直接話したというのはもちろんあったが、それ以上に、大事な話を報告しなければならない緊張感と、直接最初に伝えられなかったことに対する罪悪感からくるものである。
「こっちはさーなかなかチーム作りが大変でさ。思い通りにいかなくて苦悩の日々だよ」
「えー。そうなんですか。桜庭さんでも思い悩むことあるんですね」
「どういう意味だよ!俺だって人間だぜ?苦悩する事だってたくさんあるよ」
桜庭は私の不躾な言い回しにも笑いながら応えてくれた。たわいもない会話を五分ほど続けたところで、話したいことはたくさんあったが、長くなる前に本題に入る決心をした。
「ところで桜庭さん、今日お電話したのは大事なお話がありまして」
「何?急に改まっちゃって」
「あの、実は今年の四月から社員になることに決めまして」
一瞬の間が合った。緊張で早口になって聞き取れなかったのか?不安が頭をよぎる中、
「おめでとう。よく決心したね」
「有難うございます」
「田島から聞いてたよ」
私はその時よくわからない感情になった。おめでとうと言ってもらえた安堵感。芸人の夢を一番応援してくれていた人からの「よく決心したね」という挫折への肯定的な捉え方、そして他人から聞いてしまったという寂しさのようなものが言葉の端々から伝わり、それは津波のように私を飲み込んでいった。
「そうだったんですね」
田島に先に報告されたことを知らなかったように、咄嗟に嘘を付いてしまった。自分の弱さが出てしまった
「でも、お世話になった桜庭さんに直接伝えたいと思っていたので電話しました」
「そんなに気を遣ってくれなくても良かったのに。わざわざありがとう」
それから、東京の店舗で働くことを非常に喜んでくれ、大阪よりも近いからまた会おうと言ってくれた。その時はやけに嬉しそうで、順番はまちがってしまったが、直接報告してよかったと思った。
そして、四月から社員として東京で働くことになった。
一年の中でこの季節が一番好きだ。冬の間に蓄えたパワーを一気に爆発させ、短期間で散っていく桜の潔さに美しさを感じるからだ。
上京した初日のことはよく覚えている。その頃の東京にはあのギラギラしたパワーとエネルギーがなくなっていたからだ。東日本大震災の直後だったのである。そんな中でも桜の美しさは東京でも変わらず潔かった。こんな状況だからこそ更に頑張ろうと思えた。
社員として上京し、自分の力を試したかった私は、とにかく一所懸命に仕事と向き合った。一年以内に店長になるという目標を自分の中で掲げ、周りにも一年以内に店長になると公言し、退路を断った。桜庭から学んだ仕事に向き合う姿勢とストイックさを武器に。自分が結果を出すことで喜んでくれる人がいると思うとそれが原動力になった。
一ヶ月が経ったある日、桜庭から電話がかかってきた。
「もしもし元気?」
「元気ですよ。社員になってみて大変さがよくわかります」
「へ~そうなんだ。青山なら大丈夫だよ。すぐに慣れるよ」
「桜庭さんの凄さも改めて感じます」
「ははは。そんなことないよ。そんなことよりさ」
桜庭は自分の話になると決まって話をそらす。照れ隠しなのだろう。
「来月大阪に行く時、俺の車で一緒に行かない?」
翌月に大阪で、以前の仲が良かったスタッフ達と飲み会を開くことが決まっていた。その会に桜庭と私も呼ばれていたのだ。
「ありがとうございます。でも、その前日に実家に帰らないといけないので先に新幹線で帰ります。折角のお誘いを申し訳ありません」
実は前日に実家に帰るというのは嘘だった。咄嗟に嘘をついて断ってしまった。桜庭の事は尊敬しているし、誘ってもらうのは光栄なことなのだが、東京―大阪間を車で移動となると七、八時間はかかる。その車中で会話が続くのか、寝るのも失礼に当たるとか、気を使いっぱなしになるのが耐えられないと思ってしまったのだ。社員になってから、更に桜庭の存在は畏れ多いものになっていた。今考えればもっと気楽に考えすぎずに色んないい話が聞けると思って臨めば良かったのだが、その電話で瞬間的に断ってしまった。この事は今でも後悔している。桜庭が誘ってきてくれたのには何か深い意味があったはずなのだ。何か話したいことがあったかもしれない。その長時間の車中で社員になった私に向き合おうとしてくれていたのかもしれない。それを拒絶してしまった。その後の電話での会話はあまり覚えていない。ただ一つだけ、元気がなかったような印象だけ覚えている。
その日はもう初夏だというのに肌寒く、天気は良かったが、窓の外が明るくなったり暗くなったりを頻繁に繰り返す雲の多い日だった。
起きた時から高揚していた。大阪に帰るのはたったの一ヶ月振りなのだが、物凄く長い間帰っていないような感覚で、嬉しさを押し殺しながら新幹線に乗った。富士山辺りに差し掛かると窓をのぞき込む。幸い、自分の窓側に富士山は現れ、雲が所々に掛かっており全体像は見え辛かったが、雄大さと日本人が心のよりどころとしてきた神秘性は、雲によって更に演出されている感じがあった。ここを越えると心は落ち着き、逆に東京に向かう時は心がざわつき始めた。京都を通り過ぎる辺りからは見慣れた景色が私を歓迎してくれているように感じた。
大阪に着いて道頓堀のグリコの看板を前にした時は、一ヶ月しか経っていないのに「全然変わってないな」とか心の中で話し掛けながら「お前も全然変わってないやんけ」と突っ込まれているようで安心した。
飲み会という名の同窓会は働いていた店で開催されることになっていたので、久し振りに店で働くことにした。田島も歓迎してくれ、社員として働いてみたこの店は、大阪の街並みとは違い変わっていた。自分が社員としてのフィルターを通して見ていたからかもしれないが、景色が違って見えた。スタッフも変わっていたのもあるが、店のシステムも変わっていた。こうしてどんどん変化していく。頼もしくもあり、寂しさもあった。大阪に着いて何も変わってない事に安心していたのに、自分に身近な存在が変わっていることに直面し、自分も変わらないといけないと思った。今日見た大阪の街も気付かなかっただけで変わっているはずであり、変わることは成長することだ。何も恐れることはない。
働いていると桜庭が早めに到着した。私が働いていることに驚いていたが、久しぶりと軽く挨拶し、違う席で他のメンバーと先に飲み始めていた。途中で営業を抜けてその席に合流しても良かったのだが、何か気恥ずかしく行くことが出来なかった。
店の営業も終わり、懐かしの顔ぶれも揃い盛大に飲み会が始まった。思い出話に花が咲き、顔も知らなかった現在のスタッフ達とも打ち解け、楽しく盛り上がっていた。会も終わりに近づいた頃にやっと桜庭と話した。話したいことは山ほどあったのだが、中々真剣に話す雰囲気にもならず、たわいもない昔話のようなことを、数人を挟んで会話をしたぐらいである。
そして後日、田島から聞いたのだが、会も終わりを迎え、みんなで片づけをしている間に桜庭は帰っていた。知らぬ間に帰っていて私も田島も気付かなかった。まるで存在感を消すかのように誰にも挨拶せず帰ったのであった。今思えばその時も元気がなかった気がする。
桜庭と最後に会ったのはその二か月後の七月後半で本社であった。
その時、私は向上心の塊で、最速で店長を目指したく本社までセミナーを受けに来ていた。桜庭はエリアマネージャーの為、頻繁に本社には訪れていた。前日に桜庭とは連絡を取り本社で顔を合わせた。その時の桜庭は私が知っている頃の店長だった桜庭ではなく、明らかに自信なさげで、弱弱しく見えた。その時はそんなにエリアマネージャーという仕事は激務なのかと思っていた。何があったのか聞きたいところではあったが、聞いても弱みを見せない桜庭の事なので聞かなかった。
「そういや、この間楽しかったね」
「楽しかったですね。桜庭さんとはあんまり話せなかったですけど」
「そういやそうだね」
「桜庭さん知らない間にいなくなってましたよね?いつ帰ったんですか?」
「いや、覚えてないんだよね。俺もいつの間にかホテルで寝てたよ」
「そんなに飲んでましたっけ?」
「飲んでたかな?その日の事あんまり覚えてないんだよね……」
なんだか変だ。当時そんなに酔っていた様子はなかったし、桜庭には酔うと顔が赤くなる特徴があったので、酔ってない事はわかっていた。
「そろそろ俺行かなきゃ。また連絡するよ」
それが最後の会話であった。
その年の夏は猛烈な熱波が日本列島を襲い、記録的な猛暑だった。エアコンの黴臭さとベランダに留まったセミの鳴き声が延々とするその環境の中で、海水浴客がインタビューを受けている昼のニュースを、アイスキャンディをかじりながら見ていた。五感が全て夏を感じていた。
その日は休みで暑さにやられてぼーっとしていたら突然、田島から電話が鳴った。
「桜庭さんが亡くなった」
「え?嘘ですよね?」
何て言ったのかは言葉では理解したが頭が付いてこない。感情もない。しかし、田島がこんな嘘を付くわけがない。いや、でもあの桜庭さんが死ぬわけもない。一体何が起きた?
「俺も最初はそう思った。今も受け止められてない」
田島も動揺しているらしかった。その気丈に振舞う声が悲しさを倍増させる。
「事故か何かですか?」
「それが……自殺したらしい」
耳を疑った。何故だ。何があった?原因は?強さの象徴だったあなたが何故自らを殺める?それほどまでに苦しめたものは何だ?パニックだった。
この時の電話の情報では、連絡が取れなくなって四日が経ち、会社の会議にも来なかったことから、担当者が桜庭の母と千葉の家まで行ったところ、部屋の鍵が開いており中に入ってみると、居間で首を吊っていたという。現場には遺書も置いてあり、自殺で間違いないということであった。死後四日が経っていた。とりあえず、通夜、告別式の場所を聞き電話を切った。
翌日、通夜から参加したかったが、仕事に行った。仕事に穴を空ける事は桜庭が最も嫌っていたので、休むわけにはいかないと考えていた。田島達も明日の告別式に参列する予定だった。
しかし、仕事に行ったはいいが、手に付かない。少しでも止まる時間があれば思い出して涙が溢れそうになった。誰にも悟られない様に働いていたつもりが、店長にはバレてしまっていた。そのまま事情を話し、早退させてもらった。その足で喪服を購入し、新幹線で千葉に向かった。桜庭が怒っている顔が浮かんだ。
通夜の会場に着いた頃には二十二時を回っていて、ひっそりとしていた。恐る恐る会場のドアを開き、中に入ってみると、子供含めて十人ぐらいが悲しみにくれているというより、各々の役割が一段落し、疲れたような表情をしていた。子供三、四人は会場を走り回り無邪気で楽しそうであった。子供は普段会えない親戚同士が集まったりする時、家とは違う場所で集まる時、非日常を感じてワクワクするものである。それは不謹慎でも何でもなく、更に悲しみを増長させる。子供の無邪気さは残酷だ。
その中の白髪交じりの男性が私に気付き声を掛けてくれた。
「失礼ですがどなた様ですか?」
この男性はすぐに桜庭の兄だと分かった。顔がそっくりだったからだ。
「私、大阪で桜庭さんに生前、職場で大変お世話になった青山と申します」
「そうですか。わざわざ遠いところから弟の為に……」
「いえ、私は今東京に住んでおりまして……。この度は謹んでお悔やみ申し上げます」
「弟が大変お世話になりました。大阪に居た時が一番楽しかったと我々にはよく話してくれましたよ。あいつがその時の事を話す時、それはもう、本当に楽しそうに話してくれてね。自分の事をあまり話さない奴だったのに何回も聞かされてね。人生で一番楽しい時間だったって言ってましたよ」
もう涙が止まらなくなっていた。こんなにも涙を流したのは記憶にない。桜庭が大阪に居た時の事をそんな風に思ってくれていたのが心から嬉しかった。今も大阪に居ればこんな事にはならず、まだ生きていたのではないか。桜庭のいるべき場所はここではないのに。
気付くと周りに親族の方々が集まっていた。みんな口々にお礼を言ってくださり、大阪時代に出会った人達が弟の人生に光を当ててくれたと思っています。本当にありがとうと。
私は嗚咽を漏らしながら
「こちらがお礼を言わなければなりません。桜庭さんには本当にお世話になりました。目標とする憧れの存在です」
と声にならない声を振り絞り親族に伝えた。すると桜庭の母親であろう方が
「あのどうしようもなかった息子が他人様のお役に立てたなんて、あなたの存在こそが息子の生きていた証です。どうもありがとう」
桜庭の遺影は大阪時代の自信に満ち溢れた鋭い眼差しで、凛々しい顔つきでこちらを見ていた。それを見ると、これは現実なのだという実感が急に湧いてきた。それまでは心のどこかで嘘だといいのにと現実逃避を繰り返していた。
その日は一晩中泣いた。その代わり明日の告別式では泣かないと決めた。
翌日の告別式には大阪から田島を含め十五人ぐらいが駆け付けた。数年振りに会う仲間の中に、秋原がいた。どこから聞きつけて来たのか知らないが、このような形で再会するとは思わなかった。いや、桜庭が会わせてくれたのかもしれない。
告別式はしめやかに行われた。参列者の数は少なく、大阪からの参列者が最も多かった。桜庭が、大阪時代が最も楽しかったと言ってくれていたのは本当だったと確信した。
告別式後、少し時間を取り秋原と話すことにした。
「何年振りや?」
「四年振りぐらいか」
「解散してからもうそんななるか」
「あれから四回ぐらいコンビ組み直したりしたけど、全然あかんかったわ」
「そうらしいな。噂には聞いてたで」
「噂になるようなたいそうなことちゃうけどな」
「まあな。そやけど俺の耳には入ってきよったんや」
「俺もう芸人辞めてバイトしてた居酒屋に就職したんや」
「それも知ってる」
秋原とは解散後、一度も連絡を取っていなかった。
「なんで知ってんねん。ストーカーか」
「ちゃうわあほ。桜庭さんから聞いとったんや」
「え?」
「いや、実は桜庭さんとは一年に二、三回ぐらい連絡取ってたんや。というか一方的に向こうからやけどな」
驚いた。桜庭と秋原が繋がっているとは思いもしなかったからだ。
「桜庭さん、お前のことずっと心配しよったで。秋原君とコンビの時が一番輝いてたて」
「……」
「なんで解散したんやって」
「……」
「冗談抜きで俺が見てきた芸人の漫才の中で一番おもろかったって」
「ちょっと…ごめん。トイレ行ってくる」
昨日流し切ったはずの涙がとめどなく溢れてくるのを我慢できず、一旦その場から離れた。感情の爆発が抑えられなかった。そうだ、解散した時そんなこと一言も言ってなかったではないか。よく決心したねって言ってくれたではないか。あの時何で面白かったと、解散するのはもったいないとはっきり言ってくれなかったのか。嬉しさと悔しさが込み上げた。溢れる涙をこらえ、顔を洗って、秋原に全てを聞く前に、覚悟を決めてトイレを出た。
「長かったな。こんな時に催すなんて図太い神経しとんな」
「いや、。急に催したと思ったらおならで勘違いやったわ」
秋原は私が泣いていたのは分かっていたが敢えて笑いに変えてくれた。
「そやけど、ずるいわ桜庭さん。死んでから言われてももう遅いって」
「いや、言うたって言ってたで。もしかしたら伝わってないかもとは桜庭さんも言うてたけど」
その時急に思い出した。解散を桜庭に伝えた時、最後に何か言っていた。しかし、周りが騒がしく聞き取れなかった。その時は聞き直すのも悪いと思って適当に返事だけしていた。もしかするとその時のことだったのかもしれない。
「まあそれから何回かコンビ復活して欲しいって頼まれたんやけど、俺のわがままで東京行った手前、俺からコンビ復活するなんてことはまずないですって断ってて。俺らの中ではコンビ解散は十分話し合って納得した上でのことなんで…って言ったら「俺は納得してない!」って始まって。なかなかめんどくさかったけどな」
「そんな事があったんか」
「あとは、お前がどんなコンビ組んだとか、トリオ組んだとか、ピン芸人になったとか随時報告は受けてたよ。最後までどうにか俺らを復活させようとあれこれ言ってきたけど」
「じゃあ全部知ってたんやな」
「別にこっちから聞いたわけじゃないで。向こうから一方的にやで」
「そうか……」
「最後に連絡あったんは今年の三月ぐらいやわ。お前が芸人辞めて今の会社に就職するって報告受けた。実は物凄く複雑やって言うてたで」
「複雑?なんで?」
「お前には芸人を続けてほしかったって。うちの会社に入社することはめっちゃ嬉しいと。ただ、芸人の夢を諦めて欲しくもない。大阪に来て初めて生で俺らの漫才を見た時の感動とお前の輝いてた目が忘れられへんって。あの目が自然と出る場所で人生輝かせてほしいって思ってたって。会社にとってはいい人材やし社員になって一緒に働けたらなっていう思いもあったけど、アルバイトで働いてる時にあの目の輝きは見たことなかったって。だから、入社するって聞いた時は複雑やったって。もう二人の漫才は見られへんのやなって」
確かにあの時は芸人として希望に満ち溢れていた。漫才をするのが楽しかったし、自分がやりたい笑いと秋原の笑いが同じベクトルを向いていたしウケてもウケなくても充実していた。相方はこいつしかいないと思っていた。もし解散するようなことがあれば芸人は辞めようと考えていた。それがコンビとして三年、活動を続けた時に起きた。秋原が突然東京で活動したいと言い出した。一緒に東京に来てほしいとも言われた。しかし、その時の私には「東京」という選択肢はなく、「笑いのセンスは大阪の方が磨かれるはずやし、基礎も実力もないのに東京行って何ができんねん」という私と「東京の方が舞台も多く、チャンスも多い。オーディションの数も多いし一回引っ掛かったら全国で放送されるし東京で活動する方が近道やて」という秋原とで口論になった。そして両者譲らず分かり合えないまま「俺は一人でも東京に行く。今日で解散しよ」と言い秋原は去っていった。それ以来、今日まで連絡も取らなかった。桜庭にはビジョンの違いで、喧嘩して解散したとだけ伝えていた。まさか、秋原と連絡を取っていたなど思いもしなかった。そして、このコンビをそんな風に見てくれていたなんて……なんでもっと色んな話をしておかなかったのだろう。解散してなければ桜庭はこんなことにならなかったかもしれない……!
「お前さっき、死んでから言われても遅いねんって言うてたけど、おもろかったから解散すんなって言われてたらどうしてたん?」
「それは……」
一瞬考えた。あの時もっと話し合っていればとか、分かり合えた部分があったかもしれないとか後悔していた。このまま解散する事が正しいのか。こいつと解散したら芸人辞めるとまで考えていたのにこれでいいのか?この程度だったのか?このような気持ちに蓋をしていた。この時、桜庭にはっきりと背中を押されていたら東京まで行って解散はしなかったかもしれない。何故、桜庭に解散を報告した時、最後に言ってくれたという一言をもう一度聞き直さなかったのだろう。
「どうもしてないよ。そら直接聞いてたらもっと嬉しかったやろなっていうぐらいで」
「そうか。まあそやろな」
話をややこしくしない為にも本心は隠しておいた。人生にタラレバを言ったって仕方がない。その時に行動しなかったのだから、こうなるべくしてこうなったのだ。桜庭さんに言われていたら解散しなかったとか、他人の言動に左右されている段階で芯がブレているのであって、今更どうこう言う事ではないと自分に言い聞かせた。
「そっちは今も芸人頑張ってんの?」
「あれ?桜庭さんからはやっぱり何も聞いてないんか」
「何も聞いてない。二人が連絡取ってた事すら初耳やし」
「まだ芸人続けてるよ。小さい仕事ももらえるようになって」
「おお、凄いやん。芸人で食べてるんや」
「いや、実はお前の会社の東京の店舗でアルバイトしてる」
「は?お前も働いてるんか!?」
「うん。桜庭さんに口利いてもらってバイトしてる」
「はよ言わんかいそれ!」
「いや、桜庭さん言うてくれてると思ってたから。こっちからはお前に連絡もしにくかったしやな」
「まあな……」
「そういや、何回かライブも見に来てくれたで」
「そうなんか。応援してくれてたんやな」
「まあそれだけやないよ。最後まで俺らの復活を願って連絡だけは繋げとこうと思ってたんやと思うで」
「そうなんか」
「それをこんな形で引き合わせてしまうなんて強引な人やで。ほんまに」
秋原なりの解釈で、桜庭の死を受け入れようとしていたのが分かった。結果は確かに、再度桜庭が私たちを引き合わせてくれたのだ。しかし、私には桜庭の死を解釈することは到底出来なかった。お互いに最後まで肝心なことを話せてなかったと考えていた。もしかしたら、大阪まで車で帰ろうと誘ってくれたのは、この話をしたかったのかもしれないと思った。
秋原とは近々桜庭のお墓参りに行こうと約束し、別れた。
冒頭の桜庭の遺書を見たのは告別式の数日後のことだった。
仕事中に当時の上司に呼び出され、携帯のメールの文面で見せられた。ごく一部の人間にだけ公開されたものらしかった。
しかし、この遺書とは別に数枚の遺書のようなものが現場には散らばっていたらしく、その内容は桜庭の人生を振り返ったものだったという。
自分の生涯を最後に振り返っておきたい。
小学生の頃、末っ子の私は色んな習い事をしていた。いや、させられていた。父も母も大変厳しく、他の兄弟とは違い、私には多くの習い事をさせた。水泳、空手、ピアノ、習字、絵画教室、体操とそれはもう毎日ハードワークで大変だった。今の私よりも忙しかったのではないかと思うぐらいであった。それでも、六年間やり切った。両親を失望させたくなかったからだ。自分が出来るようになれば褒めてくれ、大会やコンテストで結果を出せば喜んでくれ、家庭内の雰囲気も明るくなり、家族全員が笑顔になったからだ。自分の為というよりは家族の為に頑張っていたのかもしれない。
特に父親は厳しく、低学年の頃は一位じゃなくても褒めてくれたが、五年生になると二位でも許してくれなくなった。だから一所懸命に頑張った。おかげで今もたくさんの特技として自分のパーソナリティを形成してくれるものとなったが、その代償として人の顔色を異常な程に伺う悪い癖が出来上がってしまった。そして、その反動で中学生になった頃にはグレ始め、習い事も全て辞めてしまった。
父親もこの頃から段々と酒癖が悪くなり、あまり家に帰ってこなくなった。父親の期待を裏切ってしまったからだと思う。家庭内の不和を起こしてしまったのは自分のせいだ。
それに伴い、私の非行もエスカレートしてしまった。非行が父親に対する反抗になっていた。中学ではボクシング部に入った。喧嘩に強くなりたかったからだ。
それから喧嘩をしては学校や警察に呼ばれ、学校では煙たがられ、クラスメイトはもちろん、先生にも味方は一人もいなかった。唯一味方は母親だけだった。迷惑をかけた際には何度も何度も相手側に頭を下げてくれていた。気持ちは理解しようとしてくれていたが、当時の私の心に響く言葉はなかった。母親は一所懸命だったと思うが、口から出てくる言葉は教科書通りの先生が言いそうな言葉ばかりだった。私の心を動かす人間は周りに一人もいなかった。
高校には一応入ったが、ほとんど行かず、単車で学校に行ったのを見つかり退学になった。その頃には地元の暴走族に入り、そっちの世界の方が楽しかった。家庭や学校と違い、自分という人間を認めてくれる存在が周りにいたからだ。同じような境遇、考え方がその世界にはあり、居心地のいい環境だった。何よりも居場所があったのだ。世間のイメージでは暴力的、反社会的に見えるかもしれないが、一人一人はそんな人間ばかりではなく、寂しがり屋で表現が下手な不器用な奴の集まりである。伝え方と存在の証明をあのような形でしか表現できないだけである。しかし、そんな世界がこれを書いている今、この年にして恋しいのである。
今まで死にかけたことが三回ある。その度に不思議な「夢」を見てきた。その三つの夢はその時にしか見ることもなく、しかし強烈に頭の中に映像として残っているのである。
一回目は三歳の時。私は病弱だった。喘息持ちで心臓にも疾患があり、入退院を繰り返していた時期がある。ある時、風邪を引いただけだったのだが、そこから熱が出始め、中々熱が治まらずひどくなる一方で、喘息で息も苦しく肺炎にまでなり、意識不明で人工呼吸器に繋がれ三日間意識がなくなったことがあった。しかし、その時の記憶は三歳の時のことなので断片的にしか覚えていないのだが、不思議なことに意識不明中に見た夢は強烈に脳裏に焼き付き、今でもその光景を鮮明に思い出すことができる。それはクリスマスの夜で、家にはクリスマスツリーや華やかな装飾が施され、家族全員が笑顔で、テーブルには豪華な食事がたくさん並んでいて、とにかく楽しい夜だった。最後にはみんなで特大のケーキを食べ、テレビを見ながら笑っている。最高に幸せな夜。しかし、何故か思い出すだけで涙が出る。
二回目は中学一年生の時である。プールで突然全身がつった状態になり溺れて意識不明になった。目覚めた時は病院のベッドで半日経っていたらしい。その時も夢を見ていた。それはまたしても一家団欒のクリスマスの夜であった。あの時に見た楽しそうな家族の、笑いに包まれた幸せそうなクリスマスの夜。しかし、一つだけ違う点があった。その中に私が居ないのである。私は窓の外からその光景を見て泣いているのである。絶望と羞恥にあふれた涙を流しながら目を覚ました。後から聞くと意識不明中ずっと涙を流していたらしい。
三回目は十六歳で高校を退学させられた翌日のことである。バイクでパトカーに追い回され、ハンドル操作を失いガードレールに激突。内臓破裂と骨折の大怪我を負った。その時も二日間意識不明で生死の境を彷徨い、その時に夢を見た。街を歩いているのだが、誰もいないのである。店に入っても、交番に入っても、公園に行っても、学校に行っても誰もいない。不安になり家に帰ったら家が無くなって空き地になっている。その空き地には一枚の写真が落ちており、あの幸せそうなクリスマスの夜の家族全員の笑顔の写真なのである。しかし、その写真の中には私だけがいないのである。
一命を取り止め目を覚ますと、兄弟の何人かと母親が見つめていた。兄弟のその顔は夢の中で見た笑顔ではなく、蔑んだ目で見降ろしていた。母親だけは心配そうな顔をしていたが、「大丈夫かい?痛かっただろう?」と半ば事務的にも聞こえるよく聞くセリフを投げかけ続けた。きっとそれは、傍から見れば誰もが望むであろう言葉だったに違いない。しかし、私は孤独になった。この時、一人で生きていくと決めた。
一年の入院生活も終わり、十七歳の時に寿司職人の世界に飛び込んだ。一人で生きていく為には一刻も早く働き、家を出る必要があった。寿司職人を選んだのは学歴を問わなかったことと、住み込みで働かせてくれるという条件が揃っていたからだった。将来どうなりたいとか、寿司職人として生きていくとか、自分の握った寿司で人を感動させたいとかそんな大それた理由なんてなかった。しかし、どうせやるなら一人前になりたいと思ったので銀座の寿司店に飛び込んだ。
全くのど素人の私を大将は厳しく迎え入れてくれた。学歴も社会経験もない未成年の自分を「社会人とは」という所から全て教えてくれた。お金を稼ぐことの苦しさ、愉しさ。仕事に対する向き合い方、社会人としての振舞い方、身だしなみ、言葉使い。礼儀作法に至るまで全てを叩き込まれた。最初の三年間は掃除と洗い物のみの毎日で、朝の五時に出勤し、夜の十二時に退勤して住み込みの寮に帰り、疲れ果てて寝るだけの生活だった。
しかし、店前の掃き掃除一つにしても学んだことがある。それは二年目のことだった。掃除を終えて店内で拭き掃除をしていると大将に呼び出され、店前に戻った。見るとどこからか飛んできた落ち葉や紙くずが二、三枚落ちていた。その時に大将は「お前は掃除という仕事をなめているだろ?店の入り口は最初にお客様の目に入る場所だ。そこにゴミが落ちていたらどう思う?だらしない店だなと思うだろう?もうその時点で寿司の味も変わってくるんだよ。店の看板を傷付けているのと同じなんだよ。掃除の一つから店の品格は保たれていくんだ。いいか。仕事は目だぞ。それがわからないうちは、包丁は握らせねえ」
正直、一年も掃除と洗い物のみの毎日で、同じことの繰り返しに嫌気がさしていた。いつ包丁を握らせてもらえるのだろうとずっと思っていた。大将の言っていることは正しく、実際に掃除も手を抜いていた。しかし、この言葉があって、掃除の大切さはもちろん、仕事への向き合い方も変わることが出来、手を抜かなくなった。もちろん途中で逃げ出したくなることは何度もあったが、戻る場所は自分にはなかった。あの時の家族の態度や夢の事を思い出すと、一人で生きていくという覚悟が蘇り、逃げ出すことはなかった。
その仕事を三年間続けたある日、大将から呼び出され、大根の桂剥きとツマの切り方を教わった。階段を一つ上がったのだ。初めて包丁を握らせてもらえた瞬間の嬉しさと感動を今でも覚えている。そこから、寝る間も惜しんでひたすら練習を繰り返し、寮では自分で大根を買ってきて練習する毎日を一年間続け、ようやくお客様に出すことのできるレベルになった。初めてお客様の元に自分が切った刺身のツマが運ばれた時の感動は今も忘れない。しかも完食された器が帰ってきたときは涙が止まらなかった。「お前、いい目になってきたな」その時初めて大将に褒めてもらった。
五年目には仕込みを任されるようになり、六年目で魚の捌き方を教わり、七年目で大将の横で仕事をさせてもらえるようになった。横で大将の技を盗み、寮に帰っては復習し、店で実践し、生活のすべてを寿司職人になることに捧げた。八年目で寿司の握り方を教わり、九年目に大将の代わりに寿司を握らせてもらえるようになり、常連様にも認めてもらい、十年目でようやく他の兄弟子達を差し置いて板長にまで登りつめた。大将は裏で支えてくれた。
この時にももちろん嬉しくて感動したのだが、初めてツマを出し、完食されて帰ってきたあの日の感動ほどではなかった。
板長になった日からあるプレッシャーが襲い掛かってきた。お客様とのコミュニケーションである。私は話が上手い方ではなく、大将ほど知識も教養もなかったから、話すことに大変苦労した。最初は話し上手な兄弟子にフォローしてもらいながら何とかやっていた。ここで初めて自分に学がない事を恥じた。大人たちが若い時にもっと勉強しておけばよかったと言っていたことに、二十七歳にしてようやく気付いた。そこから次は寿司の事ではなく、知識量を増やす為に猛勉強を繰り返した。そして、色んなことを勉強しながら三年が経ったある日、気付いてしまうのである。職人という狭い世界にいては、これからの時代に取り残されてしまうという事を。寿司職人が悪いといっているわけではない。これを極めて自分の店を持つことも立派なことだ。しかし、これからの時代はこの経験を活かしてプレイヤーではなく、マネジメントの世界に目を向けることで視野が広がり、人間としても更に成長できると考えるようになったのだ。
この頃から、私は寿司屋の経営に口を出し始めていた。大将は高齢だったこともあり、古い考え方しか持っていないからと、私を信頼してくれて、全てを任せてくれていた。結果的には店の経営は傾き始め、三年後には閉店に追い込まれてしまった。大将は任せたのは自分だからと言い、私の責任ではないと庇ってくれたが。他の兄弟子たちは私を恨んだ。自分達が育った「家」を、働き場所を奪われたのだから当然だ。そして、逃げる様にして、今の会社に入社した。
人は私の事をストイックだという。この言葉には毎回、違和感を抱いていた。私は若い時に勉強をしていなかった分を取り戻そうと、周りに追い付くことに必死にもがいているだけであって、追い付くには人が寝ている時に勉強するしかないと思っていたから、当たり前のことであった。ストイックだとは考えたこともなかった。
しかし、ストイックと言われる原因が最近ようやくわかってきた。私は他人にも同じことを求めていたのだ。自分は他人よりも学のない馬鹿だと思っているので、私に出来て他人に出来ないはずがないと考えていた。それが原因で人が付いてこなかった。良かれと思って進言し、行動したことが全て裏目に出てしまうこの癖が今も治らない。
自分が頑張れば頑張るほど周りの人間を不幸にしている気がしていた。それは幼少期からそうであった。親の期待に応えようと習い事を一所懸命に頑張ったにもかかわらず家庭は不和になってしまった。何とか構ってもらいたくて不良になったことで、更に悪化してしまった。極めつけは私に社会人としての全てを叩き込んでくれた、銀座の寿司店を潰してしまった。私が頑張っても喜んでくれる人なんて誰もいない。そうか。頑張ってはいけない人生だったのだ。
一人で生きていくと決めたのはいいが、こんなことに気付いてしまった今、何の為に私は生きていけばいいのだろう。
答えが見つかるといいな…
桜庭の心の中を始めて覗いた。それは、私が知っている桜庭ではなかった。こんなに思い悩んでいる素振りなど一切見せなかった。彼は強い桜庭を私には演じていたのだろう。
気付かなかった。桜庭は孤独だったのだ。不器用な男で、無意識的に同じ思考を他人にも求めてしまうことで他人を傷つけてしまい、理解されなかった。それを本人も分かっていたのだろう。だから厳しい一面を見せた時に一瞬、暗い表情を見せていたのだと思う。
でも、私や田島は味方だったではないか。誰よりも尊敬し、慕っていたではないか。必要としている人間がここにいるではないか。少なくとも桜庭は、私を認めてくれる存在であり、私の生き方や物事の考え方に大きな影響を与えた存在である。「答えが見つかるといいな」とかすかな希望を抱いている内に、このことを言葉にして伝えておけば良かった。桜庭と出会えたことに感謝している気持ちを、言葉にして伝えておけば良かった。桜庭にとって大阪は心の拠りどころだったに違いない。大阪だけが桜庭を受け入れ、孤独を忘れさせた。そう思っている。
誰かが言った。人は生き物で唯一、自分の意志で自らの命を絶つ事が出来る最も尊い生き物であると。しかし、いつの時代もそうであるが、残された者はこの試練に対して真っ直ぐに向き合わなければならない。何故、気付いてあげられなかったのか。何故、あの時こうしてあげられなかったのか。何故、その時に電話できなかったのか……。行動に対して自責の念に駆られる。もっと話しておけばよかった。もっと連絡を取っておけばよかった。
こう考えても答えは出ない。分かってはいるが後悔の念が消えない。桜庭が、自分の人生に自死という形を選んだことを受け入れられない。孤独と戦いながらファイティングポーズを崩せなかったのは、どれだけ辛い戦いだったことだろう。全ての事は時間が解決するなんてあまりにも残酷である。
桜庭の死から九年が経つ。私は今もこの会社で仕事をしており、仕事を通して桜庭の死と向き合ってきた。今でも考える。芸人を辞めてなければ、秋原とコンビを組み続けていれば結果は違ったのか。もっといろんな話をしたかった。仕事の話でも聞きたいことはたくさんあった。こういう時は桜庭だったらどうしているのだろうとか、仕事の考え方の中心にはいつも桜庭がいる。
告別式の時、田島は言った。
「残された俺らに唯一出来ることは、桜庭さんを忘れへんこと。俺らが語り継いでいって周りにも存在を忘れさせへんことや」
忘れない事。これこそが亡くなった方への弔い方だと思う。忘れてしまっては存在していたことを否定してしまう事にもなる。自分が生きていることで、桜庭が生きていた証となろうと決めた。
今年で十年目の墓参りになる。夏の日差しが照りつけ、水をかけた桜庭の墓石をギラギラと光らせている。今日は墓前で、秋原と最後の漫才をしようと思っている。