第八射撃/秋関予選
夏休みが明けて、秋の関東大会予選会。会場である埼玉県長瀞射撃場では前日までの刺すような日差しはすっかり曇天の雲に覆い尽くされ、気温の低い日となった。湿気を多く含む空気がじめじめと体にまとわりつく。山間に位置する射撃場の天気は良くもなく悪くもなくといったところでコートを着て競技に臨む選手たちにとっては寧ろこのくらいがちょうどいい。一同が会場に着いたころには、既に各校の選手団がうちっぱなしのコンクリートに腰をおろして仕事や射順についての話し合いをしていた。他の部員たちが同じように話し合いやお喋りに興じている間、藤枝も天平も必要なこと以外は殆ど話さなかった。桐原と三年の二人は、各々慣れ切った準備に手際よく取り組んでいる。天平と藤枝は、お互い特に言葉を交わすこともなく同じ射郡に臨んだ。
射撃開始のアナウンスと同時に藤枝は銃を構えた。サイトを覗いた先にいつものように潰れた饅頭みたいな黒い小さな点が見える。本射前の試射は無制限。用意した的四枚に蜂の巣のように穴が空くまで、何度でも試し撃ちが出来る。が、撃ち過ぎて本射の精度が落ちるようでは意味がない。試射はあくまで足位置を決めるために必要な練習であって、一枚に掛ける時間や後に残す体力などを考えながら撃つことが大切だ。意識を前に向け、照準がはっきりと黒点を捉えるまで待つ。腕は下げ過ぎず、上げ過ぎず。引き金を引く。パコン、と乾いた音と同時に、突き飛ばされた時のような衝撃が腕に訪れる。試射では時間短縮のため、一発一発を確認することはない。電動射撃機のスイッチで的を射座まで戻す前に、もう何発か撃っておく。空気銃のレバーを引いた。玩具のようなカチャという音に続き、銃上部のラッチが開く。グローブをしていない右手で鉛の弾を詰める。銃を構えてサイトを覗く。先に見える、潰れた饅頭みたいな黒点。照準が少し高い。グローブ越しに伝わってくる銃の重みに少しだけ左手を委ねる。照準が下がった。が、今度は低すぎる。これではセンターどころか八点圏内にすら収まらない。銃の重みに逆らうようにして左手拳に力を入れる。まだ低い。支えの右手で銃身を脇に引きつけ、固定した。再度、円筒の穴を覗きこむ。丁度照準の中に収まっている、黒点。これなら行ける。右手の人差指を動かす。パコン、という乾いた音。衝撃に対して、姿勢は安定している。上手く撃てたかもしれないが、結果を確認するのはあと何発か撃ってからだ。今のポジションはよかった。この流れに任せたまま、撃ち続けたい。銃を引き寄せ、立てた膝に銃床を当ててレバーを引く。カチャ、と玩具のような音。鉛弾を詰め、ラッチを閉じる。銃床を肩につけて構える。照準は、丁度黒点を捉えている。このまま撃てば、おそらく真ん中に行くはずだ。
もう一発、二発と撃ちこみ、試射的一枚に五発撃ったところで、藤枝は的を射座に戻した。九点圏に小さめの二つ、十点圏に大きめの穴が一つ空いている。暴発した覚えはない。センターにどれだけ当たったかはわからないが、中央の大きな穴は、九点圏以外の三発が抜いた痕跡である。どうやらかなり正確に撃てたようだ。おそらく先の姿勢を保ち続ければ、自ずと銃を持つ手も固定され、安定的に十点圏に撃ちこめる。
これならば、天平を凌ぐことも夢ではないかもしれない。
藤枝は無我夢中で残りの試射的を撃った。呼吸に乱れはない。機械のように正確にまっすぐ、銃弾は的の十点圏に飛んでいく。的を戻すと悉く真ん中に大きな穴が空いていた。本射に入ってからもそれは何等変わらなかった。一ミリに満たない的の中央を、重い銃から放たれた五ミリない銃弾が正確に貫き、十枚終わった第一シリーズの成績は、九点圏が一枚、残りはすべて十点圏もしくはセンター。シリーズ得点は、百点満点中の九十九点。
不思議と銃と一体になっているような感覚に捉われる。肩から脇へ、脇から胸へ、胸から腕へと筋肉の流れに沿って出来た空間に、ぴったりと、まるでそこにあることが自然であるかのように、銃が体に張り付いている。ここまでは息の乱れも体の疲労もない。藤枝は無心で標的に向き直り、姿勢を固定した。一発、二発と、吸い寄せられるように弾は的の中央へと向かう。電動射撃機のボタンを押して戻ってきた的は、またセンター圏が射抜かれている。まるでそれが当然であるかのように、何度撃ってもセンターが抜かれた的だけが戻ってくる。銃を撃つ時にあるのは、ただの無心だった。
藤枝はそこで何度も目にしてきた潰れた饅頭のような黒点の前に、無心で銃を構えていた。もうあの黒点も怖くない。はっきり目に写る一瞬のうちに、人差し指に僅かな力を入れて、それを蹴散らしてしまえばいい。考えるまでもなく体を動かす。誰かが、例えば天平がいるから、自分は射撃をやっているわけではない。あくまで彼は目標だったのだ。自分が本当にやりたかったことは、無心で銃を構え、あの潰れた饅頭のような黒点をひたすら撃ち抜くことだけ。何百発、何千発も撃っても届きそうにない、気が狂いそうになるほど遠い遥か彼方の十メートルの距離の前に、ただ無心で立ち、銃を構え、的を射抜く。
藤枝にとっては、それが射撃だった。無心に銃を持ち、目の前の的を射抜くことだけに集中する。そうしているうちに、徐々に自分の中にある何かが忘れられる気がした。自分と相対して留学すると言った天平の表情も、人を食ったように笑みを浮かべる彼も、全て射抜くことによって忘れられる気がした。あるいは投影と言ってもいい。これまでの自分を的に投影し、それを射抜くことによって自分の馬鹿げた以前の嫉妬を払拭出来る気がした。それは悪く言えば、依存。例えば人、例えば物。何かに集中している時だけ、今の悩み事から解放される。その瞬間、心の底から、銃と射撃が好きになれる。他の皆が、例えば天平が、何を思って射撃をしているのかは知らない。知らないが、藤枝にとっての射撃は、自分を投影してそれを撃ち抜くもの、他人を投影してそれを撃ち抜くもの。あるいはもっと別の、単純に真ん中を射抜いた時の快感。何十発撃っても、何百発撃っても、決して射抜かれそうにないあの真ん中が、初めて射抜くことが出来た時の快感。そして今は、それをただひたすら繰り返していく。
人に依存できないなら、と藤枝は思う。物に依存すればいい、ひたすら物に依存してやる。射撃にのめり込んで、何もかもを忘れるこの瞬間だけ、無心で前を向いて引き金を引き続ける。変わらず弾はまっすぐ的を射抜く。隣でパコンと空気の抜ける音が聞こえても、カタンとレバーを引く音が聞こえても、それが気にならないくらいに今は自分のペースを保つ。無心に、ただ無心にレバーを引き、弾を詰め、前を向き、引き金を引く一連の動作を繰り返す。十点、また十点と点数が上乗せされて行くが、最早それも気にならない。冷めた頭がただ動作を繰り返すことだけを欲して体を動かす。空っぽの状態が、最高に気持ちが良い。前に銃を向けて引き金を引くことが、最高に心地よい――
それが競技中、ただひたすらに藤枝が感じたことだった。気付けば第六シリーズ、時間にして一時間十五分はあっという間に終わっていた。コートに絞めつけられた腕、胸、足を解き放つ瞬間、いつもならばまるでさなぎが羽化するかのように感じていた解放感が、今はただ名残惜しいとさえ思った。このまま姿勢を固定して、まっすぐに弾を撃ち続けても、おそらく体は疲れないのではないか。その証拠に、呼吸一つ乱れていない全身が、もっと撃ちたい、もっと先を目指したいと訴えている。的に投影された自分や天平を、無心で貫き続ける快感にうち震えている。首や脇を伝う汗が、心から湧き出る熱に蒸発するような気分さえする。
興奮冷めやらぬ藤枝の後ろで記点を担当していた他校の学生の目が、合計得点を計算しながら僅かに大きくなったように見えた。それが良かれ悪しかれ、何点でも構わない、と藤枝は思った。今は、今この瞬間だけは、純粋にただ競技を楽しめた。純粋に射撃に没頭できた。それで十分だったのだと分かった以上、他の何を意識する必要もないのだ。
同じ射郡の選手たちは、まだ殆ど射撃の途中だった。控室に戻るときに天平の射座を見たが、彼も藤枝が終わった直後、まだ射撃を終えていなかった。