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遙か彼方  作者: 岩尾葵
9/9

最終射撃/地球の裏側の距離

「いやー、藤君すごいやん。いつの間にこんな強うなったん」

 パソコンに向き合う桐原の第一声で藤枝は目を通していた銀座銃砲店のカタログから顔を上げる。秋関予選から一週間後の土曜日。学連の公式ホームページに先日開催された予選会の結果がアップされていた。藤枝はカタログを閉じて桐原のパソコンのディスプレイを覗きこむ。成績は五七三点。出場者中十位と、かつてない好成績だった。そして、自分以上の成績九人のうちに天平の名前はない。彼の最終得点は五百七十点。藤枝は遂に、天平を凌いだ。

「いやあ、でも惜しかったなあ。あと二人抜きすれば決勝行けたのに」

「でも、先輩凄いっす、これなら本当に全国も夢じゃないんじゃないですか」

 脇から成績を見て興奮気味に岩崎が語る。以前桐原が同じことを天平に言っていたと思いだして、そうかな、と生返事でそれに応答した。全国、と言われてもあまり想像が及ばない。正直、まだ天平を追い越したという実感も薄い。確かに天平と話したあの日から、毎日のように射撃場に通い夏だと言うのにコートを着こんで汗だくになりながら死に物狂いで練習を続けたが、そのうち銃を撃つことそれ自体に没入するようになり、成績のことを忘れかけてさえいたのだ。それは努力と言うよりも、娯楽に近かった。今はもう、楽しむ以外に銃を撃つ方法を、藤枝は知らない。自分はこの先、ただこの部活でひたすら銃を撃ち続けているだけではないのか、という想像ばかりが脳裏を埋め尽くす。秋関予選の時と同じく、目の前の的だけに集中して人差し指に僅かな力を加え、ど真ん中を撃ち抜く。おそらくそれだけが、今の自分に与えられている射撃を続ける理由なのだ。もしかしたら、天平が桐原からこの賞賛をうけたときも、同じような気持ちだったのかもしれない。彼は自分と違って、もっとはっきりとやる気のなさをアピールしていたが。

 部室には天平以外の現部員が集まっていた。大曾根は相変わらずスマートフォンに目を向けたままだ。最近ダウンロードしたアプリのゲームが面白くて止められないのだと言う。今日は荒巻と栗塚もいる。荒巻はいつもの笑顔を顰めて眉間に皺を寄せ、自分で持って来たらしい分厚い文庫本に目を通している。

「まさか、藤君がカズ君を抜かしちゃうなんてねえ。驚き通り越して感動の域だよ」

「ええ? お前酷くね、それ藤君遠まわしに貶してんじゃん」

「貶してなんかいないよ。俺は二年生には皆期待してたんだ。ただ、これだけ短期間に差が縮まるとは思ってなかったからさ。きっと藤君、凄い努力したのかなって」

「あいつのお陰ですよ」

 荒巻の呟きに藤枝は答える。何が? と荒巻から疑問が飛んできそうだったところを、彼の額ぶつかったオレンジ色の球体が遮った。荒巻の額から落ちた球体が床に転がる。球体が発射元にいたのは、栗塚だった。

「って。何すんだよ、栗!」

「それは栗じゃなくて、ミカン」

 さも言ってやったぜという面持ちで栗塚がにやにやする。天平は突っ込みを入れる気も起きないようで代わりに短くため息を吐いた。呆れ顔の主将の表情から、何言ってるんだこいつ、というような声が聞こえて来そうだ。

「まあお前は講釈垂れる前にミカンでも口につっこんどけってことだよ。ほれ、もう一個」

 手品のようにどこからともなく出現したミカンが荒巻の方へと投げられる。やめろやめろと逃げる荒巻。床に悉く落ちていくミカンを一つ拾い上げ、藤枝はその皮を剥いて口に放った。瑞々しい果肉が歯の奥で潰れて舌に酸味を与え、咽喉の奥へとジューシーな果汁が抜けていく。皮の色は大分黄色っぽかったが、食べてみると存外、甘く熟れている。

「おいしいですね、これ」

「藤君! 呑気にミカンなんか食べてないでこいつ止めて!」

「先輩も食べて下さい、おいしいですよ。さすが美食家、栗塚さんの勧めるものは違いますね」

「でしょでしょ」

 言いながらも荒巻へのミカン攻撃を止めない栗塚。食い物で遊ぶな! と怒号を飛ばす荒巻は、もう部室の隅の方へと追いやられている。危ないところだった。荒巻に追及されたら、藤枝もつい言うつもりのないことを言ってしまったかも知れなかった。天平と桐原が部室でいちゃついていたときは呑気な人だと思っていたが、意外とこの人は鋭いのだろうか。おいしいミカンをごちそうになったことも含め、栗塚に感謝すべきかもしれない。

 今日は、天平が部室に来る最後の日だ。彼は次の部活がある来週の水曜には、もう日本から遥か彼方の地、地球の裏側にいる。

 自分がここまで成績を伸ばせたのは、天平に俺を越しただけで満足するなと言われたからだ。構内で煙草を吸う天平を発見したあの日理解できなかった言葉が、今になって身に沁みている。天平自身が、おそらく誰か明確な対象を越えることよりも、高みを目指して満足するタイプだったのだろう。改めて思うと、彼と最初に競った受験時代に言われた通り、物事の追求に果てなどなかったのだ。天平は藤枝に追われることで高みを目指しながらも負けたくないという緊張感を得ていたのかもしれない。藤枝は秋関予選で天平を下して彼と同じ立場になって、ようやくそれが実感できた。そのことは、誰に語るつもりもない、自分だけの秘密にしておこうと思う。天平が部室に来る最後の日だからこそ、これまでの柵を全て忘れたように送りだしてやりたい。それを天平がどう受け止めるかは分からないが、藤枝はそうして彼を送り出すことで、天平に囚われていた自分自身に折り合いをつけることにした。

だがそれは天平があの日言ったように、彼の姿を忘れる、ということを必ずしも意味しない。これまで競ってきた相手の姿は、忘れようにもはっきりと頭に残ってしまっていて、これから先も決して忘れることなどできるはずもないのだ。天平は誰にも代えがたい、最高の競争相手だった。意固地にならずに最初から認めてしまえばよかった。彼の代役などいない、と。嫉妬するほど醜い感情を抱えていたくせに、今まではそんな簡単なことができなかった。だからこれからはいっそ、彼の存在を、彼の姿を覚えたまま、もっと先を目指そう。そして天平が来年帰国した時、遥か彼方から今度はお前が俺を追いかける番だ、と言ってやるのだ。

 部室の分厚い金属製のドアが数回叩かれた。時刻は午後二時。部活開始時刻から一時間半経った今になってこの場に現れるとは、何とも彼らしい。最後の最後まで遅刻をしてきたのは、いつもの怠慢か、それとも何か理由があるのか。藤枝は食べ終わったミカンの皮をゴミ袋に入れ、用意したものをバッグから取り出し、今席にいる皆にそれを放り投げた。部室にいた全員が、各々向き合っていたものを素早く片付け、慌てて藤枝が投げ渡したそれを手に取る。準備は一瞬だった。ノックされた部室のドアが、ちわす、というやる気のなさそうな声のあとで、ゆっくり開く。

 瞬間。乾いたクラッカーの音が四方八方から響いた。煌びやかな歓迎テープと幾重にも連なる紙吹雪が、六ヶ所から同時に天平の頭へと降り注ぐ。ぽかん、と呆気に取られる彼を置いてけぼりにして、クラッカーを捨てた十二の手から、割れんばかりの拍手を送られた。

「せーのっ!」

『カズ! 留学、おめでとう!』

 口々に示される歓迎の声。そう、今日は彼が部室に訪れる最後の日だ。同時に、現部員全員でその門出を祝う日でもある。この日のために、藤枝は事前に彼の留学の話を全員に話し、それぞれに彼をもてなす方法を考えてもらっていたのだ。天平は部室を見渡している。壁に張り付いた留学を祝う言葉。殺風景だった天井に垂れる色とりどりの藤飾り。座る主を待ち受けていたお誕生日席には座布団が敷かれ、ゲームが置かれていた机に、菓子やジュースなどが並べられている。

「いやあ、カズ君水臭いよ。俺らに何も告げずに一人で留学しちゃおう、なんて」

 拍手が止んだあと、栗塚が用意した紙コップにコーラを注いで手渡した。おいしいミカンも用意してきたからね、と小声で言って、満面の笑みで迎える。天平はきょとんとしたまま、空いていたパイプ椅子に案内された。何が何やらわからない、と言った顔で着席する。

「せやで。あんたときたらこの期に及んでも遅刻してくるんやもんなあ。全く相変わらずしょーもない奴や」

 言いながら、既に桐原は机に並んだ菓子の袋を破り始めていた。キングサイズののりしおポテトチップスが、パーティ開きになって机の上に現れる。

「いや、イズミ先輩。ここはあれっすよ、ヒーローは遅れて登場するって奴ですよ。今日のヒーローはまさしくカズ先輩。そこを見越してあえて遅れて来たんでしょう、さすがって褒めておくべきっす」

「ショータ君。今日、遅刻しなくて本当によかったね」

「ああ、そうだね、今日遅れてきたら危うく俺も先輩と一緒に留学することに……ってそんなわけあるか! 大曾根さん酷い!」

 いつもの調子でショートコントを繰り広げる岩崎と大曾根が皆のクラッカーの空き箱をゴミ箱に捨てていく。難しい顔をしていた荒巻が、その様子を見ながら笑い、頷いて天平の肩に手を置く。

「主将の話を振った時にちゃんと理由を言ってくれればよかったのに。そういう所、いつも素直じゃないんだから。君はいい友達を持って、幸せだねえ」

 まだその言葉を飲み込めていないらしい天平は呆気に取られている。荒巻の視線が藤枝の方に向いた。つられて、天平もこちらを向く。何となく、藤枝は優しい笑いがこみあげてくる。

「藤、お前」

「そういうことだよ、カズ」

 続く言葉を聞かなくても、藤枝は天平が何を言いたいのか分かった。

「約束、破って悪いな。お前は勝手に来週からいなくなるつもりだったんだろうが、そう何度も、俺だって負けてられない。飲み会の段取りに関しては、渉外の俺が、一番よく分かってるってことだ」

 藤枝は椅子から立ち上がり、依然状況が呑みこめていないような顔の天平に近づいた。

「はい、これ皆から。大事にしろよ」

用意してきたものを手渡す。中心にセンターの撃ち抜かれた射撃的が貼り付けられ、その上に「留学おめでとう」の文字が躍る色紙。この日のために藤枝が皆に呼び掛けて作ってもらったものだ。買った時はスペースが広すぎて六人で埋めるには余るだろうかと思ったが、それぞれが送る言葉を自由に書き連ねたお陰で、今や殆ど余白がない。


 カズ先輩、留学おめでとうございます! 先輩のイケメンっぷりには毎度痺れました。海外に行って一層カッケー英語身につけて帰ってきて下さい。また部で会えるのを楽しみにしてます!

岩崎 翔太

 留学おめでとうございます。あっちに行っても、金髪碧眼の色白美女なんかに浮気しないで、遠距離でも桐原先輩と末永くお幸せに。(笑)

大曾根 真央

 カズ君、留学おめでとう。君が戻ってくる頃には僕らはもう部を引退するけど、いつかまたどこかで会えたら嬉しいな。そのときは一緒においしいものが食べたい!

栗塚 和馬

 留学おめでとう、カズ。海外でしか学べないことを、たくさん学んで帰ってきて下さい。カズのおかげで、もしかしたら再来年、留学生が勧誘できるかも?

荒巻 駿

 カズ、留学おめでとう。まさかあんたがこんな意識の高い奴だとは思わなかったけど、その分知らなかった新しい一面を見させてもらった。暫く会えなくなるのは寂しいけど、部は私と藤君に任せて、のんびりしておいで。海外の珍しいお土産、期待して待っとる!

桐原 泉


 それぞれの言葉が、思い思いの字で綴られている。時に荒々しく、ときに繊細な六人の字の癖が、色紙の空白を余すことなく使いきっていた。天平の目が、呆気に取られた様子でその個性豊かな文字たちをじっくり攫い、僅かに動く瞼に遮られる。何も言葉を発しない彼からは、まだ感情が読みとれない。

「向こうでも達者で暮らせよ。帰ってくるまで、俺がお前の残した会計と、来年の部を背負ってやるから」

 藤枝は思いがけない言葉が口から出たのに何となく恥かしくなり、すぐに席に戻って天平に背を向け、自分の分のジュースを紙コップに注いだ。天平はまだ話さない。ぼんやりと口を開いて、留学を祝福する部員一同と、手元の色紙を交互に見比べている。

「おおい、カズ! 今の気持ちを一言!」

 桐原が手でマイクを持つ真似をして拳を天平に突き出す。呆然自失だった天平は彼女の声ではっと我に返り、桐原を、岩崎を、大曾根を、栗塚を、荒巻を、そして最後に藤枝を見た。ふ、と顔が綻んだかと思うと、一瞬、部室に入ってからずっと忘れていた表情を取り戻したかのようにくしゃくしゃに笑い、俯いた。

「お前ら」

 声が震えていた。彼らしくない、何か耐えがたいものを無理やり押し殺しているかのような声だった。次に天平が顔を上げた時、部室にいる全員が、彼の瞼の裏から沸く雫に我が目を疑った。

泣いていたのだ。普段何者にも乱されることなく、堂々と自信に胸を張っていた、あの天平が。僅かだが、自分を祝う者に心を揺らし、僅かだが確かに涙を流していた。

「ありがとう」

 穏やかな笑い声が、彼の感謝に答える。一人粛々と涙を流しながら、天平は続く言葉を探そうとしたが、上手く言い切れずに戸惑っている。藤枝はそれを見て注いだ手元の紙コップを傾け、荒巻に合図した。合図に気付いた荒巻が自分の席に置かれたコップを持ち、皆を見回す。

「それじゃあ、主役も来たことだし。カズ君の留学を祝って……乾杯!」

 荒巻の声に合わせて皆が紙コップを合わせた。器に注いだ炭酸飲料を一気に煽ると、爽快な咽喉越しに乾いていた咽喉が震える。

「これから忙しくなるなあ、藤君」

 桐原が早速破いたポテトチップスに手をつけながら言う。天平が去る来週が終われば、すぐに月が替わる。おそらく、秋関本戦はその直後だ。十一月頭には大学祭も控えている。その会計を担当するのは、直々に天平から仕事を任された藤枝だ。大学祭には例年、テントで射的屋を催すことになっている。景品の駄菓子や目玉商品のゲーム、巨大ぬいぐるみ、道具であるエアガンやBB弾などの調達で、会計は何度も財布のやりくりを迫られるだろう。一年で最も大きく収支が動く時期に、仕事が回ってくることになったことは確かに厄介でもある。

「でも、迷ってる暇なんてないさ。やらなきゃいけないことは山ほど出てくる。今年も、それに来年もね」

 そうだ、と自身に言い聞かせる。立ち止まっている暇など、もう藤枝には与えられていない。天平の姿を忘れずに射撃に打ち込むことも、彼の残した今年の会計を完遂することも、現渉外として残りの数カ月を乗り切ることも、そして次期主将として皆を引っ張っていく覚悟を持つことも、これからは全てが求められる立場にある。もちろん、ここでの活動費を賄うために、バイトも続けなくてはならない。弱音を吐いている余裕などないだろう。天平だったら、と考える暇もない。秋関予選の射撃中と同じく、ただひたすらに目の前にあるものを片付けていくだけだ。あの僅か十メートルという、近くて遠い距離を埋めていくように、無心にあるがままに没頭し、突き進んでいくより他ない。

 別れを惜しむように部員と楽しげに話す天平に、自然と藤枝も顔が綻ぶ。何や藤君、今日は随分機嫌良さそうやね、と桐原にへらへらしながら肘で小突かれて初めてそれを自覚した。

「そうかな?」

「せや。何か、迷いがなくなったみたい」

藤枝は笑う。曖昧にではなく、今感じている喜びを最大限に表現するように、大口を開けて笑った。いきなり人が変わったように感じたのか、桐原が大きく目を見開いて驚く。悪い悪い、と謝り、しかし実際に迷いがなくなったことでこんな自分が出せるのが桐原にさえ筒抜けになっていたのが、おかしくてたまらない。今の自分を見たら、少し前までの自分はどう思うだろうか。何そんなくだらないことでいちいち大騒ぎをしているのだ、と馬鹿にするだろうか。それとも天平にすっかり絆されたことに、また嫉妬を募らせるだろうか。だがこのくらいでなければ、おそらく天平の色紙に、あんなことは書けなかっただろう。それどころか、彼との約束を従順に守り、誰にも事実を伝えずに一人の旅立ちを見送っていたかもしれない。彼との約束を破ってまで皆に知らせたのは正解だった、と藤枝は珍しく楽しげな天平の表情を見て、思う。その選択には、まるで後悔がなかった。きっとこの天平の笑顔も、これから先、ずっと覚えている。憧れてやまなかった彼との距離を、今はもうすぐそこに感じている。


留学おめでとう、カズ。いろいろあったけど、お前と高校の時からここまで一緒だったのを、最後の最後でよかったと思えたことが、俺はとても嬉しい。帰ってきたらまた同じ大会で一緒に撃とう。それまで部の運営は俺らに任せて、向こうに行っても元気でやってくれ。改めて、今までありがとう。来年の終わりにまた会おう。

藤枝 隼人

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