幼馴染みのことが好きすぎて年に一回しか会えないのが耐えられない女の子の話 ~ヒメとヒコの願いごと~
部屋の整理をしていたら幼稚園のころの作品集がでてきた。いや、作品集と呼ぶとなんだか大仰だけど、幼稚園児のころの絵や作文を当時の担任の先生がまとめてくれたものだ。
なんの気なしにそれを開いて言葉を詰まらせてしまう。
お母さんの絵とか遠足の思い出とか、そういうものがでてくるのだろうと予想していた。だけど一番に視界に飛びこんできたのは、細長い紙に書かれたヘタクソな文字だった。
『ヒメちゃんとずっといっしょにいられますように』
それはいわゆる七夕用の短冊で、確かおとまり会のときに書いた代物だった。今の今まで完全に忘れていたはずなのに、それを目に入れた瞬間、まじまじと当時の記憶が蘇る。
「……懐かしいな」
そう呟いたのは、自分の中に湧き起ころうとしている感情をごまかすためだった。だってそれと向き合ってしまったら、私はこのまま上手に立っていられなくなるだろうから。
そう。
今となってはすべてがただただ懐かしい。
ヒメ――織部姫子は私の幼馴染みだった。
……こんなお願いなんてしちゃってバカみたいだ。
幼稚園のおとまり会があったのは私たちが年長さん――まだ四歳だか五歳のときで、その翌年――小学生にあがる直前にヒメは親の転勤で本州のほうへと引っ越してしまった。こんな短冊のことなんて今まで忘れてたけど、こうして振り返ってみると、この短冊が私たちの別れを決定づけたような気がしてくるから不思議だった。一年に一度しか会うことが許されない織姫と彦星にこんなことをお願いしてしまったから、ふたりを怒らせてしまったのかもしれない。
だから私たちは天の川で分断されたふたりのように、年に一度しか会えなくなったのだ。
なんて言ったら、自分たちを美化しすぎだろうか。
今の私たちが高校一年生の十六歳だから、これは十年以上も前の出来事なのだ。
「そう言えば、今年も七夕か」
一年のうち織姫と彦星が邂逅できる唯一の日。
そして私とヒメが出会える唯一の日でもある。
いや、細かいことを言えばヒメが札幌に戻ってくるのはあくまで七夕の前後で、それは単に両親のお盆の帰省と時期が重なっているというだけ。札幌の七夕は八月七日に行われるから、ヒメは両親より少しだけ前乗りして、数日ほど私の家に泊まるのが毎年の恒例になっていた。幼いころはヒメとの再会が嬉しくて嬉しくて堪らなかった。しかし歳を重ねるごとに、その行事は私にとって憂うつなものへと変化していったのだ。だから今も私は気が重くて仕方が――
「陽子ー! 部屋の掃除終わったのー? もう少しで姫子ちゃんきちゃうわよー!」
アンニュイごっこに浸っていた私の意識を母の情緒に欠けた声が呼び戻す。
ああ、どうして母親という生きものはいつもこうなのだろう。
「う、うるさいなー! べつにヒメがくるから掃除してるわけじゃないからー!」
階下にいる母に叫びながら、私はバタンと思い出を閉じた。
と言うわけで今日は八月六日の火曜日で、今日から八日の木曜日までヒメは私の部屋に泊まることになっていた。べつにヒメが泊まりにくるから張りきって部屋の掃除をしていたわけじゃない。だってヒメがやってくるのは私にとって憂うつなことだったから。いや、ホントに。
私はたまたま掃除がしたくなっただけなのだ。
そうして私は大急ぎで部屋の掃除を終わらせたのだった。
○
四時を回ったところでヒメから飛行機が空港に着いたと連絡があった。出迎えは前もって断られていたので、私は母と一緒にキッチンで夕食の準備をしながら、ヒメを待っていた。
「……………………」
作るのはヒメの好物のカレーで、私は黙々とタマネギの皮を剥いていた。
少なくとも皮剥きをしているあいだは無心でいられるから。私は――
「あんた、タマネギ見てる時間より時計見てる時間のほうが長いんじゃない?」
「はあ? いや、そんなことないし」
だって私はヒメのことなんて忘れて無心で皮を剥いて――
「ほれっ」
「あぎゃっ!」
母に首をぐりっと捻られて、あまりの痛みに叫んでしまう。べつに母は思いきり首を捻ってきたわけじゃなくて、ただ母のほうを向いていた首を軽く前のほうへ戻しただけだったんだけど。つまり私が背後にある時計を凝視していたせいで首の筋が痛んでいたらしい。
「あとそれ」
母が指を差した先――シンクの底には無惨に引きちぎられたタマネギの中身が散って山になっている。私の手元に残っていたのは、タマネギではなくらっきょうのようなものだった。
「……いったいだれがこんな惨いことを」
「あんただよ。もうあんたジャマだからテレビでも見てなさいよ」
しっしとお尻を蹴られて台所を追いだされてしまう。
手持ち無沙汰に陥った私は言われた通りテレビをつけるけど、この時間帯のテレビなんて幼児向けか主婦向けの両極端のものしかなくて、結局は時計とにらめっこを続けるハメになる。
「今、ピンポン鳴った?」
「鳴ってないよ」
「あっ、今こそ鳴ったよね」
「鳴ってないってば」
耳が敏感になってるのか、ちょっとした物音にも敏感に反応してしまう。
それだけでは飽き足らず、なんでもかんでもチャイムの音に聞こえてくる始末。
「あっ、ほら――」
「もう、うるさい! そんなに気になるなら家の前で待ってればいいじゃない!」
母はわざわざリビングまでやってきて、私のお尻を蹴って台所へと戻っていく。
ただ娘に暴力を振るいにきただけだった。
「でもそんなことしたら、いかにも『待ってました!』って言うようなものじゃん!」
「そんだけ楽しみにしてるんだからもう素直に『待ってた!』って言えばいいじゃん」
「待ってない!」
「……我が子じゃなかったら蹴っ飛ばしてる」
「もう蹴っ飛ばされてるんですけど? 私はあなたの子どもじゃないのか」
「あー、聞こえなーい」
あーあーあー……バンバンバン……と母はまな板のニンジンに包丁を叩きつける。
……こわ。
だけどそんな母の不審な挙動のおかげで少しだけ我に返れた。
私はチャイムの幻聴に悩まされることなく残りの時間を過ごすことができたのだった。
そういう意味では母は私の扱いに長けていると言えるのかもしれない。
単に感性が子どもじみているだけな気もするけど。
そして。
ピンポーン……と今度こそハッキリとチャイムの音が聞こえてきて体が震える。体が玄関へと向かいかけるけど、とりあえずインターフォンで確認すべきかと首はそちらを向く。
思考が散りぢりになって、頭と体が別方向へと向かう。
「うれション寸前の犬みたい」
「う、うるさいな!」
このままリビングであたふたしていたら、またボロをだして母につつかれるのがわかっていたので、私は母から退散する意味もこめて、さっさと玄関へと向かってしまうことにした。
逸る気持ちを抑えつつ、小走りで玄関へ。
念のために覗き穴から外を確認すると、同い年の少女が見えた。
それだけでドキリと心臓が高鳴って、血液が頭にのぼってくる。
さまざまな感情が綯い交ぜになって、なぜか涙がでそうになった。
透明感のある白いワンピースに香り立ちそうな麦わら帽子、傍らに置いてある桃色のキャリーバッグがなんともいい味をだしている。私にはヒメが夏を象徴する妖精のように見えた。だってただの住宅街であるはずの背景が、色鮮やかなヒマワリ畑に見えてきそうだったから。
彼女は小首を傾げると、ポシェットからスマホを取りだしてイジり始める。
どうしたのかと見つめていると、後頭部に鋭い痛みが走った。
「いった! ちょっとなにすんのさ、お母さん!」
「あんたこそなにしてんの。いつまでたっても玄関から物音ひとつ聞こえてこないからきてみれば。インターフォンで確認したけど、姫子ちゃんでしょ? 早く入れてあげなさいよ」
「いや、そうなんだけど、心の準備が」
もごもごしていた私の脇を抜けて、母がさっさとカギを開けてしまう。
「あっ、ちょ――」
と、私が静止する間もなくドアは開け放たれ、その向こうにヒメの笑顔が見えた。
私は『ヒメの背景にヒマワリ畑が見えた気がした』みたいなことを考えていたけど、今度のヒメはヒマワリ畑を通り越して太陽そのものだった。そしてその太陽が勢いよく跳びあがる。
「ひーこーちゃーんー!」
そして勢いをそのままに太陽は私の元に墜落した。
「ヒメ、ちょ、まっ……!」
私の再会に喜び勢いあまったヒメがそのまま飛びこんでくるのは毎年の恒例行事だった。だから私は前もって心と体の準備をしていたのに母がそれを台無しにしてしまったのだ。中途半端な姿勢だった私はヒメの体重をささえきることができずにそのまま玄関マットに倒れこむ。
母は「あらあら」なんて言って笑ってるけど、正直それどころじゃない。
夕陽に焼かれたヒメの体温と濃くなった香りが私の脳をチリチリと焦がす。
「お、重いってば!」
私に馬乗り状態になっていたヒメを押しのけつつ叫ぶ。そこで我に返ったらしいヒメが「ああ、ごめんごめん」と私から退けようとするけど、それを遮って母がヒメに話題を振った。
「陽子、姫子ちゃんがくるまであんなにそわそわしてたのに素直じゃないんだから」
どうしてこのタイミングでその話題を振るのかまったくわからなかった。
案の定、ヒメは「本当!?」と喜色満面の声をあげる。その反応に満足したらしい母が、さらに話題を掘りさげようとしていた。とりあえずトイレに行くフリでもしてこの場から逃げたいんだけど、ヒメに馬乗りされているせいでそうもいかない。こうして私はなかば拘束された状態で自分の恥ずかしエピソードを聞かされて、それに対するクソ嬉しそうなヒメの反応も無理やり見せつけられたのだった。私の話にいちいち可愛い反応をするヒメは眩しかったけど、
……なんだ、この羞恥プレイ。
私はすべてを諦め、受け入れ、ぐったりとした気持ちで床に横たわっていた。
ちなみに私の本名は星美陽子という。
幼稚園のころの担任の先生が『陽子ちゃんの【陽】は【お日様】のことなんだよ』と教えてくれて、それ以来なぜかヒメは私のことを『ひこ』と呼ぶようになった。ひこって呼ばれるのは、ちょっと間が抜けていて恥ずかしいんだけど、その気恥ずかしさが、同時に嬉しくもあった。なんだか幼馴染みって感じがするし、ふたりだけの特別という感じがするから。
会話が一段落したところで母はヒメをリビングへと連れていく。母は去り際、玄関先に倒れていた私に「そんなところで寝てないで姫子ちゃんの荷物でも運んであげな」と言い捨てた。一部始終を見ていたはずの母にそんなことを言われる意味がわからなかったけど、とりあえず落ち着く時間が欲しかったので、キャリーバッグを抱えて階段をのぼり始めたのだった。
……落ち着け、私。このままヒメのペースに巻きこまれてしまっては今までと同じ過ちを繰り返すことになる。それだけはごめんだったから、私は浮き足立ちそうになる自分に活を入れてからリビングに戻った。なんだかイヤな予感――と言う名のカレーの匂いに惹かれてリビングに入ると、母とヒメが一緒になってカレーを食べていた。本当になんなんだ、こいつら。私の分のカレーもよそわれてはいたから、あえて文句を言ってやろうとは思わなかったけど。
「美味しいなー! やっぱり私、ひこちゃん家のカレーが一番好き!」
私が席についてスプーンでカレーを掬ったタイミングでヒメが言う。
「まあ、私も手伝ったし」
「あんたはタマネギ小さくしてただけでしょ」
母のツッコミにヒメは頭上にたくさんの『?』を浮かべていた。
これ以上この話題を掘りさげたくなかった私は無視をしたけど。
そのままヒメは勢いでカレーを二杯もおかわりして、移動中にかいた汗をお風呂で流した。そのあいだに私は布団を自分の部屋に運んだりしてから、自分もお風呂に入った。浴室にしっとりと残った湿気の中にヒメの体液だったものが混ざっているのだと思うと意識が焦げる。
……って、これだと私がヘンタイみたいじゃないか。
脳が焦げついて、その熱が血管に乗って全身へと運ばれる。
そのせいで逆上せそうになった私は、逃げるようにして浴室から退散した。
なんだか今日の私は逃げてばかりいる気がする。
湿った髪にタオルで巻いて部屋に戻ると、ヒメがベッドの縁に座ってスマホを眺めていた。今日のために買ってきたのだと先ほど自慢されたパステルピンクのパジャマが可愛らしい。お人形さん――を通り越して、ぬいぐるみのような、抱きしめたくなる可愛らしさがあった。対する私が身に纏っているのは中学時代のジャージで、なんだか情けない気持ちになった。
無言で部屋の前に佇んでいた私に気づいたヒメがパッと表情を華やがせる。
太陽を直視してしまったときのように。
その眩しさが目に染みて、思わず泣きそうになった。
「あっ、おかえり、ひこちゃん」
「ん、ただいま……であってるの?」
「わかんないけど、ひこちゃんに『おかえり』って言いたかったの」
「そっか」
そう言われて悪い気はしない。たとえヒメの来訪が私にとって憂うつであっても、今この瞬間は嬉しく感じてしまう。だから私も気づくと「ヒメもおかえり」と声をかけていた。
「うん! ただいま!」
どうして私なんかの『おかえり』でそこまで笑顔になれるのだろう。
網膜を焼いて胸元にまで染みこんできた眩しさが心臓を沸騰させようとする。
「それ、似合ってるね」
胸の高鳴りをどう対処すべきか悩んでいた私にヒメが言った。
「それって……このジャージ?」
「うん!」
「いや、中学の芋ジャーが似合ってるって、それはもはや侮辱の類なのでは」
「そんなことないよ! 確かにジャージはダサいけど、着こなせてるひこちゃんはスゴい」
「なにそれ」
ヒメの物言いがあまりにも真剣だったから笑ってしまう。
私の笑いにつられたように、ヒメも「えへへ」と笑った。
その笑いの合間を縫うようにヒメのスマホがLINEの通知を鳴らした。その音につられたようにヒメの視線が一瞬スマホのほうへと向かうけど、スマホを手に取りはしなかった。
「LINE、返してもいいよ」
「ううん、大丈夫。どうせたいした話じゃなかったから」
スマホをマナーモードにしながら、ヒメは私へと視線を戻してくる。
些細なことだけどLINEよりも自分を優先してくれたという事実が少し嬉しい。
「友だち?」
「うん。高校のね。お盆明け、夏休みの締めにみんなで遊ぼうって」
「ああ、そっか。本州ってこっちより夏休み長いんだっけ? 羨ましい」
札幌は盆が明けると同時に休みも終わるけど本州は八月いっぱい夏休みのところが多い。
「その分、冬は短いからね。お互い様だよ」
なにがそんなに面白いのか、くつくつと笑いながらヒメは言った。
その笑みを見ていると私の心まで柔らかくなって笑いそうになる。
一頻り笑い終えたあとで、ヒメは「あっ!」と私の髪を指さした。
「髪、乾かしてあげよっか」
「えっ、いいよ、べつに。時間、かかるし。それこそ、LINEでも、してなよ」
ヒメが私の髪を乾かしている様を想像して、えっ、あっ、となぜか片言になる。
「ヒメはお客さんなんだから」
私は追撃のつもりでそう言ったんだけど、ヒメはその言葉を嬉々として拾った。
「お客様なら私の好きなことやらせてよ!」
「好きなことって……私の髪を乾かすことなわけ?」
私の問にヒメは「うんっ!」と頷いた。
そこまで言うのならと私は髪を乾かす権利をヒメに明け渡したのだけど、他人に髪を乾かして貰うのなんて美容室に行ったときぐらいだから、妙に緊張してしまう私がいた。
私はヒメの前に座ってドライヤーを渡す。
彼女はベッドの縁に座ったままぶぉぉぉ……と私の髪に風を当て始めた。
「なんでそんなにカチコチになってるのさ」
「いや、なんか今、私って無防備だなって思って」
ヒメが私に害意を持っていたら、もう為す術もなくやられてしまう状況だ……と言うのはあくまで冗談で、単にヒメの指先が髪や頭皮に触れて、ぞわぞわしてるというだけだった。
「あはは、なにそれ。吸血鬼みたいにうしろからカプーって噛んであげようか?」
そこで吸血鬼をチョイスしてくるあたりがヒメっぽい。図らずもそれは『私が思い描いていた不埒な絵面』と形だけは一致していたから、ヘンな声が漏れそうになったけど。
それから私たちは互いにこの一年のあいだの出来事を話し合った。
それはそれは楽しそうにヒメは高校生活のことを話してくれた。私の想像通り、ヒメは友だちがたくさんいて、夏休みも予定がぎっしり詰まっていたのだという。対する私はと言えば、友だちがいないわけではないけど、夏休みに予定を合わせてまで出歩く相手はいなかった。
……それにヒメ、男子にもモテそうだな。
ちょっと抜けてる部分があるけど、そこがまた小動物的で可愛らしいし、守ってあげたくなる。男子はそういう女の子に弱いって聞いたことがあるから、きっと男子にモテるはずだ。
もしモテなかったとしたら、それは男子の見る目がなさすぎる。
だけどその日、ヒメから男子や恋といった話題がでてくることはなかった。これまでヒメが私の前で色恋沙汰に興味を示したことはなかったけど、女子高生なんて隙あらば恋の話をしてくるものだ。私の前だからと遠慮しているのか、本当に興味がないのか、どちらなんだろう。そこがどうしても気になったけど、臆病な私は自分から尋ねることができなかった。
ふと気づくと時計が十二時を回るところで、ふたりして驚いてしまう。
おしゃべりに夢中になりすぎて、時間の感覚がなくなっていたらしい。
寝る準備は前もって済ませてあったから、私たちは布団に入って電気を消した。家主である私はベッドで、お客様のヒメは床に敷いた布団、薄暗さと高低差のおかげで彼女の姿は見えない。先ほどまで面白おかしくおしゃべりをしていたから、電気を消してもなかなか意識が休まらない。しかしヒメのほうは長旅で疲れていたのか、電気を消すと同時に寝息を立て始めた。
柔らかく、穏やかで、可愛らしくて、それでいてどこか湿ったヒメの吐息。
視覚からの情報が減ったせいで敏感になった聴覚がその音を鮮明に拾う。
すぐそこで――私の部屋でヒメが寝ているのだと思うと胸が痛くなった。
……私が吸血鬼だったら首を噛んでるぞ。
先ほどの会話からの連想で、そんなことを考える。
あいにく私は吸血鬼ではないから、首を噛まずにはいられたけど。それでも私の中に『なんらかの衝動』があるのは確からしくて、しかし私はその衝動の正体がなんなのかわからない。
その衝動の正体を見極める前に私はそこから目を逸らしてしまったから。
○
結局私は明け方まで一睡もできず、やっとウトウトし始めたころにヒメが飛び起きた。
それにつられて時計を見ると六時ちょうどだった。
夏休みのあいだに生活リズムが狂っていた私からしたら偉すぎて目眩がするレベルだった。いや、普通に眠さのせいで目眩を起こしているだけなのかもしれないけど。爛々と目を輝かせているヒメにつれられて階下におりると、珍しく早起きをした私に母が目を丸くしていた。
「学校ある日でも七時すぎまで起きてこないのに」
これから毎日ヒメちゃんに起こして貰いなさいよ。
目を丸くした母がなんとも無責任なことを言ってくる。本当にヒメが毎朝モーニングコールしてくる! みたいな方向に向かいそうだった話をなんとか振り切って、朝ご飯を食べる。
メニューは昨日のカレーの残りで、ヒメは
「やっぱりカレーは二日目だよね!」
と使い回しのメニューにもニコニコしてた。
母も「姫子ちゃんがうちの子ならよかったのに」なんて言いだす始末。
それを言いだすのは母じゃなくて子どもなんじゃないの? とただ疑問に思った。
九時前までぐだぐだと時間を潰して、私たちは地下鉄でさっぽろ駅へと向かった。今日は八月七日の七夕だ。ちょうど札幌駅周辺で夏祭系のイベントが開催されている時期だった。駅前大通りの道沿いに露店が並んでいて、鉄板焼きや揚げ物の香ばしい香りが鼻腔を擽る。ヒメは本能の趣くまま「あっ! あげいも!」とか「まるまる焼き食べたい!」なんて叫びながら片っ端から屋台に突撃して、戦利品を掲げて戻ってくる。ヒメは今日のためにとっておいたのだというお小遣いをすべて使い切るつもりなのだろうか。私はおなかの具合とお小遣いの兼ね合いの両方的な意味で、さすがにそのすべてに付き合いきることはできなかったけど。
「んーっ、美味しー! ひこちゃんにも一口あげる!」
ただ、こんな感じでヒメが逐一私の口にものを突っこんでくるから空腹に見舞われることはなかったけど。私が「うん。美味しいね」と同意を示すと、ヒメはまるで自分自身が褒められたかのように「そうだよね!?」と過剰に喜びを露わにする。正直、徹夜明けの身に揚げ物は厳しかったけど、ヒメのその顔を見たいがために私は差しだされるがまま食べ続けた。
祭は基本的に屋台が多かったけど、中にはヨーヨー釣りや輪投げといった子ども向けの遊び場もあった。その内容はどう考えても幼稚園児から小学校低学年を対象にしたもので、事実その場には私の腰元ぐらいの上背しかない子ばかりだった。なのにヒメは私の手を引いて、その輪の中へと突撃していく。私には抵抗する暇すら与えられなかった。小さな子どもばかりの空間に高校生の私たちが飛びこんでいくのは相応に恥ずかしかったけど、それ以上に懐かしさを覚えた。子どものころ――私たちが常に一緒にいた幼稚園のころに戻れたみたいだったから。数ある遊び場の中から一番にヒメが向かったのは『ヨーヨー釣り』でヒメは店番のオジサンに小銭を渡すと、捻ったティッシュで編まれているらしい釣り糸をゆっくりと水中へと沈めていく。ゆらゆらと漂うゴムに釣り針を引っかけて、恐る恐るといった調子で持ちあげる。
案の定、プツンと糸が切れて、水風船が落花する。
ポチャンと水が弾けて、私たちの頬を冷たく濡らした。
「あー! ちぎれちゃった!」
いきなりやってきたこのお姉ちゃんはどれほどの実力者を保っているんだろう? と観察していた周りの子供も「あー!」と嘆く。とくに何を話したわけでもないのに子どもの心を掴んでいるのが面白い。どうやらヒメはすでに『仲間』として受け入れられたらしかった。このまま静観していたらヒメは同じ過ちを繰り返しそうだったから、私も参戦してみることにする。
「ヒメは深く入れて、ゆっくりしすぎなんだよ。そうじゃなくてもっと素早く……」
糸を水に浸す前に粗方の狙いを決めて、ゴムが水面にスッと浮かびあがったタイミングで素早く釣り針を引っかけて持ちあげる。水の詰まった風船の重みにゴムと糸がピンと張り詰めるけど、そこまで水に浸っていない糸は重みに負けることなく風船をささえ続けていた。
「おー!」
ヒメの歓声につられ、周りの子供も歓声をあげる。なんだか大人げなく自分の力を見せつけてしまったようで気恥ずかしかったけど、子どものまっすぐな歓声は悪い気もしなかった。
「やっぱりひこはヨーヨー釣り巧いなぁ」
「こんなの巧くたってどうしようもないでしょう」
どうせならこんなことじゃなく、もっと人生において重要なことを巧くこなせるようになりたかった。それこそヒメのようにみんなに好かれるひとになりたい。そうすれば私だって、こんなふうに鬱屈とせずに済む。ヒメのことばかり考えて憂うつになることもないはずだから。
「そんなことないよ!」
陰りが差そうとしていた私の意識にパァッ! とヒメの笑顔が差しこむ。
「だって私は嬉しいもん」
なにか具体的な理由を説明されたわけではなかった。それこそ『ヒメが喜んでくれるからなんなんだ?』という想いもあった。そのはずなのに私はヒメの言葉と笑顔に救われてしまう。この先の人生でなんの役に立たなくても、それだけで満足してしまいそうになる私がいた。
――プツン。
その笑みに見惚れていたせいで、掬いかけていた二個目の風船が落ちる。先ほどよりも大きく水が跳ねて、私たちの顔が濡れる。濡れているであろう私の顔を見てヒメは笑った。
「よし私も! もう一回やる!」
ヒメは再び釣り糸を受け取り、先ほどの私のように素早く手を動かそうとしていた。
その真剣な横顔を見ていると自然と頬が綻ぶ。
この瞬間がただただ楽しくて仕方がなかった。
幼稚園児のように無邪気にそう思う私がいた。
だけどすでに別れを知っている私もいるのだ。
大人ぶった顔をした私が、無邪気な顔をした私の想いに水を差そうとする。そうやって私は大人ぶることも無邪気になりきることもできず、中途半端な想いを抱き続けていたのだった。
それからヒメは三回も挑戦したものの一個もヨーヨーを釣りあげることができなかった。ヒメのあまりのヘタさに哀れみを感じたらしい子どもがヒメにヨーヨーを手渡そうとしたほどだたし。さすがのヒメもその同情を受け取る気にはなれなかったのか、悔しそうな表情で断っていたけど。そんな感じで縁日を満喫した私たちは広場を離れて近くにあった喫茶店に入った。そこでは七夕限定メニューとして織姫と彦星をモチーフにしているらしい洋菓子が販売されていたので、私たちはどちらともなくそれを注文する。抹茶とホワイトチョコレートをベースにした緑色のケーキと、ラズベリーをベースにした赤色のケーキのセットで見た目からして可愛らしい。ひとつの皿に盛り付けられていて、脇に添えられた笹の葉もいい味をだしていた。
「なにこれ可愛い!」
運ばれてきたお皿を見てヒメが歓声をあげる。
「もったいなくて食べられない!」
「ヒメに可愛くて食べられないとかあったんだ」
「えっ、ひこ、私のことなんだと思ってるの!」
「少なくとも色気より食い気だと思ってたけど」
「なにそれー。酷いなー、もぉー……もぐもぐ」
「いや……もぉーとか言いつつ食べてるじゃん」
「はっ、無意識だった……!」
それはヤバいでしょと笑いながら、私も抹茶のほうのケーキをいただく。しっとりとした甘味と苦味が口の中に広がって、味それ自体よりも鼻に抜ける風味で頬が落ちそうになる。上品な味というのはこういうものを言うのかもしれないと、そんなことを思う味だった。目の前で美味しそうにケーキを頬張るヒメの顔が、なによりの調味料だったような気もするけど。先ほどあれだけ揚げ物や粉物を食べたのに、私たちはあっという間にケーキを食べ終え、セットでついてきた紅茶で一息つく。甘味で気が緩んだのか、先ほどよりも心中は穏やかだった。
そんなとき対面のヒメが「あっ!」と声をあげた。
「短冊があるよ!」
紙ナプキンやアンケート用紙がある位置に色とりどりの細長い紙が置いてあり、そこに『願いごとを書いて店先の笹竹に吊るしてください』という文字が添えられていた。道中、ところどころに笹竹が散見されていたから意識していなかったけど、この店の前にもあったらしい。
「せっかくだからお願いごとしてみようよ!」
無邪気な調子でヒメは短冊とボールペンを手に取って紙面に向かう。その姿を見た私はと言えば、昨日見つけた短冊、そして幼稚園のころのこと――ヒメとの別れを思いだしていた。
七夕――とくに短冊にはいい思い出がない。
毎年ヒメと会える時期だからこそ、私は憂うつになってしまう。
八つ当たりだというのはわかっているけど、それでも自分の想いをうまくく処理できない。ただ、このまま内省を続けていたら気分が落ちこみそうだったので外に向けることにした。
「なに書くの?」
「えっ、な、内緒!」
覗きこもうとした私から両手で紙面を隠してくる。ここでムキになるのも大人げないとは思うんだけど隠されると面白くはない。だから、つい藪をつつくようなことを口にしてしまう。
「好きなひとのことでもお願いするつもり?」
「へっ!? そ、そそそ、そんなわけないじゃん!」
まさかこんなに露骨に藪からヘビがでてくるとは思いもしなかったから。
――なんでそんなにわかりやすいの!?
そんな反応『好きな相手のことを書いてます!』と言っているようなものじゃないか。さっきも言ったけど私は基本的にヒメは『色気より食い気の女だ』と思っていた。だから結局、昨日の夜にしても『男の話題がでないこと』に対して内心で頷いていたし、安心してもいた。
だからそんな反応をされるとこちらも対応に困る。
「あっ、そ、そっか。そうだよね」
もはや何に同意を示しているのかわかったものではなかったけど、ヒメは私の反応に安堵しているようだった。これ以上この話題を続けたくなかった私は逃げるようにして短冊を抜き取る。しかし私にはヒメのようにすぐさま思い描けるだけの『願い』というものが存在しない。
いや、強いて言うならひとつだけある。
『ヒメちゃんとずっといっしょにいられますように』
というあのときと寸分違わぬ願いだ。
だけどその願いはあのとき否定されてしまった。
織姫と彦星という一年に一度しか邂逅の適わないふたりによって。まあ、それは私の妄想でしかないんだけど、それでもその願いは私にとってある種のトラウマめいたものだった。
正直、織姫と彦星はバカなんだと思う。
一年に一回しか会えないなら、いっそ会わないほうがマシなんじゃないかって私は思う。
だって、やっと再会できたという喜びが大きければ大きいほど、そのあとやってくる別れがつらいものになってしまう。それなら一生会わない方が結果的に幸福なんじゃないか。
……ふたりは別れが悲しくないのだろうか。
それとも別れのたびに織姫はメロドラマよろしく彦星に泣きつくのだろうか。
『イヤよ! 私、離れたくない! このままずっと一緒にいる!』
なんてチープなセリフを吐いて、彦星はそれを抱きしめながら慰める。
それはそれで結構なことだと思うけど、私にはそんなことできるはずがない。だって私とヒメはただの友だちで、欲をかいたところで幼馴染みという付加価値ぐらいしかない。それについ今しがた『ヒメには好きなひとがいる』という事実を私は知ってしまったのだ。彼女はそう遠くないうちに私よりも大切な相手を作って、そのひとのことを優先するようになるだろう。
だったらせめて別れがつらくないものになってくれればいい。
つまりそれは『ヒメを好きすぎる私の気持ちなんてなくなって欲しい』という願いだった。だってこの問題は『私がヒメを一方的に好いているから』起きている問題なのだから。だけどそれをそのまま書いて、万が一にもヒメに見られてしまったら私はきっと立ち直れなくなる。
だから私は『別れがつらくなくなって欲しい』と短冊に書いた。
ちらりとヒメを見ると、短冊の完成度に納得がいかなかったのか、新しい短冊を手に取って書き直しているところだった。それを何度か繰り返して、ヒメは『よし!』と声をあげる。
満面の笑みを向けてくるヒメに笑い返して、私たちは喫茶店をあとにした。それから私たちは駅ビル上階にある映画館に行って、そのあと階下にあるショッピングモールでウィンドウショッピングを楽しんだ。いや、私のほうは『楽しそうにしているヒメを眺めていた』と言うべきか。私は今この瞬間、ヒメの隣に立っているはずなのに、その意識がひどく希薄だった。
どうにも今に集中することができないでいた。
興味のない他人の話でも無理やり聞かされているときのような心地だった。
ヒメとは明日でお別れのはずなのに。
いや、だからこそと言うべきなのか。
この状況から自分の意識を切り離すことで、なるべく自分が傷つかないようにしているのかもしれない。それぐらいこの問題は私にとって大きな問題だったから。ただ私の態度があまりにも露骨だったのか、気がつくと心配そうな表情をしたヒメが顔を覗きこんでいて驚く。
「ひこ、疲れちゃった?」
「あ、いや、べつに?」
自分の意識と体がうまく繋がらずに舌先が縺れそうになる。それでもなんとか、『どうかしたの?』という意味合いを視線にこめて見返すと、ヒメは不機嫌そうに唇をとがらせていた。
「だったらどうしてそんなにつまらなさそうなの?」
ひこがつまらないと私までつまらないとでも言うような声色だった。ヒメは表情も声音も正直だ。だけどそれ以上に言葉を着飾るということをしないから、ときどき驚きそうになる。
……それを直接聞いちゃうのか。
不機嫌そうな相手の心を好きこのんで覗きこもうとしてくる輩は少ない。十七年も生きていれば、そんな不用意に藪をつついても、驚いたヘビに噛まれるだけなのを知っているから。
だけどヒメはそれを怖れずに手を伸ばす。
それは精神的に幼いせいもあるだろうけど、なにより私を心配しているからだろう。
「いや、べつに……たいしたことじゃ……」
私は素直にその優しさを受けとめることができずに拒絶しようとしてしまう。
「私、気に障るようなことしちゃった……?」
しかし私の生半可な拒絶ではヒメの心配に火をつけるだけだった。
こういうときピシャリと手を振り払えるだけの強さを私は持っていなかった。かと言って、自分の想いを暴発させることもできず、ただ内側でさまざまな感情が荒れ狂い始める。その想いを自分の中でうまく処理することができず、その結果として私がとった行動と言えば――
「えっ、ちょ、ひ、ひこ!?」
どうすることもできずに、ただ涙を流すことだった。
そんな情けない私を見たヒメはと言うと、不機嫌そうな表情を崩してあたふたと周囲を見回し始める。私は黙って泣いているだけだから、周囲の買い物客たちは意識すらしていなかったんだけど、ヒメの慌てようが凄まじかったせいで、むしろそちらに興味を惹かれていた。
それに気づいているのかいないのか、ヒメは私の手を引き、にわかに走り始める。辿り着いたのはビルの端にある階段で、ヒメは勢いを弱めないまま勢いよく階段をのぼり始める。口を開いたら舌を噛んでしまいそうだったから、彼女の背中に質問を投げかけることもできない。
彼女がやっと足をとめたのは屋上にある広場に辿り着いてからだった。赤いタイルの道、その両脇に添えられた花壇、沈みかけた陽がそれらを茜に焦がしていて、哀愁を漂わせている。
道沿いに進むと広場があって、そこでは家族連れやカップルが多く見られた。
ヒメはそちらには向かわず、屋上の中央にある高台へ向かう。屋上の四辺には事故防止のためか背の高い柵が張り巡らせられているから、その上から景色を眺めるための場所らしい。
そしてそのてっぺんに辿り着くと同時にヒメは口を開いた。
「ごめんね」
ヒメは振り返らないまま握っていた手に力をこめて囁いた。
私からはヒメの背中が逆光の中に溶けているように見えた。
「私、よく空気読めないとか、相手のこと考えてないとか、言われるんだよね。自分でも直さなきゃって思うんだけど、ひこと一緒にいられるのが嬉しくて、ひとりではしゃいでた」
ヒメも夕陽が眩しかったのか、スッと私へと振り返る。
乱雑に靡く髪を夕陽が梳かし、星の砂みたいに見えた。
その星のまんなかでヒメの両目がまっ赤に濡れている。
「いや……なんで、ヒメが泣いてるのさ」
「だってひこが泣いてたから」
「なに、それ」
それは『ちょっと感化されて泣いちゃった』とかそういうレベルではなかった。私を泣かせたのがショックで堪らないのか、彼女はその目から大粒の涙を流していたのだ。
その涙に嘘や偽りがないのは間違いないだろう。
その涙は明らかに過剰で、私に同調したいならもう少し賢いやり方があったはずだ。なによりヒメがそんな小細工を弄する意味がわからない。だからその言葉と涙は真実なのだと思う。
「私、鈍感だからひこがどうして泣いちゃったのかわからないの」
そしてヒメは私に追い討ちをかけるように『正直』を吐露した。
ヒメの心はその涙のように透明で、澱んだ嘘と沈黙で心を塗り固めようとしている私とは正反対だ。そのせいか途端に自分の言動が子どもっぽくて、幼稚なもののように感じられた。
「ひっ……ヒメと離ればなれになるのがつらかった」
その恥ずかしさに絆されるようにして、気づくと私は自らの本音を漏らしていた。
「それがどうしてひこが素っ気ない態度をとる理由になるの……?」
「今が楽しければ楽しいだけ……ヒメとの別れがつらくなるから。それならいっそ、楽しい時間なんてなくなっちゃえばいいのにって、そう思って、なるべく楽しまないようにしてたの」
「……どうして?」
私の感情と言動の不一致をヒメは『どうして』の一言で尋ねてくる。
――どうしてって。
確かに私の想いや感情はグチャグチャで、自分でもどうしてこんなことをしているのか、わからなくなりそうになる。それは澱んだ沼のような感情に違いなくて、自分で手を差し入れることすら憚られる。しかし上辺がどれだけ澱んでいても私の想いはいつだってひとつだった。
「私はヒメとずっと一緒にいたいの! 離ればなれなんかになりたくないの!」
そう叫んでから、どこかで聞いたことのあるセリフだと心の中で首を傾げる。
そしてすぐに『先ほど喫茶店で思い描いた織姫の姿』がこんな感じだったと思いだす。恥ずかしさで顔から火がでてしまいそうだったけど、私はなんとかヒメの反応を覗おうとする。しかしヒメは私の言いたいことがまるで理解できないとでも言うような表情を浮かべていた。
「えっ?」
その口から漏れたのは疑問符のかたまりみたいな声だった。
私の想いはヒメにとって見当違いのものだったのだろうか? こんなふうに強く『一緒にいたい』と思うのは彼女にとって理解できない感情で、ただ気持ち悪いだけだったのかもしれない。そう思ってヒメから視線を逸らそうとした瞬間、ヒメは先ほどと同様の声で言った。
「私とひこはずっと一緒だよ?」
「えっ?」
その声があまりに間の抜けたものだったから、こちらまで似たような声をだしてしまう。だって『ずっと一緒』とはどういうことだ。私たちは一年のうち、数日しか会えないのに。
そんなの織姫と彦星より多少マシというだけだ。
しかしヒメは私の反応こそ心外だとでも言うような味わい深い表情を浮かべていて言った。
「だって私たちはどれだけ離れてても、こうやって会えるんだもん」
それは先ほどまでの疑問符に満ちた声ではなく、自信という芯の通った声だった。
「パパの転勤のせいで私が何回も引っ越しを繰り返してるの、ひこは知ってるよね?」
私が頷くのを見届けてからヒメは続けた。
「私、こういう性格だから友だちには苦労しないし、いろいろな子と出会えるのは楽しかったんだけど、みんな、引っ越したらそれで付き合いが終わっちゃうんだよ。最初の数ヶ月は手紙とか電話とかしてくれるけど、すぐに連絡なんてなくなっちゃう。私のこと忘れたり、どうでもよくなったってわけじゃないとは思うけど、会えない時間が長引くと、大事なものが薄れていっちゃう。結局、ひとってだれしも『今』と『目の前』には勝てないから」
ヒメにしては理路整然とした物言いに私は圧倒されるけど彼女が口にしているのは結局、私の想いの裏づけに他ならなかった。いや、私の中にあるヒメへの想いが薄れたことなんて一度もないけど。それでも現実の距離が私たちの弊害として横たわっている事実に変わりない。
「でもひこは私に会いにきてくれたじゃん!」
しかしヒメの声が私の憂いを断ち切る。
「ひこは忘れちゃったかもしれないけど……私たち、幼稚園のときに一緒に短冊でお願いごとしたんだよ。『ずっと一緒にいられますように』って。なのにそのあとすぐに引っ越しが決まって、私、すごい泣いちゃった。まだ幼稚園児なのにひとりで札幌に残るなんて騒いでパパとママを困らせたりもした。そんな私に『ずっと一緒だよ』って『ヒメがどこに行っちゃっても絶対に会いにいくからね』って言ってくれたのはひこなんだよ? ひこの他にも私にそうやって言ってくれる子は何人もいたけど、ホントに会いにきてくれたのはひこだけだった。だから私は『ああ、どれだけ離れててもひことは一緒にいられるんだな』ってそう思ったの」
ヒメの言葉にはたと気づかされる。
彼女にとって『一年に一度』という頻度が逆に想いの証左になっているのだ、と。
ヒメの他にも引っ越してしまった友だちは何人かいたけど、彼女の言う通り、何回か電話をしたり、数通の手紙を送った程度で、音信不通になってしまった。にもかかわらず、十年以上前に別れてしまったヒメとこうして今でも会えているのは、奇跡に近いことなんだって。
彼女からしてみれば『あの短冊』は今でも願いを叶え続けてくれているのだ。
私がヒメに会いに行けたのは、私が両親にワガママを言ったのもあるけど、たまたま両親の気持ちが本州への旅行に傾いていたからにすぎない。それは両親の気紛れと偶然でしかないけど、それが偶然だからこそ、七夕の短冊が願いを叶えてくれたと言えるのかもしれなかった。
でも、だからって私の『ヒメと別れたくない』という想いが薄れるわけではない。
「でもそっか、ひこはそんなに私のことが好きだったんだ」
未だに納得いかなそうな表情をしているであろう私を見て、ヒメはにゅふふと笑う。
「じゃあ、一緒に暮らそうか」
そして『今日はハンバーガーでも食べようか』とでも言うような軽さでそう提案してきた。
「は……? えっ……?」
言葉の重みと口調の軽さの乖離に私は戸惑う。
「今はまだ難しいけど、大学生になったら、同じ大学に行こうよ。同じ大学がムリでも、私が札幌の大学にくるか、ひこが東京の大学にくれば、ルームシェアだってなんだってできる」
ヒメの言葉に心が躍りそうになる。
あれだけ憂うつを気取っていたのに、そんな一言で救われそうになるなんて、なんとも情けないような気もする。だからというわけではないけど、私はヒメにつっかかってしまう。
「でもヒメには好きな子いるんじゃないの? その子と離ればなれになるかもしれないよ」
私の言葉に今度はヒメのほうが「は……?」と首を傾げていた。
「えっ、好きな子って……ひこのこと?」
「そっ、そうじゃなくて! さっき短冊にお願いしてたじゃん」
ん……? という数秒の沈黙の後、ヒメはハッとした様子で私を見つめた。
「……えっ!? ひ、ひこ、私の短冊、勝手に見たの!?」
やっぱりその反応は『そういうこと』なんじゃないかって勘繰ってしまう。
「み、見てない! 見てないけど!」
中身を見たわけではないのは本当だ。
すべてはヒメの反応からの推察でしかないから。だけどヒメの反応を見ていればだいたいのことは想像できてしまう。素直なヒメは私の言葉に安堵の吐息を漏らしていたけど。
「べつに好きな子なんていないし、短冊にそんなこと願ってもないよ」
先ほどよりは幾分か落ち着いた声音で囁いてみせた。ヒメの言葉を信じたいという想いはあったし、彼女は嘘が得意ではないからそれは真実なのではないかという想いもあった。
だけど、だったらヒメはあの短冊に何をお願いしていたと言うのだろう。
「……じゃあなにお願いしてたのさ」
「なっ、内緒!」
ヒメは私の追求をきっぱりと断つ。
それは拒絶と言うより『恥ずかしがっている』という感じだ。
だから私は一向に考えがまとまらずにわけがわからなくなる。
「なにを書いたかは教えられないけど……私の一番はいつだってひこだよ」
「……………………」
ヒメの声音の静かさに反比例するように私の頭ではノイズが鳴り響いていた。
そのノイズが不信感として表情にでていたのか、ヒメはむむむと唇をとがらせる。
「ひこ、信じてないな」
「そりゃあ、ヒメの言うことだから信じたいけど……でも、もしかしたら急に『彼氏とルームシェアすることになったからあの話なしね!』とか言いだすともかぎらないわけだし……」
「だからそれは絶対ないから!」
私の言葉が心外だ! とでも言うように、ヒメはグッと顔を近づけてくる。
その動作が衝動的で裏表がないからこそ、私はその点に疑心暗鬼になりそうになる。
ヒメも言葉であれこれ説明してもムダだと察したのか、なんだか妙なことを口にし始めた。
「じゃあ、ひこが昔してくれた一番仲良しの印、してあげようか」
「……一番仲良しの印?」
「うん。やっぱりこれがわかりやすい気がするから」
はあ……? と気のないような返事をしてしまう。その『一番仲良しの印』とやらに私は思い当たる節がなかったから。それこそ『短冊に書いたお願いごと』のようなものだろうと思うんだけど、それなら『してあげようか』ではなく『見せてあげようか』になるはずだ。
ヒメがそこまで日本語に丁寧だとは思わなかったけど。
相変わらず至近距離にあったヒメの顔、その目がジッと私を見つめた。
夜空に浮かぶ星のように煌びやかな瞳――たとえば織姫の瞳はこんなふうにキラキラと輝いているのかもしれないと、そんなことを考えていたら、その星が、一気に急接近してきた。
そしてスッと雲が差すようにまぶたがおろされ、瞳とは別に柔らかな感触が私を襲った。
それは私の唇とヒメの唇が触れ合った柔らかさだった。
は……? あ……? え……? と思考が漂白されていた私にヒメは笑いかけた。
「はい。一番仲良しの印。私にとってひこは今でも一番なんだよ」
「な、なっ、ななな、なにそれ!」
今、ヒメは、私に、キスを、した。
ヒメの中での一番は私なのだと証明するために。確かに『キスができるぐらい好き』というのは、わかりやすい好意の形だと思うけど。もっと他に方法はなかったのか? と思わなくもない。だけど私の中にあった疑心暗鬼は、今のキスで綺麗さっぱり消え去ってしまっていた。
……でも、どうして、キス。
彼女の言葉を信じるなら、それを先に実行したのは幼少期の私らしいけど。
「子どものころの私、本当に、そんなバカなことしてたの?」
私の疑問にヒメは「うん」と頷く。
「……そっか」
幼少期の私はなんてバカだったのだろう。だってその私は『引っ越したくない』と泣きじゃくっているヒメに対して『ヒメは私の一番だから、ずっと一緒だよ』とキスをしたのだ。
今の私からは想像もできないようなバカ正直ぶりだ。
そしてどうして私はそんな『バカなこと』を忘れてしまっていたのだろう。
「『やくそくのちゅー』って言ってたよ。ひこの一番は私だから、絶対に会いにきてくれるって。だから私も約束。私の一番はひこだから、大学生になったら絶対に一緒に暮らそう?」
「う……うん。わかった。絶対……だから」
私の同意を受けてヒメは満面の笑みを浮かべる。
そして喜びの勢いが余ったように再び顔を近づけてくる。
「ちょっ、ヒメ!」
突然襲ってきたヒメのキスを、上体を反らしてなんとか躱す。
「どうして避けるのさ!」
私に躱されたことが不服なのか、ヒメは珍しく声を荒げて怒る。
私としてはどうしてそんなに怒られないといけないのかがわからない。
「も、もう一番なのはわかったから! 約束もしたし、それは、もう、いいでしょ」
「んー……まあ、ひこがそう言うなら、私はガマンするけど」
いや、ガマンってなんだ。
怒ってみたり、ガマンしてみたり、忙しい女だ。
……と言うか、私は私で、それ以上されたら、なにかをガマンできなくなりそうなんだよ。それは昨晩感じた『衝動』と似たなにかだったけど、それよりも明確な形を持っていた。私の胸の奥、おなかの底のほうで形作られたそれは、沸騰するような想いをヒメへと向けていた。 私の中にそんな想いがあることを知らないヒメは無垢な笑顔を私へ向ける。
「やっぱり短冊にお願いごとすると、叶っちゃうものなのかもね」
そして最近の子どもなんかよりよっぽど素直な言葉を口にした。
それにしても、ヒメはあの短冊にいったいなにを願ったのだろう。気になりはしたけど、それを聞いてしまったら、いよいよガマンができなくなってしまいそうだという予感があった。
だから私は気を紛らわせるために空を見あげた。
陽が沈み、藍色と黒が混ざり合った空を両断するように淡い星に川が流れている。昨日までは途方もない距離に感じた星空が、なぜか今なら手が届きそうな気がしたのだった。
だから私は手を伸ばす。
今だけは大人ぶった自分を忘れて、そういう子どもみたいなことをしたかったから。ちょうど同じことをしようとしていたヒメと目が合って、私たちは照れたように笑って手を伸ばす。
遠くて近いあの星空へと。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
この小説は『百合アンソロジーInnocence ーイノセンスーVol.7』というアンソロジーに寄稿したものです。公開しても問題のないタイミングになったので再録させていただきました。
毎週土曜日に『小説家になろう』で短編を公開していく予定です。
それとは別に『私は君を描きたい』という長編を毎日更新しています。
よろしければそちらもチェックしてくださると嬉しいです。